ベイビーブルー

 その人を認識したのは高校二年生の春。一年の頃から同じ学校にはいたはずだが、関わりがなかったので全く知らなかったのだ。


 サッカー部の練習中、コートの端にちょこんと立っていた彼は、細くて小さくて可愛くて、入部希望の一年生かと思ったけれど、明らかに私服姿で違和感を覚える。

 誰だか知らないが、そんなところで危ないなと気になった。

 全力で走ることをためらう自分に何ともいえない気持ち悪さが溜まっていき、集中できない。


「今日からサッカー部の顧問をすることになりました、生物の桜木です」


 目の前でそう告げられたときは唖然とした。

 スポーツとは全く縁がなさそうな華奢な体と白い肌。

 これまでの顧問が定年間際の年齢にも関わらず驚くほど屈強で厳しかっただけにそのギャップが激しすぎる。


(ありえねえだろ)


 新入生と見間違えてしまうほどの可愛らしさなのだ。この人にしごかれるなんてことは想像もつかない。

 ちょっと強く触れただけでも折れてしまいそうなのに。

 サッカーなんてできるのだろうか。

 もしかしたら名前だけの顧問なのかもしれない。サッカーのさの字も知らなかったとしても、顧問がいなければ学校の部活は成立しない。試合にだって出られない。そんなわけで押し付けられただけかもしれない。


(だったら顔なんて出さなくてもいいのに)


 胸の中がざわつく。イライラする。

 なんだろう、コートの端に桜木を見てからずっと、おかしい。


(頼むから、近づくな)


 嫌いだとか生理的に受け付けないとか、そういうことではないのだけれど。

 ろくに知りもしないのにそんなことを思う自分に嫌悪する。



 思えばそれは、ある意味一目惚れのようなものだったのかもしれない。

 近くにその存在があるだけで気になって気になって集中できないのだ。

 こんなことは初めてだ。

 元々器用に人付き合いができる方ではないけれど、こんな風に一方的な思いを抱えるなんてことはなかった。





 そんな桜木とも出会って数ヶ月が経ち、夏休み頃になるとずいぶん打ち解けるようになった。

 なぜだか桜木は必要以上に俺を構いたがるのだ。最初に頑な態度をとったせいかもしれない。懐かない犬をなんとかして手なずけてやろうと、そんな気持ちなのかもしれない。何かというと俺の顔色をうかがったり話しかけてみたり、ニコニコと近寄ってくるのだ。


 初めはその度に心がざわついていたけれど、最近ではサッカー中でなければ何ともないことに気がついたし、サッカー中でもだいぶ平常心を保てるようになった。桜木が俺に言われた通り必要以上に近づかないように気を配ってくれているからかもしれない。

 だけど、やっぱりその下級生にさえ見える可愛らしい顔にも、壊れてしまいそうな華奢な体にも、すぐにどぎまぎしてしまう。

 嫌いじゃないけど、むしろ気に入っているのかもしれないけれど、それでもやっぱり苦手だ。自分のペースが保てないのが嫌だ。







 下校時刻がすぎ、人気のなくなったグラウンドをぶらぶらと横切ると、向こうの方によろよろと動く人影が見えた。


(あれは…)


 こんな遠くから揺れる影を見ただけであれが桜木であると判断できる自分に苦笑した。嫌いと好きは紙一重、興味があるからわかってしまうのだ。

 いくつかのボールを抱え、時折落っことしながら歩いている。


(ああ、もうっ)


 いらっとしながら俺は手に持ったスポーツバッグを肩にかけ直し、桜木のもとへ駆け寄った。

 抱えたサッカーボールのせいで前もろくに見えていなかったのだろう、俺がその手からボールを取り上げると桜木は驚いた顔をして「わっ」と小さく声を上げた。


「何、してんすか?」


 つい、怒ったような物言いをしてしまい、心の中で反省する。いつだってこんなしゃべり方しかできない。この人の前だと特にそれは顕著だ。


「あ、稲田くん、まだ帰ってなかったの?あっちの方にこれ落ちてたから片付けようと思ってね」


 一年生がしっかり球拾いをしなかったらしい。桜木が抱えていたボールは全部で5つ、それに持ちきれなかったらしいボールを一つ足で蹴っていたから合計6個。こんなにもどこで見落とすというのだ。ちっと舌打ちをすると桜木の目が泳いだ。


(しまった、俺、先生にいらついているみたいに見えるな)


 そう思ったけれど、だからといって訂正するのも変な感じだし、第一何を言ったらいいのかもわからない。

 無言のまま桜木の抱えるボールを二つ三つと取り上げて自分で抱える。


「手伝ってくれるの?」

「元はと言えばこっちの仕事だし」


 自分たちの使った物を自分たちで片付けるのは当たり前のことだ。先生の手を煩わせること自体が間違っている。


「ていうか、俺が片付けるから、それ全部乗っけてください」

「いいよ、二つぐらい持って行くから一緒に片付けよう?一人でそれだけ持つのは結構大変だから」


 俺だったらそれほど苦労しないと心の中で思ったけれど、「三つずつね」なんて言って嬉しそうに笑う桜木を見たらわざわざ抵抗する気もなくなる。

 俺の手に三つ、桜木の手に二つ、そして蹴っていた一つはそのまま桜木が蹴って行くつもりらしい。不器用に蹴りながら進み始めた桜木を追って、横からそのボールを横取りする。


「あっ」

「先生、へたくそ」


 ボールを蹴るのは俺の専門だ。これで俺が4つで桜木が2つ。これぐらいのバランスでちょうどいいと思う。


「現役選手には敵わないな」


 かつてやっていたみたいな口ぶりで言うが、サッカー経験は小学生のお遊び程度にしかないらしい。多分、高校に入ってからサッカーを始めた一年生の方がもっとましにボールを蹴るだろう。


「僕もみんなと一緒に鍛えてみようかな」


 そんなバカなことを言い始める桜木に、ダメだと怒鳴りつけそうになって、すんでのところでこらえた。近くに寄るなと言ったのに。練習に混じったりなんかしたら冗談抜きで壊れてしまいそうだ。


「冗談だよ。みんなの邪魔になるだけだってわかってるから」


 そんな怖い顔しないでよねと、桜木は俺をまねて眉間にしわを寄せてみせる。桜木の可愛らしい顔では怖くも何ともないけれど、あんな風に威嚇していたのかと思うと少し自己嫌悪する。

 別に怒ろうと思っているわけではないのに。むしろ、しまい忘れていたボールを拾ってくれた桜木にはキャプテンとして感謝しなければいけないのに、ありがとうの言葉一つ紡げない。

 もっと、素直に自分の思いを伝えられたら、桜木との関係も良好になるのかもしれない。

 わかっていても自分の性格上どうすることもできない。

 どうしようもなく不器用で、いつだって後悔するばかりだ。

 そんな俺の態度に不満の顔一つ見せずいつでも楽しそうに相手をしてくれる桜木は、見た目はこんなでもやはり大人なのだと思う。人間的心の余裕がたっぷりあるように見えて、それがまた自分の狭量さを際立たせてイライラが増す原因でもあるのだけれど。


 荷物が少ない桜木が倉庫のドアを開けて、俺は苛立ち紛れに蹴っていたボールを行儀悪くそのまま蹴り上げてカゴに放り込んだ。


「わ、すごいね。さすがのコントロールだね」


 桜木はそれをとがめるでもなく子供みたいに目を輝かせると、自分もできると思ったのか手に持っていた一つを足下に置いて俺と同じように蹴り上げた。

 けれど、そんなに簡単にうまくいくはずもなく、ごちゃごちゃした倉庫内をあっちへこっちへと跳ね回って最終的には奥の方に入って行ってしまう。


「…ったく」


 ガキかと心の中で毒づきながら、俺は入り込んで行ったボールを拾いに行く。誇りっぽい隙間に体を突っ込み拾い上げると、今度は丁寧に手でカゴにボールをおさめた。


「ご、ごめんね。ついやってみたく…」


 申し訳なさそうに謝った桜木だったが、俺を見てぷっと笑う。

 近寄ってきた桜木は、手を伸ばして俺の頭を優しく払う。


「真っ白になってる」


 近寄ると、俺より少し背の低い桜木は下から見上げるような視線の角度になり、その顔に意図せずどきりと心臓が跳ね上がる。何だろう、急に、色気を感じるなんて。


「っ平気だから」


 動揺して思わずその手を払いのけてしまった。

 一瞬桜木が悲しそうな目をしたのに気付いたけれど、それどころではない。

 気を紛らすように頭と制服を適当に手ではたき、砂と埃を払い落とす。


「さ、片付け終わり。ご苦労さんだったね、史哉くん」


 重たいドアを閉めた桜木は不意に俺を下の名前で呼ぶ。驚いてつい、逸らしていた目をまじまじと見つめてしまった。そんな風に今まで呼ばれたことはないのだ。


「あれ?だめだった?」


 どういうつもりでそんな風に呼ぶのか、桜木の表情からは全くわからない。たいした意図もないのかもしれない。だけど、なんか少しドキドキするのはなぜだろう。友達にはそんな風に呼ぶ奴だっているし、べつになんてことないはずなのに。


「…なんか…ひいきとかされてるみたいに、見えるから…」


 桜木は友達じゃなくて先生だから。

 人の目なんて普段気にする性格ではないけれど、そんないいわけじみたことをこぼした。


「そっか。そうだよね。僕ね、子供の頃フミヤ大好きで、フミヤって名前の奴がすっごい羨ましかったりしたんだよね。あ、今の子でも知ってるかな、フミヤ。歌手のさ」

「あ、まあ、わかりますけど」

「わかる?よかった。フミヤって名前に無条件でときめくんだよね」


 桜木はちょっと照れたように笑って、俺はまるで自分のことを好きだと言われているみたいな錯覚に陥り、目を逸らした。


「たまに、二人だけの時に呼ばせてね」


 俺の返事を待つこともせず、桜木はじゃあねと妙に上機嫌で背を向けた。

 残された俺は、急に力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。

 どうしてこんなに気持ちが揺さぶられるのだろう。

 あの人と話していると、いつも自分を見失う。

 感情を表すのが下手な俺を人は冷静だなんて言うけれど、本当は、内側はこんなにもめちゃくちゃに猛り狂っている。

 行き場のない感情が俺を苦しめる。

 いやなんだ、こんな風に、心が落ち着きなく跳ね回るのは。

 だけど、俺をこんな風にするあの人が気になって仕方がないのだ。

 天敵とも言うべき苦手な彼を思うそれはどこか恋にも似て。

 心臓のドキドキが止まらないのだ。



<終>

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モノシリーズ外伝 月之 雫 @tsukinosizuku

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