第12話(終)3月

「ああ、簡単だったな」

 自分の口が勝手に喋った、自分の声。だがそれは自分の言葉ではなかった。

 幻(げん)がハッと我に帰った時には、もう手遅れだった。一瞬スキを見せただけ。その一瞬で、幻は身体を乗っ取られていた。

「あの姿だと、形を保つのも大変なんだ。この身体は力を持ってる。さすが、元・鵺栖(ぬえす)の神候補の孫で、自身も候補なだけあるな」

 自分の声が、自分に嫌みっぽく語りかける。自分の唇が、ニヤリと端を持ち上げる。意識はあるのに自分の身体を勝手に動かされるこの違和感を、幻はおぞましく感じた。

 幻の右手が、赤い目玉を二つ、ころころともてあそんでいる。自分の手の中にあるのに、自分の手の中にないこの焦燥。歯がみしようにも、あごは動かない。

「あいつらは、お前を追ってくる」

 あやかしは幻の身体で、くつくつと喉の奥から笑い声を立てた。

「『僕』を連れ戻しにやって来るんだ」

 ――違う、お前じゃない。社(やしろ)も真稚(まわか)も、僕を連れ戻しに来るんだ。

「そうかな? お前は僕が何者かを知らないし、自分が何者かも知らない。……聞かせてやるよ」

 そう言ってあやかしは幻の声で幻に語った。

 あやかしに堕ちた鵺栖の神のこと、そして次代の鵺栖の神にされるという、幻の運命を。

「分かったか? お前はお前だから大切にされたんじゃない。お前が神候補だから大切にされたんだ」

 くつくつと笑いながら、あやかしは言った。

「この町の為……この世界の為にお前は犠牲になるんだ。お前がこの町で仲良くなったと思っていた奴らは皆、お前に助けてもらいたいがゆえの打算で付き合っただけだ。これから何十年と犠牲になるお前が可哀相だから同情しただけさ」

 幻は、思ったより静かな心でそれを聞けた。

 全くショックを受けなかった、と言ったら嘘になる。確かに、社が幻を気にかけてくれた理由の一つは、幻が神候補だったからかもしれない。真稚が心を開いてくれた理由の一つは、幻が人間ではなくあやかしだったからかもしれない。だけど決して、それだけではなかったと『識って』いる。

 打算や同情だけで、人を愛せる人はいない。本当に微かなかけらでも、相手を想う気持ちがなければ、人を愛せはしない。

 四月にこの町に来てから、幻はこの町の人々と触れ合い、温かなものを沢山もらった。あやかしさえも受け入れるこの町で、自分もそうなりたいと思った。相手が向ける感情が打算や同情だけだったら、彼らのように『なりたい』などと、幻が思うはずがないのだ。

 ――可哀相なのは君の方だ。

 幻の声なき声に、あやかしは目玉をもてあそんでいた手をとめた。

「……ああそうさ。お前が生まれる百年以上前にこの地に生まれて、この地に縛り付けられて、あやかしをおびき寄せる餌となって、あやかしを殺す剣となって、……『人』だった頃の記憶なんて消えてしまった」

 ぎり、とあやかしが幻の奥歯を軋ませる。

「お前が憎かったよ。だからお前の『自分が死んだ時の記憶』を封じてやった。お前など、自分が既にあやかしに殺されて死んだことにも気付いていない、タチの悪いあやかしになればいいと思った」

 ――それも君の仕業だったのか。

「ああ。なのにお前は黒い霧になることもなく、まるで人の様に、人と触れ合っていた。それはそれは楽しそうに」

 黒いあやかしになってしまった自分は、もう鵺栖の神ではいられない。自分を追い落とす存在――次代の鵺栖の神、幻が憎らしかった。

 幻の片手が、首を掴んだ。ぎゅう、と力が籠められる。自分で自分の首を絞める格好になったあやかしは、ゲホゲホと咳込みながら笑った。

「お前ばっかりずるいじゃないか。今までの神候補と同じ様に、お前も苦しんで苦しんで、苦しまなくてはだめだろ?」

 幻は、自分の顔を自分で見れない。だが今自分が……自分の身体を動かしているあやかしが、どんな顔をしているかは感覚で分かる。

 ……泣きそうな顔だ。

「この町をずっと守ってきたのはお前じゃない。あの神社にずっといたのはお前じゃない。シロの相棒もお前じゃない」

 自分が泣き出しそうな顔をしていることも、気付いていないのだろう。怨嗟の声は続く。

「どうしてこの町に来た。お前さえ来なければ、皆に忘れられる事もなかったのに。居場所を……居場所を奪うな……!」

 あやかしは涙の流れる頬に爪を立てた。がり、と引っかきながら、翠の目を見開いて、ぎりぎりと奥歯を軋ませる。

 幻はこのあやかしに、憐れみを覚えた。

 独りはさみしかっただろう。堕ちるのはこわかっただろう。暗闇はさむかっただろう。それらは全て、幻自身が味わう事になっていたかも知れないものだ。そしてこれから先、味わうかも知れないものだ。

 自分は既にあやかしに殺されていて、その時の記憶を封じていたのはこのあやかしだと言う。つまり、幻とあやかしは一度会っているのだ。もしその時に、さみしいと泣く声を、こわいと怯える声を、さむいと震える声を、『聴いて』あげられていたら。

 幻があやかしに何と声をかけたらいいか迷っていたその時、当のあやかしがガバッと俯いていた顔をあげた。

「来た……! ははは、やっぱり来た!」

 自分の見たい場所を映さない他人の視界。暗闇の中に、ほわりと微かな明かりが見えた。それはこちらに近付いているようで、だんだんと大きく、そして人の形をとりはじめた。

 しっかりと手を繋ぎ歩いて来る二人。幻は二人の名を叫びたかったが、実際に口を動かしたのはあやかしだった。

「社、真稚! 来てくれたんだね……!」

 あやかしが放った涙声に、幻は背筋を凍らせる。

(このあやかしは、僕に成り代わるつもりなのか……!)

 社と真稚は、黙りこくって幻を――あやかしに乗っ取られた幻を見つめていた。

 気付くだろうか。気付いてくれるだろうか。

 ほんの一瞬、社と真稚が目を見交わした気がした。気のせいかと思うほどの刹那の事だ。

 真稚が社と繋いでいた手を解き、駆け寄って幻に抱き着いた。

「幻、よかった!」

 真稚の腕の感触を、幻は絶望と共に感じていた。

 僕が僕でないことに、二人は気付いていない!

 幻の絶望を喜ぶように、あやかしが幻の顔で笑みを作る。手の中の真稚の目玉を、勝ち誇ったようにころりと転がした。

「わお、真稚!? えっとその……」

 慌てているのは、本気なのか演技なのか。

「そうだ、真稚の目取り戻したよ!」

 あやかしは、真稚の手の平に赤い目玉をころんと載せた。

 真稚がまだ、両目とも視力を失ったままだと思っているのだ。真稚はあの世から借りた仮初の片目でそれを見つめて、フッと笑った。

「ありがとう。だけどこれはもういらないんだ」

「え?」

 真稚は手の平を傾けた。目玉はするりと落ちて、闇に転がる。そしてあいた手が、もう一度幻を捕らえた。

「この身体は、お前と『代わる』から」

 自分の身体に無理矢理入っていたものが、するりと抜け出す感触があった。幻は瞬きをする。手を動かしてみた。呟く。

「動いた……」

 自分の思い通りに自分の身体を動かせる。幻の身体を動かしていたあやかしが、幻の身体から抜けたのだ。

 幻は一瞬表情を輝かせて、そしてすぐに凍らせた。目の前に、真稚が立っている。だがそれは真稚ではない。

「そういう事か……。また騙したのか、シロ」

 あやかしが真稚の声で語りかけた相手は、社だ。

 社はあやかしを憑依させた真稚を縛り上げ、その体中に何枚も何枚も、筆文字の書かれた札を貼り付けていた。

「幻」

 社は幻の方を見ずに、言った。

「今まで鵺栖の神の事、何も説明しなくてごめん。君がもう死んでる事も黙っていてごめん。君が集めてるのが待子(まちこ)さんじゃなく君の遺体だって、知ってて言わなくてごめん。あとえーっと……とにかくいろいろごめん」

 あやかしを取り憑かせた真稚から目を離せない社は、幻に背中を向けている。どんな表情でその言葉を紡いでいるのか、幻には見えない。

「後でいいよそんな事! それより早く、三人で元の世界に戻るのが先でしょ? ……何で今そんな事言うの!?」

 理由は半分解っていて、でもそれを信じたくなくて、幻はあえて問うた。

 社が小さく笑ったのが聞こえた。きっといつものように、苦笑混じりの笑みを浮かべて。

「俺と真稚は戻れない。……幻、君の意見を聞いてあげられなくてごめん。でも俺達の最後の願いだと思って、聞いてほしい」

 風が吹いた。その風が、幻の足元をさらう。

ふわりと重力を失ったように身体が浮いて、社や真稚から急速に遠ざかる。幻は必死に空を掻いたが、そこに留まる事はできなかった。

 最後に聞こえた社の声は、静かな、それでいて断ることなど出来ない重さを持って幻の耳に届いた。

「鵺栖町を頼んだよ」



 気付いた時には、マットレスの上にぼふんと着地していた。幻は何が起きたのか分からず、しばらく動くことさえできなかった。

マットレスに寝転んだまま、空を見ていた。昼間の太陽が、暗闇に慣れていた目を射す。

 戻ってきたんだ。

 そう分かった瞬間、幻は跳ね起きた。キョロキョロと辺りを見回し、表情を急変させた。

「社、真稚!」

 その叫び声で、何人かが振り返った。

「幻! 幻、大丈夫か!?」

 宮本(みやもと)が全速力でやって来て、幻を肩を掴む。心配は有り難いが、今はそれよりも大事なことがある。

「宮本。社のグランパか、観(かん)や荘(そう)、どこにいるか知ってる!?」

「あ? あー、あの人ならあっちの出店でもち焼いて……って、おい!?」

 最後まで聞かずに走り出した幻を、宮本は慌てて追いかける。

「社のグランパ!」

 社の祖父は駆けてきた幻を見て、安心と、諦めと、たくさんの感情が混ざった複雑な顔を向けた。

「幻坊、無事だったか! よかった、天の岩戸作戦成功だのう」

「アメノイワト?」

 幻は首を傾げる。

 神話になぞらえ、あやかし世界に消えた者を取り戻すための祭なのだと言う。昔から神隠しやあやかしごとの多い鵺栖に伝わる、魂をこの世界へ呼び戻すための祭。

「社と真稚が戻ってないよ!」

 幻の叫ぶような声に、社の祖父は唇を真一文字に引き結んだ。

「その事だけどな、阿幻……」

「めっさ言いにくいんやけど……」

 幻が戻った事に気付き、荘と観も出店を放り出してやって来た。何と伝えていいか言葉を探している二人を片手で制し、社の祖父が重苦しい口を開いた。

「あの二人の事は諦めい。もう戻っては来れん」

「え?」

「社と真稚嬢ちゃんは、もう戻らん覚悟で向こうへ行った。お前さんを助けるためと、あやかし堕ちした鵺栖の神を抑えるためにじゃ」

 幻はどくどくとうるさい心臓を押さえて、無理矢理笑った。

「……嘘ですよね。みんなで僕を騙してるんだよね?」

 荘も観も宮本も、俯いたまま何も言わない。それが何よりも、真実を語った。

 息が苦しい。

 空気がうまく肺に届いていないような気がした。

 空が色褪せた気がした。

 祭の喧騒が、人々の笑顔と笑い声が、空々しいものに聞こえた。

 ぱん! と目の前で大きな音がして、幻はビクッと肩を震わせ我に帰る。社の祖父が、幻の鼻先で手を叩いた音だ。

「しっかりせい。二人が何のためにお前さんを助けたと思うとるんじゃ。ここでお前さんまであやかしに堕ちてどうする」

 これが、孫とその友を失った人の言うことか。

「何でそんなに簡単に割り切れるの」

 幻が社の祖父に問う声が小刻みに揺れた。

「お祖父さんの孫で、荘と観の友達で、この町でみんなが知ってる神社のお兄さんが、犠牲になったんだよ?」

「犠牲じゃあないぞ。あやつは自分の意志でそうしたんじゃ。自分の命を何に捧げるか。誇りを持って選んだそれを、批判する権利は誰にもない」

「何だよそれ……っ!」

 かっと怒りが湧いた。

 みんな身勝手だ。世界を守るため、町を守るために、誰かを犠牲にするなんて。まるでその誰かが「世界」を構成するものから外れているかのような口ぶりで。誰しもがこの世界の一部なのに。

 社と真稚も同じだ。自分達が消えた世界でこれからを暮らしていく、遺された人の気持ちがわからないのか。自分達がいなくなってもこの世界は何も変わらず回りつづけると、そう思っているのか。

「誰かが犠牲になったら世界が救われるとか、そういうの全然気に入らないよ!」

 中学校のグラウンド中に響き渡る大音声。

 人々の喧騒が、ぴたりと消えた。この場に集まった、二千人近い人々をぐるりと見渡す翠の目の中に、蒼い炎が揺らめいていた。

 幻にとって『鵺栖町』という世界は、社と真稚がいてこその場所だった。社と真稚がいなくなったこの世界を、幻は前ほど魅力的には思えない。

「人がひとりふたりいなくなっても世界は変わらず回るとか思ってるんだったら、そのバカみたいな過小評価どうにかしてよ!」

 幻の怒声を真正面から受けた形の社の祖父は、その尤もすぎる言葉に、俯くしかなかった。

 しばらく沈黙が続いていたが、人垣からぽつりと呟きが漏れた。

「……それでも、守りたいんだ」

 幻の言いたい事はわかる。反論もない。だけどそれでもこの町の住人は、そして鵺栖神社の高遠(たかとう)一族は、世界を守るために命を懸ける。

「わしらは皆、自分という存在を軽んじとるわけじゃない、ちゃんと大切にしとる。だからこそ、自分を育んだこの町が、自分を取り巻くこの世界が、大切なんじゃよ。自分を捨ててでも守りたいくらいに」

 矛盾しとるかもしれんがの、と社の祖父は付け足した。

 感情的に怒鳴って乱れた息を溜息めいた深呼吸で整えて、幻は静かに口を開いた。

「皆さんの言いたい事はよく分かりました」

 社の祖父は伏せていた目をあげる。

「僕こそ考えなしに怒鳴ってごめんなさい。……辛くないはずがなかったのに……」



 縛り上げられ、体中に札を貼られて座り込んでいる真稚。真稚と背中合わせで、同じく座り込む社。二人は目を閉じ、会話もなく、ただ静かに呼吸していた。

 これから二人はこの闇の中で、永遠を過ごすのだ。先代の鵺栖の神をその身に封じた真稚と、それを見張り続ける社とで。

 一瞬も気を抜くことなく。一瞬も心を揺らすことなく。

 人間である真稚は、あやかし堕ちしたまつろわぬ神であるとはいえ、鵺栖の神には敵わない。鵺栖の神にその体を乗っ取られたまま、主導権を取り返す事はできなかった。

 希望といえば、このままずっと鵺栖の神と同じ身体に居続ければ、真稚の魂もゆっくりとあやかしへと変じ、あるいは鵺栖の神より優位に立つ可能性がないでもない、というくらいの微かなものだ。

 そしてそれに寄り添う社もまた、身の内のあやかしがこの闇で活性化して暴走しないとも限らない。それを押さえこみながら、真稚にとりついたあやかしから意識を逸らさないようにしている。

 いっそ殺してくれと叫びたくなるほどの状況。

 それでも二人がこの使命に命を賭すのは、守りたい世界があるからだ。そして、その世界を場所は違えど共に守ってくれるはずの少年を、信じているからだ。

 不意に、真稚が喉の奥で笑った。真稚ではない。真稚に憑いたあやかしだ。

「あの異国の子供が、そんなたいそうな存在か?」

「…………」

「少しつつけばぐらぐらと精神が揺れる。力は強いが自分が死んでいることすら思い出せない鈍さ。この町の育ちではないから命を捨てる覚悟もない。どれをとっても、不安材料にしかならないじゃないか?」

 くつくつと喉の奥で笑うあやかし。

 これは攻撃だ。社と真稚を動揺させようとしているのだ。

 しかし、社も真稚もそんな言葉で揺れる心など持ち合わせていない。社は微笑みすら浮かべて、その言葉を聞いていられた。

「心が揺れるのは、誰かの言葉に耳を傾けられるからだ。お前の言う『鈍さ』は、生も死も丸ごと受け入れる器の大きさだ。命を懸ける必要はない、命の重さを知っているだけで充分だ。幻は不安材料なんて吹き飛ばして余りある資質を持ってるよ」

 今度はあやかしが黙る番だった。

「幻はきっと俺達の分まで、鵺栖町を、あの世界を守ってくれる。そう信じたから俺達はここに来た。今更揺るがない」

 全幅の信頼。それは本来、自分に向けられていたはずなのに。

 あやかしは片目しか見えない真稚の赤い目で、暗闇を睨んだ。

「俺も聞きたいことがある」

 背中越しに聞こえた声に、あやかしは無言で続きを促した。

「どうして突然、『黒』に堕ちたんだ」

 黒い霧を纏う前、祖父や今は消息不明の父と組み、鵺栖の町を守っていた時の事を社は知っている。

 あやかしと対峙を重ねる事で、自らも闇に引き込まれる例は聞くが、少なくとも社の知っているこの神は、そう簡単に揺らぐようには見えなかった。白い水干と藍色の袴を翻す凛とした立ち姿に、幼い社が何度見とれた事か。

 真稚の姿をしたあやかしは、顔にも貼られている札の陰で、そっと口端を持ち上げた。

「あの異国の子供が二の轍を踏まないように、知っておきたいといった所か? 教えてやる義理はないな」

「そんなんじゃないよ」

 ぴしゃりと否定されて、あやかしは背後の存在に意識を寄せる。

「どうしてお前がそうなったのかが、知りたいからだよ」

 あやかしは一瞬口をつぐんだ。そしてすぐに、さっきよりも口端をつりあげ、喉の奥で笑う。

「……やっぱり、教えてやる義理はないな」

 今更話せるはずもない。例え語るにしても、社相手には絶対に話せない。

 それが約束だから。

 黒い霧を纏うより前の約束を、あやかしは今も破れずにいる。まるで呪いのように。



「鵺栖神社の宮司として、君に尋ねる」

 社の祖父が、真剣な顔をして幻の目を見つめた。

「この町の神になるということは、世界中からあやかしを集めるための囮となり、それを倒しつづける修羅となり、いつ自分もそちら側へ引きずられるか分からん危険な立場に身を置くという事じゃ」

 幻は無言でそれを聞いていた。社の祖父を、翠の目でまっすぐ見返して。

「今まで何も説明してこんで、悪い事をした。もっとゆっくりこの町に馴染んでもらって、ゆっくり選んでほしかったんじゃが……この通り、そう悠長に構えてられん状況になってしもうた」

「うん……そうですね」

 ゆっくり頷いた幻に、社の祖父がガバッと頭を下げた。

「身勝手を承知で平に頼む。幻・イグアス殿。この町の神になってはくれな、」

「いいですよ」

「………………おぉ?」

 懇願の言葉を言い切る前に返事が降ってきて、社の祖父は頭を跳ね上げ素っ頓狂な声をあげた。

 にこ、と笑う幻の瞳の奥で、蒼い炎がちらちらと揺れている。

「いいですよ。僕、鵺栖の神になります」

 軽い口調にしか聞こえない声音に、荘と観が心配げに眉を寄せる。

「おい阿幻……んな簡単に決めていいのかよ?」

「せやで、撤回できんのやし……」

「確かに、もしかしたらあとで後悔するかもしれないけど」

 幻は空を仰ぎながら呟くように言う。

「それでも僕は『今』、その力と肩書きが欲しいんだ」

 その瞳に映るのは、空を裂く黒い穴。あそこにいるのだ。大切な友達が。

 幻は今、二人を助けに行くための力が欲しい。

「みんながいくら『諦めろ』って言っても、僕はそんなん無理。助けにいくよ。だからその為の力をちょうだい」

「……………………」

「二人を助けられるなら、そのあと六十年死ぬ思いをしたって構わないよ」

 荘が溜息をついて首を振った。

「ダメだこりゃ。こんな自分勝手な私欲で神になろうなんざ、どんな罰が降るか」

「え」

「だから阿幻、俺に命令しろ」

「え?」

「『一緒に罰を受けてくれ』と、そう命令しろ」

 幻は目を見開いて、自分と瓜二つの男を見つめた。

「この町の住人は、命を捨てる覚悟すら出来てる。それに比べりゃ、罰の半分くらいなんだっつーんだ」

 ニヤリと不敵な笑みでそう言った荘に、観が嬉しそうに同調した。

「何やそんなん俺らも混ぜろや! そもそもここに集まっとる人ら全員、お前の為に集まっとるんやで?」

 幻は辺りを見回した。鵺栖町の人々が、笑顔で頷いてくれている。

「幻、俺達だって鵺の兄さんや白い巫女さん助けたいよ」

 宮本が、今まで見たこともないくらい真剣な顔で真っ直ぐ視線をむけてくる。

「例え鵺の兄さんがあやかしでも」

「!? 知って……」

「俺がみんなにバラしたった」

 観がしれっと白状する。

「この町で何を不安がっとんねん、っちゅー話やで。むしろ、言うてもらえてへんかった事の方がショックやったわ」

「白の小姐の事は、この町の人間はだいたい事情を知ってるしな」

 荘はニヤリと意地悪く笑う。

「今回の件で阿部(あべ)大人が鵺の老師に抗った事も、忘れやしねえだろうさ」

「……さっきはみんなああ言ったけどさ、助けられるものなら助けたいよ。幻、お前なら出来るのか」

 宮本の真剣な眼差しに、幻はしっかりと視線を返す。

「分からない。もしかしたら失敗するかも。それですごいしっぺ返しくらうかもしれない」

「それでもいいよ。頼む。呪い返しは、ここにいる全員――鵺栖町の二千人が受ける!」

「お前だけに全部押し付けようなんて、んなこと思ってないぞ!」

「そうだよ、手伝わせてよー!」

 わあわあと人垣から声があがる。幻は自分の顔が笑顔になっていくのをとめられなかった。

(いいなあ、この町)

 僕、好きだなあ。自然にそう思えた。



 また沈黙が続き、そのまま時間が流れた。何分、何時間経ったのか分からない。時間の感覚が希薄な世界では、一瞬も永遠も変わりなく思えた。

 時々、真稚の中のあやかしが気を抜くのか、真稚が表層に出てこれる瞬間があった。

「社」

「真稚か。大丈夫?」

「そっちは」

「平気」

「そうか。じゃ、また」

 そんな短いやりとりでも、ないよりはずっとマシだ。永遠の時間と空間が広がる中で、気が狂わずにいられる。

「シロ」

「お前か」

 同じ声でも、社を呼ぶ名が違うのですぐ分かる。真稚に対する時とは対極の声音に、あやかしはくつくつと喉の奥で笑った。

「退屈だろ」

「うるさい」

「そう言うなよ。ちょっと面白くなりそうだぞ?」

 え、と社が腰を浮かせて振り返ると、真稚の――あやかしの頭ごしに、見知った顔が見えた。

 真稚の銀色の髪と対になるような金色の髪。蒼い炎を宿す、翠の瞳。闇に溶け込むようで、けして同化しない褐色の肌。

 片手に風呂敷包みを持っている。あれはたしか、あの世から持ち帰ったはずの……。

「社、真稚。帰ろう」

 にこ、と笑って言う幻のその笑顔を、社は驚愕の表情で、あやかしは憎悪の表情で、それぞれに見つめていた。

 社は驚愕が去ったあとは困惑の表情を幻に向けた。

「幻、どうして戻ってきたんだい? 俺達の代わりにあの町を頼むって……」

「うん、頼まれたし引き受けたよ。だから助けに来たんだ」

「え?」

「二人だって町の一員でしょ? 二人を助けられないで、あの町を守った事にはならないよ」

 社はまた、驚きに目を見張るはめになった。

 幻は社から視線を外し、人を殺せそうな目で自分を睨んでいるあやかしを見る。

「二人を返して」

「バカが。返す訳がないだろ」

 間髪いれずに返ってきたにべもない答えに、幻は苦笑する。

「……言うと思った。それじゃあ、取引をしよう」

 その言葉に驚いたのは、社だけではなかった。

「取引って……お前、何考えてるんだ?」

 真稚の顔を怪訝そうに歪ませて、あやかしは少しだけ身を引いた。

 言動が読めない。あやかしはさらに視線に力をこめ、一瞬走りそうになった動揺を押さえ込んだ。

「取引をするにあたって、まずしてほしい事があるんだ」

 幻がぴっと人差し指を立てる。

「まず一人……社を元の世界へ戻して」

「な……何言ってるんだ幻!?」

「もしそれが聴き入れられないなら、この取引は決裂だ。……さあ、どうする?」

 どこまでも不敵な笑みが、あやかしには不気味に見えた。

 あやかしは自分の居場所だったはずの場所にきれいに納まっている幻を憎んでいた。あわよくば、消してしまいたいほどには。

『取引』は、昔からあやかしの得意分野だった。相手がどんなに強い力を持っていても、取引の上でならあやかしは神にすら負けなかった。その自分に対して取引を持ち掛けるとは。

 あやかしは口元を緩ませる。

『取引』で負けるはずはないという自信もあって、内容を聞いてやってもいいか、という気になっていた。どんな猿知恵を披露するつもりか知らないが、もし内容が気に入らなければ取引に乗るのをやめ、もう一度社をこちらへ引きずり込めばいいだけの話だ。真稚の身体を押さえている以上、社はさして抵抗もせずこちらへまた来るだろう。

 あやかしはニヤリと真稚の唇で笑んで、頷いた。

「つまらない取引を持ち掛けたら、その代償ももらうからな」

 そう言って、顔に貼られた札をばりっと剥ぎ取る。少し力をこめれば、身体を戒めていた縄も札も、全て細切れになった。

 術を簡単に解かれて驚く社の眼前に掌を広げる。

「――!」

 社が何か叫んだ気がしたが、その声が届く前に社は消えた。

「これでお望み通りだ。さて、取引とやらの内容を聞こうか?」



「待て!」

 社の叫び声が響いたのはあの暗闇ではなく、鵺栖中学校のグラウンドだった。

「鵺のあんちゃん!」

「大哥! 無事か!」

 観と荘がすぐさま見つけて駆け寄ってきた。社はお祭り騒ぎの辺りを見回し、事情をほぼ理解した。

「そうか。幻は神になったのか」

 鵺栖の神は、鵺栖の住人からの祝福を受けて継承する。この祭は一見ただのどんちゃん騒ぎだが、今やこの国のどの祭よりも『神事』としての祭になった。会場に集まる人々が、新しい鵺栖の神に力を分け与える神事だ。

「なったのか、じゃねーだろ! 何一人で戻ってきてんだよ!」

 三白眼を吊り上げて噛み付いたのは三和(みわ)だ。

「あの白い女と、肝心の神はどうしたんだ!」

「…………」

 社は何と説明していいか分からず言葉に詰まった。

 更に責めの言葉を投げようとする三和を手で制し、社の祖父が社に歩み寄る。

「じいちゃ……宮司。鵺栖の神を連れ戻す事が出来ず申し訳ありません」

 そう言って最敬礼を取る社。その頭を、社の祖父はわしゃわしゃと撫でた。

「何言っとる、お前が無事でわしゃ安心したぞぃ。それに、幻坊はきっと戻ってくる」

「え?」

「瞬時にあんな事を思い付くとは……さすが待子さんの孫じゃ。……さて、社。お前、もう一度あっちへ行くつもりはあるか?」

「勿論」

 間髪いれずに頷いた社の額を、ぴんと指で弾いて、社の祖父は苦笑した。

「言っとくがの、『先代を封じに』じゃあないぞ。『当代を迎えに』行く気はあるか、と聞いとる」

「!」

 額を押さえて、社は目を丸くする。

「先代は、幻坊が何とかする。その後、幻坊と真稚嬢ちゃんを迎えに行くのがお前の役目。どうじゃ?」

「ちょ、ちょっと待ってよ。何とかするって……幻は何をするつもりなの? あいつの事はもう助けられないって、俺も真稚も諦めたのに……!」

 だからこそ、自分達の命と未来を全て懸けて封じようと、その覚悟で向こうへ行ったのに。

「幻坊が何をするつもりなのかは、迎えに行けば分かる。じゃが、もし戻るつもりがないならお前を行かせるわけにはいかん」

「……どうして。じいちゃんなら分かるでしょう、俺の覚悟」

 鵺栖に生きる者なら、皆が持つ覚悟を。

 社の祖父は数秒の沈黙の後で静かに首を振る。

「幻坊は鵺栖の神を引き受けた。ただし、条件付きでじゃ」

「え?」

「『お前と真稚嬢ちゃんがいる』この町を守りたいんじゃとよ。二人がこの町に戻らないなら、自分も戻らないと、そう言いおった」



 幻は、社が元の世界に戻ったのを見て、ホッと安堵の息をつく。

「君が条件を飲んでくれてよかった。これから話すことは、社には聴かせたくなかったんだ」

「はっ。神になって早々、神社の人間に隠し事か。とんだ不良じゃないか」

 鼻で笑ったあやかしに、幻は柔らかく笑いかけた。

「……人の為につく嘘なら許されるんだよ。君なら知ってると思ったけど」

 あやかしはすっと表情を消す。低い声で言った。

「……何の事だ」

「君が何故『黒』に堕ちてしまったのか、僕は『識って』る。そう言えば分かるでしょ、っ!?」

 言葉が終わる前に、喉が絞まった。あやかしが、真稚の手で幻の首を絞めていた。

「どうして……どうしてお前が知ってる!」

 ギリギリと首を絞められながらも、幻は少し眉をしかめた程度だ。

 手が緩んでいく。あやかしの動揺に乗じて、真稚が主導を取り戻しかけている。

「神になって、鵺栖の人達の力を分けてもらったから。『識る』『観る』『捕まえる』『借りる』『介する』力……全部使って、探して連れて来たよ」

 真稚の腕には、もはや力は入っていない。幻はその手をそっと下ろして、宙に手を伸ばした。

 その手にヒラリと一頭のアゲハ蝶がとまる。

「君が逢いたかったひとだよ」

 あやかしは横っ面を叩かれたような顔で、蝶を見つめた。

「……八尋(やひろ)?」

 消え入るような小さな声で、あやかしが名を呼ぶ。

 蝶は幻の指先からヒラリと飛び立ち、あやかしの肩にとまった。肩に重みが加わる。横目に、肩に手が乗っているのが見えた。その手の甲に、見慣れた傷痕。

 あやかしは振り向こうとして、懐かしい声に制された。

「こちらを見ないでくれ。お前に合わせる顔がない」

 自嘲を含んだ静かな声は、社の声より少し低くて、だが話し方や声の調子がよく似ていた。

 高遠八尋――社の父親だ。

「お前……まだそんな姿でいるのか」

「転生するにはまだ少し時間がかかりそうでね」

 ぼそぼそした声と、静かで穏やかな声が会話する。

 幻はその様子を蒼い炎がちらつく瞳で見つめた。その視線に気付き、八尋が頷く。

「不甲斐ない私の最期の頼みが、お前を苦しめていたようだね」

 あやかしが顔をあげる。だが横を振り返ることができない。いつだって彼の願いは、一つ残らずきいてきた。

「『黒』になってまで、この町の側にいてくれてありがとう。後は次代に任せて、我等はそろそろ隠居しようか」

 肩にあった手が、ぽん、と頭を撫でる。

「お疲れ様」

 真稚の――あやかしの瞳から、ぼろっと大粒の涙がこぼれ落ちた。

 社の父は、あやすようにその頭を優しく撫で続ける。

「先に『黒』に取り込まれたのは、この方ではなく私だった」

 社の父の言葉は、幻に語りかけているはずなのに独り言のように響く。幻は耳を傾けるが、相槌すら挟まない。

「この方は私を助けるため、自らを取引材料として『黒』と取引をした……お陰で私は黒に堕ちずにこうして今、『私』のままでいられる」

「そしてその顛末を、誰にも伝えないでほしいと……そう頼んだんですね」

 幻が静かに言葉を継ぐ。社の父が頷いた。

「誰も私の生死すら知らないだろう。この方と私の最期の力で隠しているから。それが私の最期の頼みだった。『黒』が力を増していた時期だった。鵺栖神社の神職が黒に負けたとあっては、町全体が動揺してしまう。それを避けるためだったが……何人かには、本当に辛い思いをさせてしまった」

 肉親の生死すら分からない社とその祖父。社の父も辛かったはずだ。供養もされず、たださまようだけ。しかし誰より苦しんだのは、黒に堕ちた先代の鵺栖の神だろう。

 それでもあの時は、これが最善だった。

 社の父の表情に、後悔はない。ただ、苦笑混じりに微笑むばかりだ。

 社の父はしばらく黙ってあやかしを撫でていたが、幻に視線を向け、ニッコリ笑う。そして深々と頭を下げた。

『ありがとう。この町を頼みます』

 声にださない言葉を聴いて、幻は力強く頷いて見せた。

 ふっと真稚が目を閉じ、倒れる。その身体を受け止めたのは、真稚の背後に現れた少年だ。

 白い水干、藍色の袴。黒い霧がまだ晴れきってはいないが、その瞳は綺麗な紫色をしていた。涙が、漆黒に染まった瞳を洗い流したかのようだった。

 少年は丁重な手つきで真稚の身体を横たえ、社の父を見上げる。

「じゃあ、行こうか」

「ああ」

 彼らは彼岸へ向かうのだ。そこがどんな場所なのか幻は知らない。この町であやかしごとを起こした彼には、罰が待っているかもしれない。

「あの!」

 幻はあやかしに駆け寄って、持っていた風呂敷包みを差し出す。

「これ……もし使えるようなら、使って」

 あやかしは中身が何なのか知っているようで、渡された事に戸惑っていた。

「でもお前、これは……」

「これが僕の『取引材料』だよ。君の居場所を預かる代わりに、これを君に預ける」

「…………」

「君がこれを使ってくれたら、そしていつか帰ってきてくれたら、……僕らには『君だ』って一目で分かるから」

 あやかしは少し迷っていたが、やがて少し苦笑して、その荷を受け取る。小さく会釈した社の父と並んで歩きだした。

「待て!」

 突然響いた声に、あやかしと社の父とが足を止める。一瞬間が空いて、あやかしだけが振り返った。

 息を荒げた社が、幻の隣に立っていた。

「また来たのか、シロ」

「幻を迎えに来たんだよ……」

 そう言いつつ、社の目はあやかしとその隣の後ろ姿に注がれる。

「……行くのか」

「ああ。こいつを送っていかないと。方向音痴でな」

 隣で硬直している背中を、あやかしはぽんと叩く。

「…………」

 社は闇に目を凝らす。見覚えのある後ろ姿。口を開いた瞬間に、その姿は消え、アゲハ蝶がひらりと舞う。肩にとまった蝶にあやかしは微かに苦笑して、社に手を振った。

 社は手の中にあったものを、あやかしに向けて投げる。ぱしんと片手で受け止め、手の平を開くと、五円玉が載っていた。

「ご縁がありますように、だってさ」

 苦笑混じりの微笑。

 社のその表情にあやかしは一瞬目を丸くしてから、愛おしげに眇めた。衣を翻して踵を返し、闇に溶けるように消えていった。

「行っちゃったね」

「うん」

「本当は、一緒に行きたかった?」

 幻の問いかけに、社は真稚を抱き上げながらいつも通りの微苦笑を返す。

「いや……俺はまだ当分、こっち側にいるよ」

 そして三人は、鵺栖の町へ戻った。



『……そうか、分かった』

 アメリカへはもう帰らない。電話越しにそう告げた時の類(るい)の返事は、意外と落ち着いたものだった。

『こっちは元々、ユェンは死んでる事になってるから、心配ないよ』

「あー……それはそれで複雑だけど……うん、ありがとう類」

 幻は自分が死んでいる事に気付かず人々と接していたが、目の前からその姿が消えると、周囲の人間はみな幻が死んだ事を思い出した。

 来日からもうすぐ一年が経とうとしている。もう幻が死んだ事を認識していない者はいない。留学と称し日本へ来た時に、幻はアメリカでの居場所を失っていたのだ。

『それにしても……ユェンが精霊にねえ』

「僕だってまだあんまり自覚ないよ」

 幻はまず、『人でない自分』に慣れる所から始めなければいけなかった。今はだいぶ馴染んだが、それでも自分が神であるという自覚は薄い。

 神になる前と同じように、学園に通って宮本達と遊び、社の祖父の神社の仕事を手伝い、桜の木まで真稚を迎えに行き、社の作ったご飯を食べ、あやかしごとをこなした。

 何も変わらない。変わらず、楽しい日々だ。

『そのうちまた日本に会いに行くよ』

「そうしなよ。もうすぐ桜が咲くから」



 真稚はいつも通り、神社の裏の丘、桜の木の上でうたた寝をしていた。

 枝についたつぼみは綻びかけ、数日中の開花を告げる。思えば、この桜に集まった魂を昇華させたのが、幻がこの町で初めてこなしたあやかしごとだった。

(あやかしを憎んで復讐の為にここに来たあいつが、一番あやかしに近い場所に落ち着くとはな……)

 そして、人間を嫌ってあやかしに添いたいと思っている自分が、一番あやかしから遠い立ち位置にいる。皮肉なものだ。

 半分あやかしである社。完全にあやかしとなり鵺栖の神になった幻。

 自分だけがまだ人間である事に、何か意味があるのだろうか。

「真稚ー!」

 木の下から名前を呼ばれて、真稚は片目をあけて下を見た。

 噂をすれば影、というやつだ。金髪を陽に透かし、幻が手を振っていた。

「出かけるからJoinusしようよー」

「行くわけないだろうが」

「でも僕ら四人が呼ばれてるんだよ」

 鵺栖神社の面々を呼んだのは、『祭』の時に尽力した町の有力者達だ。それでも動かない真稚に、幻がボソリと告げる。

「来ないと夕飯ないよ。場所は料亭とらつぐみだもん。きっとご馳走だよ?」

 町一番の高級料亭の名を聞いて、真稚は極限まで眉をしかめつつ、木から飛び降りた。



 その日行われた町の重鎮との会食は、あるひとつの話題に終始した。鵺栖町役場に新設される部署。その人員候補に、社はその場にいない二人の名を推挙した。

 荘吉祥(きっしょう)と羽田(はねだ)観。後日、神社に呼び出され話を聞かされた本人たちは、驚きに声をなくした。

「せやかてなあ、ホンマなんかその話……。役所にあやかし対策の部署を作るて……そんなんできるんか?」

「うん。まあ非公式の部署だけど、有事の対応は今より早くなるよ」

 洗濯かごを抱えて戻ってきた社に、縁側の観は眉をしかめて見せる。

「あの町長はんが、よぉ許したな」

「町議会議長がじいちゃんの幼なじみでね。結構ゴリ押ししたみたい」

 持っていた湯呑みをとんと置き、荘が真剣な表情で社を見上げた。

「で? どうしてその部署に鵺の大哥も阿幻も入らねえで、俺と殯の大哥、白の小姐の三人だけなんだ?」

 観も同じ疑問を抱いているらしく、二対の瞳が社を見つめている。社はいつもの微苦笑を返した。

「君達が人間だからだよ」

「…………」

「人間の世は人間が護らなきゃ。俺と幻は勿論手伝う。なんならその部署の手足だと思ってくれていい。でも」

 社は一旦言葉を切り、春の空を見上げた。

「人間の世を護る組織――それを動かす頭は、俺達じゃだめなんだ」

 少し間があって、荘の溜息が響いた。苦笑した観がからかう声音で言う。

「ワカちゃんは簡単には引き受けんのとちゃうん? その場で部屋飛び出さんかっただけでも僥倖やない?」

「はは。そこは料亭とらつぐみの料理のおかげだね。……地道に説得するよ」



    *           *



『綺麗な国だなあ』

 この国に来てみて、最初に思ったことはそれだった。

 東欧から飛行機を乗り継いで空港に降り立ち、電車とバスを乗り継いで約五時間。その道中でどんどん変わっていく景色に、何故か懐かしさを感じていた。

『探したよ……。君を見つけるのに十年かかった』

 そう言って少年を孤児院から引き取った男は今、少年の隣の座席で腕を組んで眠っている。

『類・イグアス』と名乗り職業はエクソシストだと真顔で言った彼は、少年と瞳の色が違うだけで顔立ちがよく似ていた。父母のどちらにも全く似ていない金髪翠眼・褐色の肌の少年は、本当に肉親が現れたのかと思ったほどだ。

 首から麻紐で提げられたコインをぎゅっと握る。生まれた時から持っていたらしいこのコインは、この国のコインだと言う。

『鵺栖~、鵺栖~』

 車内アナウンスがそう告げた途端、隣の男が飛び起きた。網棚から大きなスーツケースと小ぶりのボストンバッグを下ろす。

「ここで降りるよ」

 そう言われる前から、少年は降車駅がここであることを知っていたような感覚だった。

 降り立ったホームで車掌と目が合うと、車掌は笑顔で目礼し、何か呟いた。『お帰りなさい』と聴こえた気がして、首を傾げながら駅舎を出る。

 途端に、視界全部を淡いピンク色に染められ、思わず目をすがめた。

 桜の木の下に、三人の人影が見える。

 黒髪に微苦笑の青年。銀髪にしかめっ面の女性。

 そして、少年を迎えに来た青年より更に、自分によく似た少年。金髪翠眼のその少年が、手を差し出し言った。

「お帰り。今年も君の町の桜は、綺麗に咲いたよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鵺栖町あやかし譚 いわし @iwashi1456

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ