【短編】ランナー イン ザ フォトグラフ
スタジオ.T
2020まで
カメラのシャッターボタンに指をかける。
一直線に引かれた百メートルを彼女が走ってくる。地面を蹴る足音が近づいてくる。わずか十秒ちょっとの時間。コンマ数秒を争う肉体は、選手も観衆もいない競技場のトラックの上で風を切っていた。
ゴールラインでカメラを持つ私の手は汗ばんで、震えていた。
あの夏と同じように、高鳴る胸の鼓動を感じながら、私はシャッターを切った。
『ランナー』
写真部だった私は、彼女を撮影した写真をそう名付けてコンテストに出した。百メートルを走りきって、汗だくになった彼女の姿を撮って、審査員特別賞を取った。
撮影したことも、応募したことも彼女に言えていなかった。県の展覧会で飾られたその写真を私は複雑な気持ちで眺めた。
全ては衝動だった。雷に打たれたみたいな衝撃。それほどまでに彼女の姿は美しかった。
当時、私は軽いスランプに
「ね、新聞部の仕事を手伝ってくれない?」
友人から依頼があったのはそんな時だった。一つ上の先輩が、百メートル走で県大会に出場する。その結果を記事にするから、写真撮影を手伝って欲しいと頼まれた。
「良いけど、私スポーツの写真なんか撮ったことないよ」
「大丈夫、大丈夫。一枚か二枚、ちょこっと撮ってくれるだけで良いから」
カメラ担当の部員が季節外れの夏風邪で代えがいない。しかし、どうしても記事にしたいし、写真も欲しいということだった。
次のコンテストの締め切りまではまだ時間がある。私は駅前のチーズカルボナーラと引き換えにその依頼を
「あっつー……」
学校の新聞部だからトラックに入ることはできない。観客席の最前列で私はカメラは構えた。
夏を目前にした、三十度を超えるような暑い日だった。青空から
汗で湿ったタオルで顔を
「あ、あの人、あの人! 左から2番目!」
「あの小さい人?」
「そ、そ」
赤いユニフォームと短い黒髪。彼女は他の選手から比べると
スポーツ枠がある訳でもない県立高校で、この場所に立てるということ自体が凄いことだった。周りはスポーツ強豪校として知られる高校ばかりだ。正直、この予選が彼女にとって最後のレースになるかもしれないと思った。
カメラを構える。
ファインダーを覗いて、ピントを合わせる。コース全体が視界に入るくらいの広い画。瞬間を撮り逃さないように、シャッタースピードを上げて、連写モードに切り替える。
静寂と緊張感。
隣で観戦する友人の
パン。
彼女は速かった。
体格差を物ともせず、先頭におどり出た。誰にも
十秒と少しの時間が膨らんでいく。私はシャッターを切りながら、彼女に見
速い。それに、なんて軽やかなんだろう。
一切ぶれない重心は、まるで電子時計のように正確で、ゴールの瞬間まで狂うことはなかった。彼女は最初から最後まで先頭に立ち、予選を通過した。
応援席から歓声が上がる。
けれど私は声を上げることはできなかった。
カメラを握りしめて、無意識に彼女を追っていた。最大までズームして、腰に手を当てて呼吸をする彼女の身体を
心の中を涼しい風が吹いていた。歓声もセミの声も聞こえない。突き刺す太陽の光も、シャツの下で
自分がファインダーから覗いているものが、この世でも最も美しいものだと確信していた。この一瞬のために彼女が研ぎ
思わずシャッターを切った。それが八年前の夏。
ふと、彼女のことを思い出したのは、2020年のことだった。私は東京の写真スタジオでアシスタントをしていた。
いつもより静かな東京の夏。ぼんやりと気だるげな日々の中で、私の脳裏をよぎったのは彼女の走る姿だった。呼吸を止めて
人づてに彼女が陸上を続けていることは知っていた。
その姿をまた撮りたい。夏が近づくに連れて、その気持ちは大きくなった。あの写真がまた撮れれば、もやもやしたこの心も晴れるんじゃないかと期待した。失いかかっている情熱を、取り戻せるのではないかと思った。
『初めまして、××と申します』
同じ高校に通っていたこと。県大会のレースを見ていたこと。今は写真家を目指していて、自分の写真のモデルになって欲しいことを伝えた。
数日して、返信が返ってきた。丁寧な挨拶の後で、
『私で良ければ、協力しますよ』
と書いてあった。私は『ぜひお願いします』とメッセージを返した。頭が夏の暑さにやられてしまったみたいだった。こんなにワクワクするのはいつぶりだろう?
私は地元にある小さな競技場を貸し切って、撮影の準備をした。昔使っていた一眼レフを握りしめて、待ち合わせの駅前で彼女と合流した。ウィンドブレーカーを着た彼女は、私を見つけると手を振った。
「すいません、待ちました?」
「ううん、今来たところだよ」
爽やかな笑顔で言った彼女は、外見通り気さくな性格だった。すぐに打ち解けた私たちは、昔の思い出について話した。
「私、実はあなたのこと見るの初めてじゃないよ」
「え? そうなんですか?」
「そりゃあ、そうでしょ。写真。『ランナー』」
「あ……」
見られていたのか。
「友達から聞いてね。『あんたの写真が賞取ってるよ』って。何のことかと思って行ったら、もうびっくり」
「ごめんなさい、勝手に」
彼女は笑って首を横に振った。
「いやちょっと恥ずかしかったけど、いつかお礼を言おうと思ってたんだ」
「お礼?」
「そう。あの写真ね、なんか、うまく言えないけど良かった。走った後の自分って、こんな表情してるんだって思った。人からこう言う風に見えてるんだって」
彼女は展覧会でその写真をしばらく眺めていたらしい。
「学校であなたを見かけた時に、声をかけようと思ったんだけど、何て言って良いのか分からなかった。良い写真だったとか、迫力があったとかそういう言葉じゃ足りない」
競技場に到着した私たちは撮影の準備に入った。誰もいないトラックの上には、あの日と同じように雲ひとつない青空が広がっていた。彼女は靴紐を結びながら言った。
「本当は高校で陸上、やめようかと思ってた」
「えっ」
「そりゃそうよ。結局、全国大会にも行けなかったし。身体だって小さい。他の選手と比べてストライドだって足りていない。ここら辺が
ウィンドブレーカーを脱いだ彼女は、すらりとした肉体をさらけ出した。太ももから足の先まで、肉体は地面にまっすぐ伸びて、薄い影を作っていた。
「でも、あの写真を見て気が変わった。またやろうって思った。腹の底がギュウって掴まれた。情熱が蘇るような不思議な写真だった」
「それは……言い過ぎです」
「ううん。あなたもそう思ったから、あの写真を応募したんでしょ」
彼女の言う通りだった。腹の底を掴まれる気持ち。得体の知れないものに揺さぶられる感覚。自分の写真でそんな気持ちになったのは初めてだった。
ウォーミングアップを終えた彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「さ、準備できたよ。いつも通り走れば良い?」
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
カメラの電源を入れて、私は彼女に言った。
「できれば、一発勝負で。一発勝負だと思って」
「本気でやって欲しいってこと?」
「そうです。その写真が撮りたいんです」
私の言葉に彼女は頷いた。
「分かった。そのイメージで走れば良いのね」
「はい。一生で一度しかない大会です」
「オッケー」
彼女は笑って目を閉じた。
「ここで全てが決まります。勝つか負けるかの二つしかない」
「……うん」
「周りの選手は貴方よりずっと大きい人たちです。でも、あなただって負けるつもりはない」
彼女の表情が変わっていく。見る見るうちに研ぎ澄まされていく。引き締まった筋肉が脈を打つ。息を吸って吐いた彼女は、何も言わずにスタートラインについた。
私も無言でカメラを構える。ファインダーを覗く。
全てが目に浮かぶようだった。競技場を埋め尽くす観客。誰もが息を呑んで、その瞬間を待つ。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
腹の底がギュウっと掴まれる。
耳の奥で空砲が鳴る。彼女が脚を上げる。曲がり角のない一直線を駆け抜ける。言葉を忘れて、私はシャッターを切る。
十秒ちょっとしかない一瞬。私はその一瞬を永遠の四角形に封じ込める。私のすぐ近くを凄まじい熱量の物体が通り過ぎる。足音と鼓動が耳に届く。熱っぽい体温すら感じる。
それが過ぎ去った後には風だけが残った。
「どうだったー?」
呼吸を落ち着けた彼女は、遠くの方から私に言った。
……私には言葉で表すことができなかった。
そこには、やはりあの夏と変わらない姿のランナーがいた。ただ一心に、前へと踏み出す人間の姿が、震える手の中に映っていた。
【短編】ランナー イン ザ フォトグラフ スタジオ.T @toto_nko
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