肉欲の彼岸

真花

肉欲の彼岸

 青い日差し。開けたままのカーテン。淡く照らされる部屋。

 右から聞こえる寝息、俺も寝てたのか、体には生命力を放出した倦怠感が残っている。

 晴一郎は雑に起き上がる。ん、と裸のままの久美子の背中が小さく反応する。

「クミ」

 ちょっとしてから久美子がごろんと晴一郎の方を向く。

「晴一郎くん、起きたの?」

「煙草吸っていい?」

「いいよ」

 棚にある灰皿を取って部屋にある小さなテーブルの上に置く。1Kの部屋であってもセックスと会話しかしないからトイレと灰皿の場所くらいしか覚えていない。

「晴一郎くんって、来るときも帰るときも自分のペースなのに、煙草だけは吸っていいか聞くよね。どうして?」

 どっちが俺にとって特別かを問うている。

「求めるときに性急か、余裕があるかの違いだよ」

 今はマッチがマイブームだからそれを擦ると燐の香りなのかツンとしたいい匂いがして、煙草の味も少し美味しい気がする。吐き出した煙がテレビに亡霊のようにまとわりついて成仏するように消えた。

「私のこと求めてくれるの?」

「そうじゃなきゃ今ここに居ないよ」

 コンビニバイトの客として俺の人生に登場した久美子とは、深夜のレジで暇だったからちょっと長話を何回かした後に誘ったら付いて来たことから、男女の関係になった。俺はセックスがしたかったし、彼女が何を求めていたのか分からないけど俺の求めにいつも応じたし、いつの間にか俺はヤりたくなったら久美子の家に行くようになっていた。

「私のこと、愛してる?」

 平日の深夜三時に社会人を自分の欲望のために叩き起こしてやることやる男が、自分のことを愛している可能性を考えられるものなのか? 自分でやっていながら当人の俺ですら自己中心的だと思うのに。それともセックスを求める対象であると言うことは愛していると言うことなのか。いや違うだろ。愛はよく分からない。恋はしてない。

 煙草をひと吸いして吐き出すまでの間で考えてみても結論は見つかりそうにない。

「愛してるよ」

 それでも共に過ごす時間が不快さなく共有されているから、二分法で言えばこっちになるだろう。

 久美子は俺の吐いた言葉を吸い込むように小さくのけぞり、言葉のエキスを吸い終わったカスを吐き出すように笑顔になる。

 しまった。

 その感情を顔に出さないように気を入れて、誤魔化すようにシガレットを咥える。

 この関係は今の距離がいい。これ以上近付く必要性はない。でも他の応えなんて存在しなかった。だから、はみ出したものを元に戻さなくてはならない。

「晴一郎くんって、二十一歳だったっけ?」

「そうだよ。クミは……」

「二十九」

 クミが考えていることが手に取るように分かる。愛しているなら結婚しよう、だ。でもそれを匂わすことは出来ても彼女がそれを言うことが出来ないことも俺には分かっている。本当に愛しているなら、あるべきではない姿で二人が居続けているからだ。俺が学生であることなど、彼女が年上であることなど、その事実に比べれば微細なものに過ぎない。だから俺はこの関係を、期待と失望の中間のいい塩梅の位置にコントロールし続けているのだ。自然の流れに添えば関係は消滅するし、牽引の力に負ければ俺の人生は絡め取られてしまう。異常であり続けることが唯一の道であり、クミの望みは永久に叶わないままで据え置かれる。もし彼女がそれを訴えるならば俺は速やかに逃げ出すだろう。そのために彼女は俺の住処を知らないままだし、幾つもの情報が抜けたままの状態にしてある。彼女が知っているのは俺の肉体だけだ。

 久美子が続ける。

「もういい歳だよね、二十九って」

「なったことないから分からないよ。八年後って永遠に未来に感じる。でもまだ二十代でしょ? 未来ばっか見てるんじゃないの?」

「どっちかって言うと、今ばっか見るようになるよ。未来の前に、今」

 俺は煙草をもみ消す。

「俺はまだ未来しか見えない」

 結婚なりで人生の一部を固定するようなことはまだしたくない。その意はクミに十分に伝わったようだ、彼女から漏れ出ていた迫力が萎んだ。

「そろそろ帰るよ」

「あ、うん。今何時?」

「五時過ぎ」

「短い逢瀬だね」

 彼女にとっては短くても俺にとっては十分に長い。多分、関係自体が目的の彼女と、目的のある関係である俺の差異がそこにある。人生に無駄なことなんてないと言っていた後輩の顔が急に思い出されて、このまま帰らないでここに居ることは無駄どころか有害だと頭の中で言い放つ。

「そうだね」

 手早く下着から服を着て、ビニール袋に使用済みのコンドームを入れて縛り、カバンを肩にかける。コンドーム入りの袋は途中のコンビニで捨てる。どうせ髪の毛とかが落ちてるから痕跡を消すことにはならないのは分かっているが、このセックスが隠蔽されるべきものだと言うことをクミにも自分にも伝えるためにしている。

「じゃあ、またね」

「うん」

 玄関まで送ってくれる。きっと彼女はさよならのキスを欲しているのだろうけど、俺は決してしない。クミが扉を閉め切るのを確認してから出発する。と言ってもすぐ近くに自転車が止めてある。別れ際のあっさりとしているところが好きだ。

 自転車に跨り、朝焼けの空に向かってこぎ始める。

 そう言えば短い眠りの中、夢を見た。ずいぶん遠い未来の夢だった。まるで今とそっくりなのに何かが違った。



 ※



 明るい、電灯の明るさ。

 左から寝息が聞こえる。俺も眠っていたみたいだ。生命力を放出した倦怠感が体に残っている。

 夢を見ていた。リアルと言うよりも過去をなぞったような夢。クミのことを久し振りに思い出した。八年前か、あの時のクミの年齢に、俺はこの前なった。

 真矢を起こさないようにそっとベッドを抜けて、窓際に立ち、眼下の街を見て、遠い闇の地平線を追う。ホテルの三十階から見る景色はもう見慣れていて、感動よりもいつもの場所に自分が居る安心感をくれる。

 あの時も夢を見た。普段見ないような夢だったからあの後何回も反芻して、今も覚えている。覚えているけど今の今まで思い出さなかった。あの夢はまるで今日だ。でも細部までは分からない。確実に言えるのは、俺はあの日には理解の出来なかった言動をしたと言うこと。そして今日が夢ではなくて、現実だと言うこと。

「マヤ」

 ん、と真矢が小さく反応する。晴一郎はベッドの脇のソファに腰掛けて、もう一度「マヤ」と呼ぶ。

「晴くん、起きたんだ?」

「うん。目が覚めた、急に」

「今何時?」

「まだ十時半だよ」

「ちょこっと寝ただけだね」

「うん。煙草吸っていい?」

「いいよー」

 ライターで火を点けて最初のひと吸いをたっぷり吸って、吐き出す。煙は空間に溶けて消えた。

「晴くんって、いいってしか言わないのに、聞くよね、吸っていいかって」

「うん。いい、って言ってくれるのを期待しているのはあるかも。でもさ、それでも吸われたくないときがあるかも知れないじゃん。もしマヤが『今はやめて!』って言ったら吸わないよ、俺は」

 真矢は、ふうん、と俺の言葉を咀嚼して、ゆっくりと飲み込んだ。

「考えてくれてるんだね」

「まあね」

 ニコリと笑う真矢。

「私ちょっとシャワー浴びてくるね」

「はいよ」

 残りの煙草をじっくりと吸う。クミは八こ上だから、今三十七歳。夢を見た日から一年以上は続いたけど、そのうちに会わなくなってそれっきりだ。最後の言葉も分からない。もしかしたらもう死んでるかも知れない。そうだとしても俺が知る由はない。

 シャワーの始まる音がする。

 性欲が先にあって後の全部は付属物のような選択と判断をあの頃はしていたのか。違う。クミに関してだけそうだったんだ。少なくとも性欲のために無茶をする動機があった。この八年間で確かに変わったのは、性欲が衰えたことだ。もしくは他のものが性欲よりも上に来るようになった。男が三十前後で結婚するのは、性欲が一番の状態を抜けてから結婚とかを考えるからなんじゃないのかな。クミは結婚出来ただろうか。彼女の二十代後半を喰い潰した俺が想うのも妙な話だが、彼女は結婚をしたがっていた訳だから結婚出来たらいいなと思う。それと幸せは別だとしても、幸せになっていて欲しい。自分のやったことを帳消しにして欲しい訳じゃない。自分と少なからず時間を共にした人なのだから、不幸よりはそっちがいいと、傲慢にも思う。

 コーラを飲んで、もう一本煙草に火を点ける。

 それは鏡写しに、俺が幸せになっていい免罪符のようなものなのだろう。幸せと言うものが何によってもたらされるかは分からないままだけれども。

 シャワーの終わる音。

 でもきっと、道ですれ違うときにお互いが誰も連れていない状態でなければ俺達は無視し合うだろう。交わされた訳ではないけど暗黙に、生まれたルールは今も生きている筈だ。もし単独だったとしても、話すことは出来ない。彼女に幸せか、なんて訊けない。それが最低限守らないといけないことだ。あの関係の状態を維持していたのは俺だから、俺はせめて。

 バスルームのドアが開いて、バスタオル巻きの真矢が出てくる。

「あれ、ずいぶん長い煙草だね?」

「最初五十センチあったからね」

「な訳ないでしょ」

 二人してあははと笑う。多分こう言う本当にどうでもいいシャレで笑うポイントが同じであると言うことが、一緒に居る上ではとても重要なのだ。クミとはそう言うことはなかった。

 急にクミが言った「未来ではなくて今を見るようになる」が思い出される。俺はどうか。確かに今に集中するようにはなったが、未来もやっぱり見ている。現在の俺の感覚からすると、クミの主張は「今」に俺が何かを成さねば私は未来が見えないと言う旨と読める。つまりあの時に感じた結婚圧は正しかったのだ。

 過去と現在の混交は許されるのか。

 バスタオル姿のまま真矢がソファ近くのベッドサイドに腰掛けて、コーラを飲む。

 その姿に、この人は過去には負けない強さがある、と確信したから、クミの言葉と言うことは伏せて問うことにした。

「マヤは、今と未来とどっちを見てる?」

「今を踏まえずに未来を語ることは不確か過ぎるし、未来を描かずに今にだけ没頭するのはつまらない」

「なるほど。連続体だってことだね」

「そう。過去の先っちょに今があるのじゃなくて、未来の始まりに今があるって考え方かな」

「それでもどっちかに重きを置いたりはないの?」

「どっちかしかないなら、今だよ。だって今がないと未来はないからね」

 断然世界が視えてるようだ。マヤはだから面白い。

 俺は二本目の煙草を揉み消す。

 クミは愛しているかを俺に訊いた。俺は嘘をついた。もしマヤに同じことを訊かれたら、愛していると応えるだろう。でももっと明白なのは、マヤに愛されていることだ。俺はマヤに愛されて、やっと人を愛するだけの愛情がたまったのか、愛することの実感を得るようになった。そして人を愛すると、愛されることを把握することが出来るようになる。後はループだ。ではマヤの愛がどこから生まれているのか、俺には分からない。いつか訊こう、けど今じゃない。俺がクミを愛さなかったのはそのシステムに乗ってなかったからではないし、クミは俺を愛していたのだと今なら分かる。単純に俺が自己中心的に、いや、欲望のままにその愛を食い荒らして発育不全にさせた。

「マヤ」

「ん?」

「愛してる」

「うん。私も愛してるよ」

 あの日なら命懸けのやり取りだった「愛してる」が、挨拶の軽さだ。だってそうだよ、愛しているのが当たり前なんだから。

 クミを思い出したせいで、マヤの大事さが分かった。どちらにも決して言えないことだけど、実感が深い。過去が差し込むことで今が立体的になって、連綿と続くことで平坦化していたものを浮き上がらせて、それを俺に理解させた。俺の中にあった迷いが霧が晴れるように消えた。

「俺さ、この前二十九になったんだけどさ、マヤって何歳だっけ?」

「三十二歳」

「何歳までに結婚したいかって、ある?」

 真矢は驚いた顔をして、コーラを飲む。

「いきなりだね。うん。三十二歳だよ」

 晴一郎は笑う。

「そう言うと思った。じゃあさ、プロポーズの言葉考えておくね」

 結婚と幸せがイコールではないのは分かってる。でも、俺はマヤと人生を送りたいと思った。彼女が結婚を望んでいるのも知っていた。

「いや、もうそれプロポーズしてるのと同じだから」

「ちゃんとやりたいんだよ。付き合ってよ」

「そんなこと言ったって、この感動は二度とないよ!」

 真矢は泣いている。俺は全然涙は出ない。あの日見た夢にはこんなエンディングはなかった。だからこれは約束されていた未来ではなくて、俺が、俺とマヤが、掴み取った未来だ。

 俺があの頃頑なに拒否していた人生の一部の固定。当時はそれに魅力が全くなかった。それはただ単に知らなかったのだ。パートナーの存在の絶大な力、愛し愛されることで貰う安心とエネルギー、失われるものはなくはないが、得るものが大きなことを。今既に感じているそれらを、自分の必然にしたい。それは人生の一部を固定することとイコールで、決して不自由なものではなさそうだ。

「分かった。じゃあ今言うよ」

「うん」

 さよならクミ。きっともう思い出すことはない。さよなら独身の俺。きっともう戻ることはない。

 晴一郎は真矢の手を取って、跪く。



(了)

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