6

 高校でも予備校を真似た夏期講習があって、予備校に行っていないわたしは気晴らしに行った。午前中に古典と英語を入れ、午後は美術室に行った。冷房がかかっていて涼しいけれど、油絵の具の匂いと机に塗られているニスの匂いが充満していてずっといると気分が悪くなる。後輩たちは漫画を読んだり、話をしていて、先輩や同輩は誰も来ていなかった。置き去りにしていたスケッチブックにデッサンをした。前はここにいて絵を描こうとするだけで息苦しかったけれどじぶんのなかで何かが切れたらもう辛くなかった。


 すっかり没頭していてもう既に外は夕焼けだった。夏の夕方の空は燃えているという感じがする。昼に熱を蓄えた陽が夕方に燃えて夜に灰になる。そんなイメージだ。あしたも学校に行こうと思いながら家に帰った。生産していれば生きているのも恐くない。いい気分で部屋に入ったけれど、やっぱりじぶんの部屋にあるキャンバスを描き足す気にはなれなかった。布をめくり輪郭線を指でなぞった。唇の部分にキスをしようとすると机の上のスマートフォンが震えた。画面には「あすか」と表示された。


 窓を開けるとあすかが下を向いていた。


「どうしたの」


 わたしはあの日のことを思い出した。あすかはわたしの声に反応し、顔をあげた。


「梓」


 あすかの声は震え、頬は涙で濡れていた。


「待ってて」


 部屋を飛び出し、家のドアを開けた。わたしを見るとあすかは抱きついてきた。


「梓……梓……」


 あすかと出逢ってからあすかがこんな風に泣いているのをはじめて見た。


「外、だから……部屋、入ろう。ね?」


 あすかは全身が震えていて立っているのがやっとのようだった。


 部屋のドアを開けたとき、絵をしまい忘れていたことに気がついた。


「あ、ごめん」


 わたしは急いで布をかぶせた。


「まだ、途中だから」


「梓、俺の絵、描いてくれてたんだ」


 あすかは精一杯の弱々しい顔で笑った。


「嫌われたのかと思ってた」


「嫌いになんてならないよ」


 正面からあすかを抱きしめた。わたしよりも十五センチくらい背が高い。あすかは首を曲げて、わたしの頬に頬を寄せる。あすかの背中も、胸も、そしてきっとわたしも、むかしに比べたら随分肉付きがよくなった。あすかの涙がわたしの頬にも伝ってくる。すぐに顔を話して、キスをした。あすかの唇も柔らかい。体を、唇を、触れていることに喜びを感じる。――やっぱりあすかが好きだ。奪い合うように、与え合うように数えきれないくらいキスをした。これであすかの気が済めばいい。わたしの体であすかが満足するならわたしは、そのために在りたい。


「この前はごめんね」


 ベッドに並んで寝転びながらそう言った。


 もう夜なのに蝉の声がまだ聞こえてきた。


「わたしは男の子のあすかが好きだったから、ちょっとショックだったの」


 あすかは眉を顰め、目を細めてわたしを見た。


「ほんと、深い意味なんてなかったよ。俺はわりかしノリでああいうことやるタイプだから。だけど失敗したなって思ったよ」


 あすかの手がわたしの手を掴んだ。


「きょう、沼井の家に呼ばれたから行ったんだ」


「え?」


「深い意味なんてないって思ってた。あいつのこと、友だちだと思ってたし。だけど、好きだって言われて、キスされそうになって、抵抗しようとしだけど」


 怒りはすぐにこころの中で燃え盛った。でもわたしは沼井くんに報復するなんてことはできない。自分の太腿に爪を立てることでどうにかこの怒りを昇華させたかった。


「情けないよな。あいつ、あんな小さい体してんだけどすげえ力でさ。胸、揉まれて……下に、あいつのもの当てられて……」


 あすかはわたしを見て笑うふりをした。


「俺はずるい生き方してんなって思ってるよ。だから罰があたったんだな」


「そうじゃない。悪いのは沼井くんだよ。あすかは嫌がったんでしょう?」


 あすかは零れてくる涙を手で抜き取った。


「こんなことで泣きたくないのに……クソッ」


 わたしはあすかの頭を抱き寄せた。涙は滝のように溢れ出てきた。


「調子に乗って女物の浴衣着たり化粧なんてしなきゃよかった」


 それだけのことで、こんなことになるなんてあんまりだ。わたしも無視してしまったことを猛省した。あすかはなにをしてもあすかじゃないか。


「俺は、女でいたいなんて一度も思ったことないよ。だけど、みんなの前では女のフリしてんのって楽だって気づいちゃったんだよな」


 わたしはどうしてじぶんの理想ばかり大事にしてあすかの深いところを見ようとしなかったんだろう。


 わたしたちは抱き合ったまま、ゆっくり寝転んで、体を離すまいとくっつけた。あすかの指の感覚が背中にある。同じようにわたしの体をあすかも感じてくれているんだろうか。


「もう泣かないから」


 そう言ってあすかは思いっきり泣いた。わたしもつられて泣いた。


 こんなふうに誰だって弱くてずるいところがある。こんなあすかがいても当然。だからわたしは受け入れよう。


 泣き疲れて眠ってしまって目を醒ますと窓から朝陽が差し込んでいた。目を腫らしたあすかがわたしを見ていた。


「寝ちゃったね」


「ああ。家に連絡してないや」


 あすかはいつものカラッカラッの顔で笑った。


 起き上がって、指を絡めて体を寄せた。


「ねえ、あすか。ききたかったことがあるの」


「なに」


 陽がだんだん高くなっていく。鳥のさえずりや新聞配達のバイクの音が遠くから聞こえる。


「ほかの女の子にも、同じことしたり言ったりしてないよね?」


「ふん、ばか言うなよ」


 あすかは笑ってわたしの頭をくしゃくしゃと弄った。


「最初に見たときから俺のこと理解してくれるのは梓しかいないような気がした」


「どうして?」


「直感、かな。コイツ変わってんなって思ったから」


「え? そうなの?」


「俺も、ちょっと変わってんのかなって思うし」


 笑いながら目を見ているうちに、あすかが男の子の顔になってキスをしてきた。


 わたしの胸を触り、ブラウスのボタンを外していく。


「俺が好きなのは、梓だけだ」


「ねぇ、あすか」


 あすかは下着を降ろしてわたしの胸を吸った。


「ん?」


「ずっと、男の子でいて。って、言っていい?」


「もう言ってるじゃん」


 あすかは声を出して笑った。


「願ってて。俺もそうするから」


 わたしはあすかの前で一糸纏わぬ格好になった。いつもは性器を弄るだけだったけれど、あすかはわたしの中に指を入れてきた。


「ん……」


「痛い?」


「わかんない」


 痛くて気持ちよくて苦しくて愛しい。この行為は簡略的に愛を知る方法なのかもしれない。


 あすかは指を前後させながらいろんなところに触った。


「女同士よりも、男同士で生まれたほうがよかったのかも」


「どうして」


「男だったら繋がれるもの持ってるじゃん」


 世界中どこ探してもこんなに綺麗で、かっこいいひとはいない。


「嫌。わたしはいまのあすかが好き。わたしも男になんてなりたくない」


 またあすかは悪意のない顔で笑う。


「そっか」


 あすかが指の動きを早くすると、全身に脈を打つ感覚が走る。


「いつかひとつになろうね、梓」


 その約束を果たすまでわたしたちはこの欠けた行為をするしかない。


 わたしは声を殺して昇天してしまった。気持ちよさで目に溜まった涙を拭いてあすかを見た。


「あすかのもしてあげるよ」


「俺はいいよ。いまは偽物だから」


 あすかはわたしに覆いかぶさり、何度も何度もキスをしてくれた。


「梓ほど綺麗じゃない。俺は、女じゃないから」


こうして体をくっつけていると二つの心臓がひとつになって同じときを刻んでいるような気がする。


「あすかの気が変わったら言って」


「気? なんの?」


「女の子になりたいって思ったら」


「たぶん、それはねえな」


「それでもわたし、あすかのこと好きでいると思うから、言って」


「さっきと別のこと言ってる。わけわかんねーやつ」


「そう、わたし。わけわかんないの」


 もう一度笑って、キスをした。


「わたしね、ずっとあすかの寄り木でいられればいいって思ってた」


「寄り木?」


「あすかはいろんなとこに行っていても偶に寄ってくれればそれでいい」


「寄り木っていうか、梓は俺の家だよ」


 指を絡めて目を閉じていても、外が明るくなっているのがわかる。あすかは隣で寝息を立てていた。


 あすかの胸に手を置いた。わずかな膨らみがある。このままのあすかでもやっぱりわたしはいい気がした。だけど、やっぱり誰のものにもならないでほしい。この恋を思春期の一過性のものになんてしないで、ずっと続くものにしたい。わたしたちはどこも壊れてないし、特別じゃないし、偽物じゃない。ただヒトのこころを持って愛し合った凡庸なふたり。この関係を隠して秘密にしているのが楽しいから誰にも言わない。それだけだ。


 明け方、わたしはあすかのスカートの中を覗いた。すこしだけ触ると、そこはわたしと同じ形をしていた。あすかが嫌がるからただ触れるだけに留めたけれど、わたしは、そこがどんな形であっても愛してみたいと思った。

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イミテーションズブルー 霜月ミツカ @room1103

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