第8話『雨過点晴』

8月の夕立は大粒で、遠くからやってくる

嫌な色の雲が雨の匂いを連れてくる。

気だるい蒸し暑さをさらに増幅させる湿気を含んだ空気は、

登紀子の両肩にさらに重くのしかかった。


彼女は少し駆け足になりながら通りの家々の軒先に逃げ込んだ。

すぐに雨雲は追いつき、滝と見まごうばかりの雨を降らせる。

かろうじて雨の当たらぬ軒下で難を逃れた登紀子だが、


「こんな雨に降られるなんてついてないな」


そう言いたくなるのには訳がある。

彼女は先日妊娠している事がわかったのだが、

父親となる男は彼女に堕胎を求めた。

男は既婚者だったのである。


登紀子は絶望に打ちひしがれながらも言われた通りに

産婦人科へと向かい、今はその帰りだ。

彼から言われたのだから仕方がない。

でも私は一体何をしているのだろう。

きっとこの雨も私への嫌がらせなのかもしれない。


ふと隣を見ると軒下にもう一人避難した人を見つけた。

どうやら登紀子の母親くらいの年齢の女性である。

気まずい気がして登紀子は無言で会釈をする。


「この雨酷いわね。間一髪で助かったわ」その女性は笑顔でそう言った。

「え・・はあ」元々人見知りな登紀子は戸惑う。

「私これから孫の顔見に行くんで慌てて家を出てきちゃってね。

こんな雨になるって思ってなくて困ったわ」

少しも困った様には見えない女性はそう言ってまた笑った。


「あ、お孫さんですか」

「そうよ。私の娘がこの先の病院で孫産んだの。だから毎日孫の顔見に

歩いて通ってるのよ。この坂結構大変でしょ。だから大変」

「あ・・・それはおめでとうございます」

心に何がしかの後ろめたさを感じながら登紀子はやっとそれだけを

口にした。


「まったく娘ったら結婚もしてないのに子供が出来てしまってね。

女一人で育てるとか言い出したからほんと困るわ」


「え・・・未婚で産んだんですか」

「そうなの困った娘でしょ。でも久しぶりに抱いた赤ちゃんは

本当に可愛くてそういう細かいことはもうどうでも良くなったわ」

どうやら女性は余程孫が可愛いようで、雨の間も居ても立っても

居られないといった様子だ。


「大変・・・・じゃないんですか。父親もいないのに赤ちゃんなんて」

登紀子は思わず聞いてしまったが、女性は事も無げに

「あら、娘も実は父親が認知してくれなくて、私が一人で育てたのよ」

と答える。


そこで登紀子は初めて女性の姿をまじまじと見た。

太くもない身体に飾り気のないワンピースを着ているが、

何処と無く品の良さげな雰囲気が清潔感を醸し出している。


「私はねえ、5歳年下の男に入れあげてね。子供できちゃったんだけど

最初から結婚は考えてなかったのよね。だって5つも年下の学生さんだったし、

私が子供ができた事を告げたら行方眩ましちゃって。それでしょうがないから

一人で産んで育てたのよ」


「そんな・・・ひどくないですかそれ」

「ひどいよね。でも大体そういう男って分かってたから

私も良くなかったんだけどね。男ってそういう生き物だから」

「でも・・・それならエッチなんかしなきゃいいのに」

「それは若いから仕方ないのよ。ヤりたい盛りだもん」


「下ろせば良かったんじゃないですか」登紀子がそう言うと

「そうね。でも私は娘を産んで幸せだったわよ」そう答える女性に

一種の眩しさを感じた。


「私ももしかして・・・とか考えないことはなかったけど、

でも私の人生は私の選択の結果なの。だから一度や二度の

軌道修正くらいじゃみんなと同じような普通の幸せは

送れないと思ったからね。それでも自分の幸せは自分で見つけれたから」

女性はそう言うと、今度は照れ臭そうに笑った。


その照れ笑いに登紀子はつられて笑みを漏らしてしまった。

その笑顔を見た女性は


「貴女もとてもいい顔になったね。ほら見て、

 貴女が笑ったから雨が止んでくれたわ」そう言って空を指差す。


雨はいつしか止んで、雲の切間に青い蒼い空が見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集『恋とは十中八九勘違いでできている』 あん @josuian

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ