Sugar Bowlにて ♪「Just the two of us」Grover Washington Jr.

 一人でこの店に来るのは何年振りになるだろうか。最後に来たのは、同年代の仲間よりもだいぶ遅い時期に就職してから間もなくだったはずだ。

 白いペンキ塗りは変わらないけど、一階の店舗は服屋から美容室に変わっていた。店の看板も、入り口のドアの佇まいも、少し女性客向きの感があった。実際に店内にいる客は女性ばかりで、男性は僕と、カップルで来ている男の二人だけだった。

 ランチルームを少し過ぎた時間でありながら、6つのテーブル全部、お客で埋まっていて、僕は6組目の客だった。あとから来店して、店員の「満席なんです。ごめんなさい」という言葉を聞いて立ち去っていくお客に申し訳ないと思いつつ、僕は、読みもしない文庫本の文字を追っている振りをしながら注文した飲み物を待っていた。テーブルの上に敷かれた黄土色の紙マットは、いたずら書きや伝言が書けるようになっていて、緑色とピンクの二色のペンも一緒に置かれたけど、もちろん、そんなものを手にすることはなかった。


「お待たせしました。ブレンドコーヒーです。」


 若い女性の店員が、カップの中に入れるのがはばかるような可愛らしい形の角砂糖が入った陶器の入れ物とミルクが入った銀色の入れ物と一緒にコーヒーカップをテーブルに置いた。

 僕は、ようやく文庫本を閉じてテーブルに置き、可愛らしいものを入れないままコーヒーを飲んだ。


 あまりきょろきょろしたくはなかったけど、コーヒーを口に運ぶたびに店内のあちこちをそれとはなしに見渡した。

 変わっているもの、変わっているもの、変わっているもの、変わらないもの、変わっているもの、変わっているもの、変わらないもの… そうやっていつのまにか確認していた。


 めずらしく、さっきまで80年代初めの邦楽ロックが店内に流れていたけど、また、以前と変わらないAORが流れ始めた。コーヒーが無くなったので、しょうがなくテーブルに置いてあった文庫本を開いて、今度は少し読んでみようと思った。



「煙草やめたの?」

 

 顔を上げると彼女がコーヒーのサーバーを持って僕の前に立っていた。


「おかわりはいかがかしら」


「あ…」


「久し振りね。コーヒー、いる?」


「あ… うん」


「味は変わっていないでしょ」


「あ… うん…」


「変なの~。さっきから『あ… うん…』しか言ってない」


「変て… そっちこそ、どうしたんだよ」


「あら、失礼ね。このお店で働いてるのよ。もう、4年になるかしら」


「そうなんだ…」


 そう言っている間に、彼女はカップにコーヒーを注いだ。


「子どもが小学校に行き始めて、空いた時間のパートよ」


「そうなんだ…」


「ふふふ… 今度は『そうなんだ』しか言わない」


「だって、無理ないだろ。予想もしていない展開だ」


「そうね。無理ないわね。座っていいかしら。今、料理全部出し終わったし」


「ああ… 厨房に入ってるんだ」


「そう。基本的にはね。ま、お店が暇な時は接客でも何でもするわよ」


「ハンバーグカレー、とも思ったんだけど、昼飯食べてから来たんだ」


「そう… その味も前と変わってないはずよ」


「そうだろうな。ここをよく知っている君が作ってるんだから」


「ううん、違うの。私は、作ってあるカレー・ルーを温めてハンバーグパテをフライパンに置くだけ。ルーもパテも、オーナーさんが作っていて私にも未だに作り方教えてくれないのよ」


「そっか」


「煙草やめたの?」


「え、なんで? やめてないさ。ほら」


「だって、コーヒー飲み干しても、まだ一本も吸ってないじゃない」


「うん。まあ… このお店の雰囲気だとなんかはばかってね」


「ふふふ。変わってないわね。『はばかって』って言葉」


「だって、それ以外、どう言えばいい?」


「ううん。いいのよ、それで」


「まさか、この店で働いているとはな」


「うん、そうね。私も、なんだか不思議」


「もっと早くそれを知っていれば来たのに」


「知らせる術がないわ」


「それもそうだね」


「働き始めの頃は、私も、いつ、君がこの店に来るか来るかって気が気でなかったわ。でも、4年も経てば、案外、落ち着いてこうやって向き合えるものね」


「うん。でも、僕はまだ、どぎまぎしている」


「変わってないわね」


「そうかな… 君も変わってないね」


「私は変わったわよ。すっかり、おばちゃん」


「いや、前とちっとも変わってない」


「そんなに褒めても何も出てこないわよ。それより、君の方はどうなの?結婚は?子どもは何人?」


「いや、未だに一人だ」


「あら…」


「でなければ、ここに一人で来ない」


「そうなの…」


「ま、好きなことをしていたらこうして行き遅れたってわけさ」


「それは、女の人の台詞でしょ」


「はは… そうだな。君の方は?」


「普通に結婚して、出産して、子どもが小学校に通い始めた。それだけよ」


「それだけよ、って十分、人生している」


「そうね。結構、人生してるかもね」


「旦那さんは…」


「は~い、今、行きます。ごめんね。オーダー入ったから。ゆっくりしていって」


「ああ…」


「ありがとう、来てくれて。うれしかったわ」


「ああ… 僕もだ」


 厨房に入るときに、彼女は振り向いて手を振った。

 僕は、文庫本をコートの内ポケットに入れてから、学生の頃とは銘柄の違う煙草に火を点けて深く吸った。最後の煙草から数十分しか経っていないのに、頭の中がくらくらするのを覚えた。


 店内の曲は、彼女が席を立ってもまだ終わっていなかった。


 (そう、この曲は長かったんだった)


 僕は、緑色のペンで伝言欄に短く言葉を書いた。

 そして、正の字でコーヒー一杯分しか書かれていないオーダー用紙にもう一本線を書き足してから、レジに向った。




♪「Just the Two of Us」Grover Washington Jr. (feat. Bill Withers)

https://www.youtube.com/watch?v=6IO74QV6wHY




End



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Sugar Bowlにて 橙 suzukake @daidai1112

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