ただ人のために咲き、無為に散るのを待つ花に
その後、桜子はクラスでの立ち位置を変えた。人の輪の外側から、内側の隅っこへ。
作り物めいた透明な笑みを浮かべてクラスメイトと行動を共にする彼女の姿に、皆が胸を撫で下ろした。葉太だけが、その姿を哀しく見守っていた。
無為に咲き、儚く散る花のようだった。
ぽっかり
淡々と一年を終えて、葉太は桜子の担任ではなくなった。彼女と顔を合わせるのは生物の授業だけとなった。
桜子は教室の隅で、生命の神秘ではなく受験の真理に迫る授業をつまらなさそうに聞いていた。特別扱いこそしなかったが、桜子の姿は常に葉太の視界で怪しげな存在感を放っていた。
彼女が高校を卒業した後も、鮮烈な印象と重苦しい後悔は葉太の中に居座り続けた。
十年が経った。葉太は数多くの生徒を送り出した。それでも春川桜子はなおも一等禍々しい輝きを放って葉太の心に君臨した。
薄桃色の花弁には苦い記憶がこびりつき、桜前線の接近と共に葉太の心を沈み込ませた。
温かく過ごしやすい中に時折思い出したかのように寒さが舞い戻る季節、葉太はいつかの公園の、桜の回廊を歩いていた。若葉の萌える枝にしがみつく古びた花弁が、ふとした拍子に零れ落ちる。
花弁は空気にぶつかって回転し、濃淡をちらちら震わせる。落ちるかと思えば舞い上がり、踊り狂っては流れ、地面に触れる寸前でまた浮かび上がる。葉太が手を伸ばすと嫌がるように掌の上を滑り、あっけなく地面に落ちた。
花弁を見送った視線を上げて、葉太は息を呑んだ。
十年前に見た夢幻が再現されていた。移り気に舞い落ちる桜吹雪の中を、彼女は歩いていた。風に乗って広がった黒髪に花弁が吸いつく。ラフな上着とジーンズが、夢を
春川桜子は葉太を見ると驚いたような表情を浮かべ、戸惑いを含んだ笑みを作った。
「お久しぶりです。ええと、秋……秋山?先生?」
「秋田だよ。秋田葉太だ、春川桜子さん」
「……卒業して八年が経過している生徒を記憶しているなんて気持ち悪いですね」
そう言って桜子は踵を返した。彼女の向かう先に、葉太もついて行く。木材がほころびつつあるベンチの端に、桜子は腰を落ち着けた。葉太も逆の端に座った。
「今日はどうしてまたこんなところに?」
「少し遅めの花見です。研究室の。……准教授は葉桜がお好みなのだそうで。花は葉と共に咲いて然るべき、なのだとか」
桜子は柔らかく目を細めた。並木の枝葉がこすれる音が、閑静な公園に温かく広がる。
「研究室?」
「大学院でフロリゲンの研究をしています」
「生物学?」
「ええ、元々それなりに興味があったので」
ふと、桜子は視線を葉太に向ける。
「あれから十年にもなるんですね。懐かしい……。丁度これくらいの時期でしたね。私はこの場所で先生から頂いた熱いお言葉に感動して生き方を変えたのです」
葉太は疑問に満ちた視線を桜子に送る。本気とも冗談とも取れない微笑が見つめ返してくる。
「お前は怒って帰ってしまったじゃあないか」
「あら? そうでしたっけ? まあ、そう言うこともあるでしょうね。よく覚えていませんけれど」
桜子はふっと息を吐き出して、足を伸ばしてばたばた振った。
「よく覚えてもいない言葉に感動したのか?」
「ええ。どこの馬の骨ともしれない若い教師が口にした、細部を思い出すことも叶わない
桜子の指がささくれだったベンチをなぞる。ペンキのはげた木目から、じくじくと湿った木の組織が
「随分と心を乱されました。何度も何度も
桜子の笑みに、黒々としたものが滲んだ。
「うまくやれ、と言いたかったのですよね」
「は?」
葉太は思わず
「ソメイヨシノは確かに同一品種内の生殖能力を喪失していますが、その美しさでヒトを魅了し、日本全土に生育し、また全世界に分布を広げようとしています。ただ一代の生命がこれほどの繁栄を為したのです。他者に上手くとり入って利用すれば
「いや……。多分、違うと思う……」
あの時の葉太はただ桜子の中に見える高校時代の彼女の影を追いかけていただけだった。桜子に彼女の言葉をかけて、拭い去れない後悔を何かで上塗りしようと試みた。
ただそれだけだったというのに……。
「照れなくても良いのです。胸を張って、自分の業績を誇って下さい。先生がいなければ春川桜子という優秀な生徒が社会不適合者の道へと突き進み、結果として開花時のフロリゲン複合体においてkire-Iが果たす役割を解明するのが半年ほど遅れていたことでしょう」
「そうか……それは大変なことだな。それで、kire-Iはどんな役割を果たしていたんだ?」
「何の役割も果たしていないらしいことが先日、私の研究によって明らかになったばかりです」
桜子は冗談めかしてそう答えた。
「花に特異的に存在していたので、当然花の形成に関わっていると思ったのですが、これがどうも違うようで……。仮説が外れてしまったので、修士論文は酷いものでした」
深刻ぶった表情をしつつも、研究について語る桜子は楽しそうだった。
曲がって伝わった言葉がこの子を救ったというのなら、それは幸いなことなのだろう。他者を尊重しつつ自分の芯を守る方法を、この子は導き出したのだ。ただ人のために咲き、無為に散るのを待つ花にはならなかった。
そこにはもう、十年前に葉太が見出した仄暗い輝きはなかった。今や桜子は彼女とは似ても似つかない。
それを残念に思っている自分に気が付いて、葉太は苦い笑みを浮かべた。
「春川さん?」
突如割り入ってきた第三者の声に、葉太は振り返った。女性が一人、そこに立っている。桜子と似た雰囲気の女性だった。
「あ、先生。紹介しますね。こちら、研究室の准教授の――」
桜子が戸惑ったように言葉を切った。気が付けば葉太はベンチから立ち上がっていた。准教授は大きく目を見開いた。彼女の黒い目には、呆けたような表情の葉太が映っていた。
やがて彼女は驚きを引っ込めて、
「お久しぶりね、秋田君」
降り積もった花弁が、不意に訪れた風に吹き上がる。
踏まれて捻れた桜の花弁が、晩春の空を静かに舞った。
〜Fin 葉桜の君に Shy-lent Spring〜
葉桜の君に SS 文月(ふづき)詩織 @SentenceMakerNK
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