エピソード4・恋人
春先に秋田の元恋人が亡くなった。
彼をよく、かわいいといってはからかって、コロコロとよく笑う彼女だった――もう過去形。
それが数年前のこと。歴史に残る猛威をふるった、令和初期の感染症に倒れた一人だった。
「先生が大学生のときでした」
「それって……」
「当時は特効薬もなくて、彼女は死を選んだ」
「死を……」
「治療を拒んだんです。自分のせいなのだからと」
桜子は、見事な公園の桜の木に目をやる。摩天楼に囲まれた桜の名所だと有名だった。そのうちの何本かは、とうに葉桜になっている。うなだれて、背を丸めている秋田のえり足に、白い花びらが舞った。
なんとなくそれを見つめながら、桜子は秋田の肩口にとどまった、その一枚に手を伸ばす。何歳も年上のはずの秋田の背中が、うんと小さく、遠くに見えた。
「それは、先生のせいじゃない」
かすかにかすれた声で言い、桜子は秋田の背中にすがりついた。
「春川クン……」
「先生、わたしは人を殺したんです」
「え」
「わたしも感染症にかかって、でも症状が出なくて、知らずに家族にうつしてしまった……小学生のときです」
「なん……だって」
秋田は背中が熱いと思う。桜子の悲しさが、体の熱量とあいまってしみてくるのだった。
「祖母は肺炎で亡くなりました。わたしのせいで」
「そうだったのか……」
秋田は、なにか言葉をかけようと、体を起こした。
「春川……」
しかし、桜子は走り去ってしまった。
「春川」
ざわりと頭上の枝が風にゆらぐ。もう、彼女の姿はかすんでいた。
「気づかなかった……知らなかった」
三日後、凝りもせずに重々しく咲いた桜の枝を背景に、その公園で秋田と桜子は再会した。
「また、サボりかな?」
「先生こそ」
「あなたはここのところずっとでしょう。あ、先生は二回目です」
二人は、どちらからともなく、しだれた八重桜の下に座る。公園のこちら側と、通学路を分断する小川がせせらいでいた。
秋田などは、仕事が忙しすぎるのを理由に、しばらく眠りこけ、目覚めたらたっぷり十分ほど経過していたのだった。
桜子は、そんな秋田のそばで白く輝く太陽の下、桜が揺れるのを、黙って見つめていた。
「もう、お昼休みは終わりますよ」
「あ、すぐに戻らないと。次の授業の準備がっ」
「先生」
「ん?」
「どうしてここにいるの?」
「その質問はもっと早くに言って欲しかったです」
秋田は芝のついた上着をはたくと、そそくさと立ち上がる。桜子をせきたてると、学園にむかって走り出した。
「先生、質問に答えてもらってません」
「そう何度も授業をサボられたら、担任として、教育委員会にも顔向けできないです」
「それだけ……」
「重要なことですっ」
都会のグラウンド分くらいはある公園をぬけてしまうと、乱れた呼吸のままで、秋田はそっと言った。
「春川クン、時は金なりって知ってますか?」
「時は金なり……」
「その人の持っている時間は有限で――もちろん先生も、春川クンも同様にですが――とても大切なものです」
「はい……」
「その時を大事に生きるのに、重要なことが一つあります」
「重要なこと……」
「はい。過去は過去だと思うことです。過ぎたことは過ぎたこと――亡くなった方はもちろん残念でしたが――あなたを傷つけたりはしないのです。責めたりしないものです」
「でも……それじゃあ、わたしはどうすればいいんですかっ」
「あなたのおばあさまは、病気になったのはあなたのせいだと、そんなことを一言でも言いましたか」
「それは……」
「そんなことはないでしょう。過去はあなたをいじめたり、排斥などしません。あなたは自分を責めたりなどせず、生きた人間を大切にしなさい」
「先生は、わたしにそれを言ってるんですね?」
「はい。目の前にいる、春川桜子クンに言ってます」
「……そんなこと、考えもしなかった。わたし、祖母はわたしをうらんで死んでいったと思ってました」
秋田は息をつく。そんなことだろうと、思っていたのだった。
「生きた人間を傷つけるのは生きたものだけです。自分で自分を傷つけちゃいけませんよ」
始業のチャイムが鳴る前に、秋田は桜子を校内に追い立てた。
「どうして」
桜子は声をつまらせた。
「さ、早く教室へ行きなさい」
桜子の涙が散った。
「どうして先生はそれをわかってくれるの? どうして?」
秋田は無理やり口を押し開き、けじめのように言った。
「これで僕からの特別授業は終わりです」
「……先生っ」
ピロティーを闊歩していた女子生徒が足をとめる。桜子の方へ来た。
「ん、あれ? 春川桜子。何してんの?」
令華だった。
「先生……先生……っ」
顔を覆って涙する桜子に、令華が肩を抱いて慰めた。
「医務室へ行ったほうがいい。わたし、先生に言っとくから。それとも、一緒についていこーか?」
「……」
「な、なによ。なんでそんなに泣いてるのよっ。調子くるうから、げ、元気、出しなさいよ……」
「あり、がとう……温井、さん……っ」
「令華でいいって――んー、もう。参ったなー……そうだ、花、見に行こう」
――え。
桜子はたった今あの公園から帰ってきたというのに。
令華は、桜子の腕をひいて、ぐんぐん校庭を歩いてゆく。
歩いてゆく――桜子の来た方向へ。
「大丈夫よ。わたしたち、若いんだから。なにもかも背負って棒きれみたいに突っ立ってる必要ないのよ。もっと、息を抜きながら、その。仲良くやってこうよ」
ぶっきらぼうに言われた言葉は、桜子に届いたのか――
「……うんっ。令華……!」
数年後、また少し早い桜が咲いた。
「先生……」
メゾソプラノの澄んだ声に、秋田はふり返った。
「おお、卒業、おめでとう。春川クン」
「はい。先生にはお世話になりました」
「ははっ。まさか高等部でまでそう呼ばれるとは、思いませんでしたけどね」
秋田は桜子が中等部を卒業と同時に高等部の教諭になっていた。
「来年度、大学部へ進学しても、先生は先生ですわ」
「参ったな。先生は卒業できないから」
ピンクの花弁が、春のつむじ風に舞い上がる。桜子は、今日で脱ぐことになる制服の前と、ロングの髪を抑えた。
ふっと言葉をなくす一瞬、一足早い葉桜が、見上げた先で人招くようにさしのばした枝をゆらめかせた。
「よーたせんせい、お久しぶりです」
「あ、真布由先生、どうも」
「お、春川も。来年度は大学部かあ。大人だな、もう」
「いえ、そんな……」
そんなとき、弾けた温井令華の声がした。
どっと、真布由にタックルしたかと思うと、端末をかざす。
「庵――ツーショット、ツーショットぉっ」
「ちょ、おま! 学校で名前呼びはやめろと……」
「いーじゃん、晴れて卒業したんだもーん」
「温井、先生が我慢してるうちに、言うこと聞かないと、もう口きかないぞ」
「真布由先生はいいなあ。こんなにかわいいお嫁さん候補がいて」
「よーた先生も、そこは止めてくださいよ」
「候補じゃないもん。決定事項!」
温井令華は、卒業と同時に真布由のところに転がり込むことになるが、それはまた別の話。
「参ったなーもう」
「お覚悟! ですわよ、真布由先生。親友をよろしくお願いいたしますね」
ころころと笑う桜子。
春の陽気に、シャワーのように降り注ぐ言葉、ことば。
しかしもう、秋田と桜子にはそう特別でもない。もう何年間一緒だったと思っているのだ。
あの日と同じ、白い太陽が笑う――。
【了】
【葉桜の君に】筆致は物語を超えるか れなれな(水木レナ) @rena-rena
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