みすてりぃ少女は海を見る

北見 柊吾

彼女は、よく海を見ていた。

 紅く熟れた夕陽が今にも海に触れそうで、掃き出し窓から我が家のリビングを照らしていた。窓辺では安楽椅子に腰掛けた少女がミステリーを読んでいた。透き通るように白いその肌と、それに負けないくらい純白なワンピースを赤く染めあげられても、少女は熱心に読み耽っていた。


 仕事が一段落付き書斎から出てきた私は、ひとつ大きく伸びをして、眠気覚ましの珈琲を淹れる。


「お疲れ様。休憩?」


「あぁ。あと、お供え物をね」


「そう。律儀ね」


 少女はそれだけを言うと、また小説に意識を戻した。彼女の切れ長の瞳が、さらにすっと細い線を描いている。その横顔には、何度見慣れても色褪せない美しさがあった。


 私は亡き妻の遺影の前に飾られた生花を差し換え、昼に青果店で買ってきた新しい林檎を供える。


 合掌。


 海を見つめる妻の目が好きだった。切れ長の瞳が、より一層美しく海の先を見つめる。生前、このリビングから妻はよく海を見つめていた。



 少女はミステリーを読んでいた。


 誰もいないはずの幽霊屋敷に招待された客が、死んだはずの富豪に一人ずつ殺されていく長編ミステリー。遺されていた遺言の通りに、客は自分の罪を告白しながら順に死んでいく。主人公は無事屋敷から逃げのびるものの、屋敷で行方不明となった客達を殺した犯人として捕まり、処刑される。警察に殺される、という遺言通りに。


「ま。現実じゃ、こんなもの起こりえないわ」


 安楽椅子から立ち上がり読み終わったミステリーを本棚に戻すと、少女は怖い話の本の背に指をかけた。その本を傾け、指で弾く。カタカタと本の背表紙がリズムを打つ。少女はしばらく同じことを繰り返していた。


「嘘っぱちよ、全部。人間が創り出した幻想よね」


「そうだね」


 遺影に拝みながら、私は言う。彼女の指が本を打つ音が波の音に交じって、心地よく私の耳に響いていた。


「君は、昔からそう言う」


 写真のなかで変わらない笑顔を保ち続けている妻に見つめられながら、私は口だけを動かす。かすかに聞こえた波の音が、いやに響いて耳に残った。


「『幽霊なんて、いる訳ないわ。死んだら何も残らない』って」


「えぇ、確かに私はそう言ったわね」


「そう。なのに」


 私は振り返って少女に目を向ける。彼女の美しい瞳の奥は光を吸い込んだように暗く色を落としていて、私には何も読み取れなかった。私は、言葉を作るために大きく息を吸う。肺は酸素を必要としていた。


「なのに、どうしてここにいるんだい?みき」


「さぁねぇ。私にも分からないわ」


 少女はまた安楽椅子の背もたれに体重を預けると、窓の外に視線を飛ばした。


「信じたことなんてなかったけれど、恨みの力って存在するのかもね」


 彼女の言葉に何も答えず、私は珈琲を持ってソファに座る。この位置が、我が家で一番綺麗に海が見られるのだ。亡き妻の特等席だった。


「ねぇ、じゃあ教えて。私には分からないことがあるの」


「なんだい、新しいみすてりぃの話かい?」


 私は、自分でも驚くほどの平然とした声を出す。


「違うわ」


 みきは泰然としていた。


「まだ終わっていない、みすてりぃの話よ」


 私は無言で珈琲を口に運ぶ。そして、目を瞑る。次にこの部屋を支配する言葉は、私でも予測がついた。


「なんで、私を殺したの?」





 夏の夕陽は、今にも海に飲まれようとしていた。ゆったりとした紅い波が水面で静かに揺れている。


「綺麗なものは、残らない」


「あら。私、あなたに言わなかったかしら」


 少女は首をかしげて言った。


「残らないから、美しく輝けるのよ」


 懐かしい言葉の響きに私は笑った。妻の口癖だ。


「そうだね、そうかもしれない」


 私の声は、呟くようにしか出なかった。


「君は狂おしいほどに美しかった」


 海を見つめる。段々と部屋は夜闇に包まれていた。珈琲が意気揚々と夕闇のなかに輝き出す。今宵は海も綺麗ね、と少女は呟いた。


「綺麗だった。美しかった」


 言葉が自然にこぼれでる。追い詰められた犯人はこんな気分なんだろう、と浮いた考えが頭をよぎった。僕はため息をつき、身体に残っていた欲望を口にする。


「綺麗なものは、時間という概念から隔離できないものだろうか」


「無理ね」


 妻は、そこではじめて私の目を見て言った。


「綺麗なものは、すべていずれ失う運命なのよ」


 そうだね、とだけ私は言葉にした。分かっていた。気づかないふりをしていただけだろう。綺麗なものがいずれ失われてしまうなら。衝動に駆られた私の過去の行いを、今でも私は悔いている。


「建物だってそう。私たち、二人でいろんなところへ行ったわね。金閣だったり、大仏だったり。全部、受け継いでいるものは歴史と伝統よ」


「なるほど」


「みすてりぃも、一種の歪曲した正義なの」


「正義?」


「そう。ひとりよがりな正義を引っ提げて、愚かな人間は犯罪者になるのだから」


 だからこそ、みすてりぃは愛おしいの。少女は言葉を慈しむように言った。


 そうして少女は安楽椅子の向きを変えた。私には、少女が楽しんでいるようにさえ見えた。


「さぁ、あなたの正義はなぁに?」




 私は、妻との思い出を走馬灯のように思い出していた。


 妻の死因は刺傷による失血死。背後から心臓を一突き。


 妻の命が奪われ、消えていく感覚は鮮やかに、この手に残っている。


 今でも、妻がいつも見つめていたこの海のどこかに、彼女の身体は沈んでいる。


 最後に読んだミステリーの犯人は、動機を何と言っていただろう。私は、その犯人の殺人の動機を「ひとりよがり」だと笑えるだろうか。私は彼と変わらないのだろうか。


 私は、おもむろに口を開いた。


「みきが、美しさを失わないために」


 少女は私の前に立って笑った。その笑いは呆れているというよりか、あなたらしいわ、と言っているようにさえ見えた。


「ひどい大義名分ね」


 せめて少女には私の後悔が悟られないよう、私は胸を張ってみせる。少女はそんな私の頬を優しく撫でた。



「あなたを、恨んでいるわ」


 みきがその言葉を放った刹那、妻の服は胸の刺傷から噴き出した血で紅く紅く染まった。唇からこぼれた血塊が僕の服に跡を残す。みきは私に倒れ込むように覆いかぶさった。


「やっぱり、幽霊なんているわけないわ。幽霊にこんな死なんて、あるはずがないもの」


 私の耳元でそう囁くと、少女は跡形もなく消えた。


 そうか。私は気づいていなかった。私の妻は全てが美しかったのだ。その、死に様さえも。いや、死に様までを合わせて妻は美しく生きたのだ。


 妻の生き様は美しかった。私はそのことに気が付いていたがそれを分かっていなかった。


 私の頬に一筋の涙が伝った。


 夜の海に目を向ける。


 水面には欠けた月がゆらゆらと映っていた。


「今宵も月が綺麗だね」


 私は、何年も前から写真に刻印されたまま、昔よりも色が薄れた妻の笑顔に笑いかけた。妻は、愚かな私にあきれた笑顔を向け続けていた。

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