【短編】ランナー イン ザ フォトグラフ

スタジオ.T

2020まで

 カメラのシャッターボタンに指をかける。

 一直線に引かれた百メートルを彼女が走ってくる。地面を蹴る足音が近づいてくる。わずか十秒ちょっとの時間。コンマ数秒を争う肉体は、選手も観衆もいない競技場のトラックの上で風を切っていた。


 ゴールラインでカメラを持つ私の手は汗ばんで、震えていた。


 あの夏と同じように、高鳴る胸の鼓動を感じながら、私はシャッターを切った。


『ランナー』


 さかのぼること八年。高校二年の夏。

 写真部だった私は、彼女を撮影した写真をそう名付けてコンテストに出した。百メートルを走りきって、汗だくになった彼女の姿を撮って、審査員特別賞を取った。


 撮影したことも、応募したことも彼女に言えていなかった。県の展覧会で飾られたその写真を私は複雑な気持ちで眺めた。


 全ては衝動だった。雷に打たれたみたいな衝撃。それほどまでに彼女の姿は美しかった。


 当時、私は軽いスランプにおちいっていた。何を撮ってもつまらなくて、味気がない。テーマも構図もありきたりで、良い写真が撮れない。そのせいで写真すら嫌いになっていた。


「ね、新聞部の仕事を手伝ってくれない?」


 友人から依頼があったのはそんな時だった。一つ上の先輩が、百メートル走で県大会に出場する。その結果を記事にするから、写真撮影を手伝って欲しいと頼まれた。


「良いけど、私スポーツの写真なんか撮ったことないよ」


「大丈夫、大丈夫。一枚か二枚、ちょこっと撮ってくれるだけで良いから」


 カメラ担当の部員が季節外れの夏風邪で代えがいない。しかし、どうしても記事にしたいし、写真も欲しいということだった。


 次のコンテストの締め切りまではまだ時間がある。私は駅前のチーズカルボナーラと引き換えにその依頼を承諾しょうだくすることにした。


「あっつー……」


 学校の新聞部だからトラックに入ることはできない。観客席の最前列で私はカメラは構えた。

 夏を目前にした、三十度を超えるような暑い日だった。青空から容赦ようしゃなく日光が肌を突き刺した。


 汗で湿ったタオルで顔をぬぐって、ペットボトルのキャップを開ける。やっぱり来なければ良かったと思った頃、彼女の番が来た。隣でペンを持つ友人が私の肩を叩いて言った。


「あ、あの人、あの人! 左から2番目!」


「あの小さい人?」


「そ、そ」


 赤いユニフォームと短い黒髪。彼女は他の選手から比べると華奢きゃしゃで小さかった。私とどっこいどっこいと言ったところだ。スタートラインに並んだ姿からは、頼りなさすら感じた。


 スポーツ枠がある訳でもない県立高校で、この場所に立てるということ自体が凄いことだった。周りはスポーツ強豪校として知られる高校ばかりだ。正直、この予選が彼女にとって最後のレースになるかもしれないと思った。


 カメラを構える。 

 ファインダーを覗いて、ピントを合わせる。コース全体が視界に入るくらいの広い画。瞬間を撮り逃さないように、シャッタースピードを上げて、連写モードに切り替える。


 静寂と緊張感。

 隣で観戦する友人のつばを飲む音が聞こえる。スタートの合図が静けさを打ち破った。


 パン。


 前傾ぜんけい姿勢から足を踏み出して、クラウチングスタート。腕を振り上げて、身体を前に進める。全員が同じ動作、同じ場所に向かって脚に力を込める。たくましく膨らんだ太ももが引き締まり、次の一歩を導く。


 彼女は速かった。

 体格差を物ともせず、先頭におどり出た。誰にもゆずらない。誰にも追い越させない。


 十秒と少しの時間が膨らんでいく。私はシャッターを切りながら、彼女に見れていた。ボタンを壊れるくらいに強く押して、その姿に見入っていた。


 速い。それに、なんて軽やかなんだろう。


 一切ぶれない重心は、まるで電子時計のように正確で、ゴールの瞬間まで狂うことはなかった。彼女は最初から最後まで先頭に立ち、予選を通過した。


 応援席から歓声が上がる。

 けれど私は声を上げることはできなかった。


 カメラを握りしめて、無意識に彼女を追っていた。最大までズームして、腰に手を当てて呼吸をする彼女の身体をのぞいた。汗をぬぐって、自分のタイムを確認する彼女の顔にピントを合わせた。


 心の中を涼しい風が吹いていた。歓声もセミの声も聞こえない。突き刺す太陽の光も、シャツの下でにじむ汗も感じない。


 自分がファインダーから覗いているものが、この世でも最も美しいものだと確信していた。この一瞬のために彼女が研ぎませてきた肉体。日焼けした汗が伝って、太陽の光を反射していた。


 思わずシャッターを切った。それが八年前の夏。


 


 ふと、彼女のことを思い出したのは、2020年のことだった。私は東京の写真スタジオでアシスタントをしていた。一端いっぱしのプロとしてかせいでいくには厳しい世界で、私もまた芽が出ない人間の一人だった。


 いつもより静かな東京の夏。ぼんやりと気だるげな日々の中で、私の脳裏をよぎったのは彼女の走る姿だった。呼吸を止めて颯爽さっそうと走る肉体。心を凌駕りょうがして前へと進む姿。


 人づてに彼女が陸上を続けていることは知っていた。


 その姿をまた撮りたい。夏が近づくに連れて、その気持ちは大きくなった。あの写真がまた撮れれば、もやもやしたこの心も晴れるんじゃないかと期待した。失いかかっている情熱を、取り戻せるのではないかと思った。 


 くだんの新聞部の友人からSNSの連絡先を聞いて、私は彼女にメッセージを送った。


『初めまして、××と申します』


 同じ高校に通っていたこと。県大会のレースを見ていたこと。今は写真家を目指していて、自分の写真のモデルになって欲しいことを伝えた。


 数日して、返信が返ってきた。丁寧な挨拶の後で、


『私で良ければ、協力しますよ』


 と書いてあった。私は『ぜひお願いします』とメッセージを返した。頭が夏の暑さにやられてしまったみたいだった。こんなにワクワクするのはいつぶりだろう?


 私は地元にある小さな競技場を貸し切って、撮影の準備をした。昔使っていた一眼レフを握りしめて、待ち合わせの駅前で彼女と合流した。ウィンドブレーカーを着た彼女は、私を見つけると手を振った。


「すいません、待ちました?」


「ううん、今来たところだよ」


 爽やかな笑顔で言った彼女は、外見通り気さくな性格だった。すぐに打ち解けた私たちは、昔の思い出について話した。


「私、実はあなたのこと見るの初めてじゃないよ」


「え? そうなんですか?」


「そりゃあ、そうでしょ。写真。『ランナー』」


「あ……」


 見られていたのか。


「友達から聞いてね。『あんたの写真が賞取ってるよ』って。何のことかと思って行ったら、もうびっくり」


「ごめんなさい、勝手に」


 彼女は笑って首を横に振った。


「いやちょっと恥ずかしかったけど、いつかお礼を言おうと思ってたんだ」


「お礼?」


「そう。あの写真ね、なんか、うまく言えないけど良かった。走った後の自分って、こんな表情してるんだって思った。人からこう言う風に見えてるんだって」


 彼女は展覧会でその写真をしばらく眺めていたらしい。


「学校であなたを見かけた時に、声をかけようと思ったんだけど、何て言って良いのか分からなかった。良い写真だったとか、迫力があったとかそういう言葉じゃ足りない」


 競技場に到着した私たちは撮影の準備に入った。誰もいないトラックの上には、あの日と同じように雲ひとつない青空が広がっていた。彼女は靴紐を結びながら言った。


「本当は高校で陸上、やめようかと思ってた」


「えっ」


「そりゃそうよ。結局、全国大会にも行けなかったし。身体だって小さい。他の選手と比べてストライドだって足りていない。ここら辺が潮時しおどきかなと思ってた」


 ウィンドブレーカーを脱いだ彼女は、すらりとした肉体をさらけ出した。太ももから足の先まで、肉体は地面にまっすぐ伸びて、薄い影を作っていた。


「でも、あの写真を見て気が変わった。またやろうって思った。腹の底がギュウって掴まれた。情熱が蘇るような不思議な写真だった」


「それは……言い過ぎです」


「ううん。あなたもそう思ったから、あの写真を応募したんでしょ」


 彼女の言う通りだった。腹の底を掴まれる気持ち。得体の知れないものに揺さぶられる感覚。自分の写真でそんな気持ちになったのは初めてだった。


 ウォーミングアップを終えた彼女は、ゆっくりと立ち上がった。


「さ、準備できたよ。いつも通り走れば良い?」


「あ、ちょ、ちょっと待ってください」


 カメラの電源を入れて、私は彼女に言った。


「できれば、一発勝負で。一発勝負だと思って」


「本気でやって欲しいってこと?」


「そうです。その写真が撮りたいんです」


 私の言葉に彼女は頷いた。


「分かった。そのイメージで走れば良いのね」


「はい。一生で一度しかない大会です」


「オッケー」


 彼女は笑って目を閉じた。


「ここで全てが決まります。勝つか負けるかの二つしかない」


「……うん」


「周りの選手は貴方よりずっと大きい人たちです。でも、あなただって負けるつもりはない」


 彼女の表情が変わっていく。見る見るうちに研ぎ澄まされていく。引き締まった筋肉が脈を打つ。息を吸って吐いた彼女は、何も言わずにスタートラインについた。 


 私も無言でカメラを構える。ファインダーを覗く。


 全てが目に浮かぶようだった。競技場を埋め尽くす観客。誰もが息を呑んで、その瞬間を待つ。心臓の鼓動が耳の奥で響く。


 腹の底がギュウっと掴まれる。

 耳の奥で空砲が鳴る。彼女が脚を上げる。曲がり角のない一直線を駆け抜ける。言葉を忘れて、私はシャッターを切る。


 十秒ちょっとしかない一瞬。私はその一瞬を永遠の四角形に封じ込める。私のすぐ近くを凄まじい熱量の物体が通り過ぎる。足音と鼓動が耳に届く。熱っぽい体温すら感じる。


 それが過ぎ去った後には風だけが残った。


「どうだったー?」


 呼吸を落ち着けた彼女は、遠くの方から私に言った。


 ……私には言葉で表すことができなかった。

 そこには、やはりあの夏と変わらない姿のランナーがいた。ただ一心に、前へと踏み出す人間の姿が、震える手の中に映っていた。

 

  

 

  

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【短編】ランナー イン ザ フォトグラフ スタジオ.T @toto_nko

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