いつかの過去から、君へ。
あれからしばらくの時が流れて、季節は春。暖かい春の日差しに照らされた街並みは、普段よりゆっくりと時間が流れているように見えて、朝音は軽く息を吐く。
「…………」
朝音はただ静かに、窓の外の景色を眺める。真昼は今日から学校で、朝から家を空けている。朝音も今年から大学に復学することになったけど、今日は授業をとっていないので、彼女は朝からずっと外の景色を眺め続けていた。
「……早く帰って、来ないかなぁ」
誰ともなしに、そう呟く。……朝音の記憶は、まだ戻っていない。あの旅行から、朝音と真昼は色んなことをした。不安から目を逸らさず、ちゃんと向き合って2人で前に進む。そう決めて過ごしてきた日々は、朝音にとってどうしようもないくらい幸福な日々の連続だった。だから彼女の胸の内に巣食う不安は、少しづつ和らいでいった。
……でもまだ、記憶は戻らない。朝音はまだ、怖かった。積み重ねてきた幸福な日々も、記憶が戻ったら全部それに上塗りされるんじゃないかって、彼女は不安だった。
だから彼女はまだ、伝えていない。自身の記憶の在り処を。
「きっと、桜なんだろうな……」
自分の記憶は、桜の下に横たわっている。朝音には何となく、そんな予感があった。
真昼と初めてあの自然公園を訪れた時、朝音は思った。何だか懐かしい、と。そして同時に、ここにいちゃダメだ、と。
だからきっと、そこにあるのだろう。朝音の記憶が。だってその切ない叫びは、彼女が最も苦手に思う感情だから。
でもどうしても、朝音はそれを言い出せずにいた。
……だってまだ、怖いから。
「でも、もういいのかもしれないな……」
時間が経てば経つほど、真昼への愛情が深まっていく。そして愛情が深まれば深まるほど、それを失くすのが怖くなってしまう。過去の記憶が、今の自分の想いを塗り潰さないか、彼女は不安で不安で仕方がなかった。
……でも、どれだけ想いを重ねても、どれだけ記憶を積み重ねても、真昼への愛情は揺らがなかった。
朝音が記憶を失くしてから、1年近くの時間が流れた。その間に、沢山の楽しい思い出を重ねてきた。なのに真昼への愛情は、薄まるどころか深まるばかりだ。
なら、過去の想いや記憶を思い出したとしても、この愛情が失くなる筈は無いんだ。……いや、逆にもっともっと深まるだけかもしれない。
「……でもどうしても、踏ん切りがつかないんだよなぁ」
「この前、皆んなでバスケをした時も、摩夜ちゃんハイタッチするふりして、真昼くんに抱きついたりしてたし……。ほんともう、困るよ」
しかしそんな言葉とは裏腹に、朝音の顔には軽い笑みが浮かんでいる。
どんなことがあっても、真昼は自分の側に帰ってきてくれる。朝音はそう、信じられるようになっていた。
……そして、ほんの少しだけど、皆んなと遊ぶのも楽しな、と。朝音もそんな風に、笑えるようになっていた。
「……ふふっ」
朝音は意味も無く笑みを浮かべて、静かなな街並みから視線を逸らす。そしてほとんど無意識に、机の引き出しを開けてみる。
「……昔の私、バカだったんだなぁ」
机の中はまるで子供のおもちゃ箱みたいに、ゲームソフトや漫画、キーホルダーや人形なんかが詰め込まれている。それはどう見ても、大学生のものとは思えない。
……でも何となく、朝音はそれを片付けられなかった。それを見ても、なんの思い出も感じられない筈なのに、何故かとても大切なもののように思えてしまって、彼女はどうしてもそれを片付けることができなかった。
「…………あれ? なんだろ? これ……」
机の引き出しの奥の方に、とても大切そうに折り畳まれた1枚の紙切れが置かれていた。それは一見、ただのノートの切れ端。でも朝音は、どうしてもそれが気になって、その紙切れを机の奥から引きずり出す。
そして朝音はその紙を開いて、中の文字を確認してみる。
「優しくて、明るい女の子。……なにこれ?」
紙にはただそれだけが、書かれていた。
……今の朝音は知らない。それはいつかのデートごっこの時に、真昼が朝音に渡した紙切れ。朝音はそれを元に、あまねという少女を演じたけど、今の朝音はその事実を忘れてしまっている。
だから今の朝音にとって、この紙切れはただの紙切れでしかない。
「…………」
だから朝音は、なにこれ? と小さく首を傾げて、その紙切れを元の位置に戻そうとする。
しかし、春の眩い陽の光が、小さな悪戯を起こしてしまう。
「────」
ノートの切れ端に書かれた、丁寧で几帳面な文字。
優しくて、明るい女の子。
その文字の下に、一度、消しゴムで消した文字の跡が残っていた。それが春の日差しのせいで、ちょうど朝音の目に入ってしまった。
優しくて明るい、姉さんみたいな女の子。
それは1年越しに届いた、とても小さなラブレター。記憶を失くす前の朝音でも気がつかなかった、精一杯の真昼の愛情。
「ふふっ。ずるいなぁ、真昼は……。こんなことされたら、寝てられないじゃん」
朝音は先程よりもずっと丁寧に手紙を折り畳んで、それをまるで宝物のように机の奥にしまい込む。
そして朝音は、歌い出すくらいの上機嫌で自分の部屋を後にする。
「ただいま」
そしてふと、階段の下からそんな声が響く。だから朝音はますます上機嫌で、階段を駆け降りる。そしてそのまま花のような笑顔を浮かべて、真昼に向かって声をかける。
「ただいま、真昼」
「────」
真昼は朝音のその言葉を聞いて、一瞬、目を見開く。でも彼はすぐに優しい笑みを浮かべて、当たり前のように言葉を返す。
「おかえり、姉さん」
遠い空で、桜の花が優しく空を染め上げる。それは空から空を渡って、まるで人の想いのように遠い未来へと羽ばたく。
そうして世界は、続いていく。
辛辣な妹から距離を置きつつ、甘えさせてくれる姉に全力で甘えたらどうなるか検証してみた。 式崎識也 @shiki3
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