エータくんの受難

篠岡遼佳

エータくんの受難


 エータは、人を待っていた。


 ついでに言うと、緊張もしていた。割とかなり。

 ついついすべての音に、頭頂の犬耳が反応してしまう。それをなだめるように押さえる手は、5本指の獣の手だ。

 みがいてある靴をこつこつと鳴らし、最近手に入れた薄手のコートを手で払い、腕組みをして、またそれをほどいて、同じことを繰り返し、あーでもないこーでもない、と考えていた。



 エータは、異世界人である。時間と空間の壁を飛び越え、どういうわけかこの世界にやってきた。

 この世界は、不可思議である。混迷を極めているともいう。ほら、今もまた、翼あるちいさな人型ものが、くるりと青空に輪と虹を描いて飛んでいった。近くでアイスクリームを売るのは、兎耳の生えた青年である。それをうれしそうに買うのは、そろいの制服を着た、長い耳を持つ少女と、この世界では一般的である特徴のない茶髪の少女である。



 エータのいた世界は、知る限りにおいて、平和であった。

 エータは村で畑を耕し、時に魚を釣り、おおむね満足して暮らしていた。


 だが、それはやってきた。

 前触れなどは一切なかった。

 目の前に真っ黒な、一切を飲み込もうとするような「闇」が現れた。

 それは近頃、都市部でささやかれていた、「かみかくし」という現象であった。

 エータに抵抗するすべはなかった。そもそも、エータには、瞬き一つほどの時間だけしか許されていなかったのだ。


 もう一度その浅葱色の目を瞬いたときには、すでにエータはにいた。


 高い建物、遠い空、見たこともないひとたち。

 嗅いだこともない匂いが幾重にも重なり、思わず長い鼻――マズルをぐっと両手で握り込んでしまった。

 そこに、「おーい」とのんきな声がかかった。次いで、ぽん、と肩をたたかれた。

「きみきみ、よくきたね。いらっしゃい。

 わたしは七式葉子ななしきようこという。とりあえずいろいろ説明するから、こっちに着いてきてくれるかい?」

 なんとも気軽に声をかけてきたのは、頬に十字傷を持つ、ちょっとした威圧感や「不可視の力」の残滓がある、長い金髪の女性だった。


 葉子に説明されて、エータは知る。

 ここは「地球」という場所で、ここ300年程度調子が悪いらしい。

 そのなかでも、特にバランスを崩しているこの国には、いろいろなところから、いろいろなひとがやってくるようになったのだと。


 元の世界に戻る研究はなされているが、いまだに方法はわかっていない。

 そんなわけで、君はどうしたい? 葉子は足を組み直して問いかけた。


「エータ・アガラス・レンヴェントくん。君は少し魔法のようなものが使えるね?」

「「不可視の力」のことですか? おれの居た世界のやつならみんな使えます」

「うん、であれば、それを生かした仕事について、衣食住をまかなってみてはどうだろう」

「そうですね……なんというか、まず、すべてに慣れるために、そうした方がいいような気がします」

「そうこなくては! うんうん、じゃあちょっとこれに、名前を……文字は書けるね?……そうそう、そこにちょろっと書いてくれ」

「……これでいいですか?」

「よしよし! これで君はわたしの部下だ! キリキリ働いてもらうから、よろしく頼むよ!!」

「え」


 エータはついに文句も言えず、葉子の一番下っ端の部下となった。



 そうして、おおよそ3ヶ月。

 エータは、この国の文化とおおよその政治と、世界情勢と基礎的な読み書きを学習した。

 今日は、そんなエータの初の当番の日である。

 当番とは、街を巡って、この間のエータのような、「来てしまったひと」……「来訪者」を見つけることである。最初の手助けをする立場だ。責任は重い、とエータは考えていた。根が真面目なのである。

(で、組む相手ってどんな人なんだろう……)

 当番は二人一組で行う。夜の方が発生率が高いため、夕暮れ時から30組ほどが街に出る。

 エータが先輩から聞いていることは、相手は女性だということと、その二つ名だけである。

 なんでも、すごい美人で、実績もあり、いろいろな人の調整をしないと「こうはならなかった」らしい。

 ……美人相手はうれしいが、後半がなんだか不穏である。

 二つ名は「散桜さんおうの令嬢」。

 ちょうど今どこに行っても咲いている花が、桜、ということは習っていた。

 その散る様がとても美しいことも。

 

 エータは正直者でもあった。

 もう、諸々が手がつかないので、落ち合う場所に20分も前に来てしまった。

 さて、もうすぐ時間である。

 背後に、人が降り立つ気配がした。空を飛んでくる人なんてたくさん居るので、あまり気にしない。だが、どうしても鼓動が早くなってしまう。

 どんなひとなん――。

「すまん、待たせたか、エータくん」

 この3ヶ月、一番聞いた声がした。

「え」

「さすがの聴覚反応だな。わたしが来たことに気づく耳はなかなかない。見所通りだ」

 ぐるん。エータは振り向いた。

 そこには、確かに、女性がいた。

「なっ、よっ、ななな」

「うむ、七式葉子だ。よろしく頼む」

「え!? なぜ!?!?」

「散桜、というと、わたしのことを指すのだ。桜が散り、葉が出るわけだな」

「美女は!?」

「つまり、わたしが君の思い描いていた美女だ」

「詐欺だろ!!」

「ほう? 詐欺? わたしが美女ではなく実力者でもないと?」

 金髪が夕風になびき、その紅い瞳が底光りした。

「すいませんでした!!」

 エータは正直に謝った。

 葉子の強さや、容赦のなさは、この3ヶ月の学習や訓練で身にしみている。少々恐怖感も伴って。


「さあ、キリキリ働いてもらうぞ! その長い鼻も、頭の耳も、すべては『「来訪者」のために』!」

「ら、『「来訪者」のために』!」



 二人はそして、人混みの中へと溶け込んでいく。

 エータの新たな生活は、ようやくはじまったばかりだ。



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エータくんの受難 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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