雨降る夜に、鳥は囀り。
湊歌淚夜
第1話
彬が死んだ。そう聞いたのは早朝かかってきた1本の電話であった。警察のやけに落ち着いている、むしろ感情が壊死して腐り落ちたかのような抑揚のない声に幸せの終わりを告げられたのだ。
こういう時、僕が仮にドラマという囲いの中にいたとしたら泣き崩れる場面だろう。いや、そうでなくても溢れ出す濁流に飲み込まれるていつの間にか地面が解けて立つこともままならなくなるのだろうかという妄想があったが、それは杞憂に過ぎなかった。今頃頬を伝うはずの涙はあの日、別れ際に流しきってしまったようだ。
「ちょっと組長に久方ぶりに呼び出されてなぁ」
「気をつけてよね」
後頭部をかきながら、彬はこちらを見た。サングラスの奥から覗く薄汚れてしまった瞳はしっかりと自分を見据えている。出会った頃より余計に皺と傷が増え、魅力的に見えた。それはもしかしたら彼が魔法使いだった確かな証拠なのかもしれない。
サングラスの下で彼の目が細められた。体の奥底で熱が込み上げてくる。離れたくないなぁ、そんな一言は静かに熱の底の方でじんわりと溶かされてしまった。
僕は机に突っ伏して、時間に身を委ねていた。がらんどうになってしまったマンションの一室が妙に広く思える。いつものざわつきはもうこの部屋には残っていなかった。いないことははっきりと分かっているけど、彬は突然にでも帰ってきそうな気がしてしまう。サングラスの下で細められたあの作ったような笑顔で、酒に酔ってフラフラと。彼は蝶のように掴みどころがない。近づいたのかと思えば数歩先にいるような人だった。
「はぁ……。」
時間の流れがいつにも増して緩やかだった。彬が帰ってくるのならその退屈な時間はビデオが早送りされるようにすんなり流れてしまうのに。
じわじわと湧く、違和感。いない人を待つ心を、蝕んで気を重くさせる。このまま体全体をその重さに呑まれて石にでもなれてしまったら、と絵空事を描いていた。
ピンポーン。
最後に聞いたのはいつだったか。隣の部屋のチャイムだろうと思うことにして、ダンマリを決め込んだ。当分一人でこの感傷に浸っていたかった。とはいえこの重みは氷のように時間が溶かしてくれるほど軽いものとは到底考えられない。誰かがそばにいて欲しかった。その誰かはもういないけれど少しだけ信じていたい。突然にドアが開いた。僕の悩みなんてまるで知られていないかのような乱雑さがあった。
「よっ、……って今そんな雰囲気じゃないっすね」
「いいよ、狭いけど上がってきなよ」
彬の後輩で僕の一個下、真志田くんはいつも通りちゃらんぽらんに接してくれると思っていた。とはいえ状況が状況だ。いつも兄貴と呼び慕っていた人の突然の訃報だから、彼の声からもその落胆具合は容易に窺い知ることが出来た。
ポットでお湯を沸かしながらぼーっと台所に立っていた。こうやってあの人のためにもう食事を作る機会が無い。そう考えてまた気が重たく感じた。軽くため息をつく。
真志田くんは机に肘をついてぼーっと彬の部屋を眺めている。
「いいよ、あの人の部屋入っても」
「……いや、構わないっす。俺にはこれくらいの位置がお似合いなんで」
僕は彼の真剣な顔を初めて見て、思わず吹き出しそうになった。いつもなら彬に尻尾を振る可愛らしい側面ばかりしか知らなかったから、そのまま呆然と見つめてしまっている。
「高崎さん、お湯、吹きこぼれそうっすよ?」
その声にはっとなった。危ない、と思った時には真志田くんが火は止めてくれていたから火傷せずに済んだ。
「……高崎さんは休んでてください。辛いときは頼っていいんすよ?」
「……でも」
彼の声はいつにもなく震えている。聞いたことがない声色に、心が縮む思いだった。でも同時にその言葉のおかげで少しだけ、心は軽くなった。
「言っちゃ悪いっすけど、高崎さんって馬鹿なんすね」
ワントーン声音を落として、真志田くんに言い放った。僕は冷たい水を顔にぶっかけられたように、体を強ばらせる。至って真剣な眼差しを向けられて、反論の余地すらないまま彼の言葉を鵜呑みにするしかできそうになかった。
「とりあえず、俺がお茶淹れるんで座っててください」
真志田くんは僕を台所から追い出した。その力はちょっとやそっとで押し返せるものでは無い。追い出されながら、ふと彼から感じるあの人の残り香が僕を感傷に浸らせる。まだ鮮明な過去の切り口から漂う生きた匂い。それが徐々に朽ちていくという紛れもない事実に、自分の心も腐ってしまいそうだった。
テーブルとセットで買った、僕が腰かければ少し足が浮くくらいに高い椅子に座り、机に突っ伏した。未だに脳内をグルグルと巡り、自分を傷つけんばかりに尖ってしまった思い出が少しづつ心の内側を炙っていくような、長い自殺行為から逃げられなくなっていた。忘れてしまえれば楽だろうけれど、それを容易にできるのなら恋なんかとうに諦めていただろう。人間ってつくづく諦めが悪いななんて冷笑的な考えが泡沫のように浮かんで消える。
「高崎さん」
ゆっくりと後ろから声がかかって、思わずひゃい!、と裏返った。顔を上げると、湯のみが置いてあり、ゆらゆらと湯気が上がっている。現実に引き戻されて、ため息がほっと出てしまった。
ぼんやりと脳の内側は綿あめのようなものに満たされてしまって判然としない。そこでやっと自分が眠ってしまっていたことに気がついた。自宅とは言え、他人がいる状況で無防備に眠ってしまった。その事を考えると妄想が脳から溢れて、顔が熱くなる。
「何もしてないよね……?」
と反射的に声が出てしまう。真志田くんは真顔でいたけれど、それも長くは続かない。少しづつ表情が崩れて、耐えきれないと言わんばかりに口元を抑えた。肩を震わせている彼を見て、僕は頬をつねりたくなるのをぐっと飲み込んでやり過ごす。
「え?なにか期待してたんすか?」
想像力が余りにも突飛すぎたと自分を憎らしくも思ったけれど、多分真志田くんは僕をおちょくっているのだろう。彼をじろりと睨みつけて、無言の反論をしてみた。
真志田くんは僕の頬を何度もつついて、その反応を伺っているようだ。何となく好奇の目を向けている風に思えて、僕はただその表情を見つめるだけでだんまりを決め込んでみた。
「……もしかして拗ねちゃった?」
「拗ねてないわ!」
僕はついに我慢できずに反論した。確かに他の人よりは少し背が低いことは自覚しているけど、それを他人から言われるのだけは何より嫌いだった。彬にすら付き合って1年くらいしてやっと許せたことだから、いくら真志田くんだとしてもそれだけは譲れない。
「高崎さん……可愛いとこ……あるんですね……」
腹を抱えて、ギブアップだと言わんばかりに手を上げて何かを静止する真志田くんを見て僕は体の熱が上がるのを感じた。その感覚は随分と久しいもので、でも彼に対して抱くことはないと思っていた。
その感覚を果たしてあの名前で呼んでいいのか分からなかった。喪ってすぐなのだ。僕だけがすぐに幸福を手にするのは、誰かから後ろ指をさされている気がして認めたくない。グルグルと脳裏を巡る問いに答えを与えられないまま、また時間を食いつぶしてしまいそうで、お茶をすすって誤魔化した。
「じゃあ僕はこの辺で」
と真志田くんは申し訳なさそうに呟く。彼にも仕事があったり、もしかしたら家族なんかがいるのかもしれないから。そんなことをぼんやり考えていると、僕の脳裏にはあの人の言葉がまるでその場にいるかのように再生された。
『俺ら半端もんを好いてる奴らはいてもよ、いくらこっちが好きでもな。……でもな、そいつには添い遂げらんねぇって、重っ苦しい枷背負ってもらわなきゃなんねぇ。ま、専ら?そんな奴は相当にイカレポンチだろうな』
苦笑い混じりで言ってたあの言葉は確かで、今だって僕はこうやって枷のようにあの時に縛りつけられていた。
ドアがばたりと閉まった。真志田くんと話していた時はそうでも無かったけど、よりその重たさを増していく。身体の力が抜けて、その場にへたりこんでしまう。何かの堰が突然なくなってしまったように、耐えていたはずのものが涙に換算されて溢れてきた。手で拭いてもどうも簡単には落ち着きそうにない。
「あ、すんません……忘れ物を……って、高崎さん?」
真志田くんの声に、その心配げな声に気がついて僕は顔を上げる。彼の目は蝋燭の火みたいに冷静さを欠いているように思えた。
「……大丈夫、大丈夫だから」
僕は真志田くんが手を差し伸べようとするのを払い、ゆっくりと立ち上がった。彼は俯いて立っている。
「『大丈夫って言葉は、どんな奴に言われても信じるな』……でしたっけ」
脳内の復唱と重なるように、真志田くんはそう呟いた。偶然にしては出来過ぎているようにも思うけれど、それは多分偶然だ。
彼だってあの人の背中を追って今ここに居る。だからその言葉にはどこかあの人の匂いがこびりついていた。その匂いはいつも誰かを惹きつけてやまない、花の蜜のような甘さ。しかし、その奥で静かに時を待つ鋭利な毒味がある。
その瞳はあの人に似ていた。蛇に睨まれたかのように、心がきゅっと締め付けられる感覚がした。
雨降る夜に、鳥は囀り。 湊歌淚夜 @2ioHx
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