ありのままの姿で愛されることはできなかったのかしら。

 花の季節は終わる。いつしか回廊は緑が大勢を占めるようになり、だらりと首を垂らした瀕死の花が風の訪れを待っている。一歩足を踏み出すうちにも季節が進み、また一片ひとひら、花が散る。


 少女が一人、歩いてくる。月日の進行に合わせて明るさと温かさを増す木漏れ日が彼女の姿をまばらに照らす。


 葉太は足を止めた。


 温かな香りを帯びた風が桜を吹き散らす。花弁を失った歪んだ花芯かしんが足下に転がった。葉太がそれに気を取られた隙に、桜子はくるりと踵を返した。


「おい、春川」


 立ち去ろうとする彼女に声をかける。いつかと同じように彼女は渋々振り返る。


「これは秋田先生。性懲りもなく、何か御用ですか?」


 とってつけたような笑顔で彼女は問う。


「いや、その……少し、話をしないか?」


 彼女は黙って歩き出す。その足がベンチに向かっているのを見て取って、葉太は彼女の後に続いた。


「それで、今度はまたどのような罪状で教育委員会に告発して欲しいのですか?」


 そう言って、桜子はすとんとベンチの真ん中に腰を下ろした。


「今まで告発されたことは一度もないが」

「あら、それは意外です」


 それきりその場は沈黙に支配された。葉太は目を泳がせる。会話の糸口をつかみ損ねた。確かに用意してきたはずの言葉は桜子と向かい合った瞬間に怖気おじけてどこかに隠れてしまった。

 葉太に向けられていた黒い目が次第に興味を失くして揺れ幅を増す。しまいにすっかり葉太から外れ、一点に固定されてしまった。

 彼女の視線を追って振り返れば、若緑をなす桜の回廊は飽きもせず花弁を降らせていた。美しく儚いその景色の中に、もののあはれとは縁遠い少女の、意地の悪い言葉が怪しく響く。


——ソメイヨシノって、不思議な生物だと思わない?


「花っていうのは、植物の生殖器官なんだよな……」


 十年前に彼女からかけられた言葉をなぞるように葉太が口を開いた途端、桜子は剣を増した視線で葉太を射抜いた。


「セクハラですか?」

「いや、そうではなくて……学術的な話だ」


 葉太は咳払いして気まずさを誤魔化した。十年前に自分も同じ言葉に戸惑ったことを思い出す。


「花は葉に特定の遺伝子が働くことで形成される器官でね。花を咲かせるのにはかなりのコストが必要なのに、花は光合成をしない。……エネルギーを作らない。個体の維持という観点においては無駄な器官だ。にもかかわらず、顕花植物が植物界に占める割合は極めて高い。……動くことのできない植物が他者と交わるために生み出した器官なんだよ、花というのは」


——虫を寄せ鳥を呼び、花粉を乗せて子孫を結ぶ。そのための飾りが人の目に美しく映るというのは、いかにも不思議な話よね。


 あの日の彼女の姿を思い返しながら、一言一言を紡ぐ。


「なるほど、悪いムシやうざいトリまきを寄せるための——」

「違う」


 彼女の言葉をなぞる葉太に茶々を入れる桜子は、やはり彼女によく似ていた。十六歳の彼女に十八歳の彼女の言葉を送っている。奇妙な妄想が葉太の心を侵食する。


「個体の維持に必要なエネルギーは、主に葉で行われる光合成で作られる。さて、春川……光合成には、何が必要だ?」

「光と水と二酸化炭素です。義務教育で習いました」


 一言多い生意気な答えが、また彼女を思い起こさせる。


「そうだ。加えて、適切な温度だ。冬季は気温が低いから光合成の効率が落ちる。光の当たる面積の広い葉は低温のダメージも大きいから、冬には葉を落としてしまう。温かいうちに貯めたエネルギーを食い潰しながら、春までじっと耐えるんだ。……それなのに——」


 桜子が視線を花散る回廊へと戻す。


「ソメイヨシノが温かくなって真先に結ぶのは、葉ではなく花だ」


 桜の枝ががさがさと揺れて、花吹雪の勢いが増した。


「大した疑問もないでしょう」


 桜子は凛とした声で応じる。


「先ほど、先生がご自身でおっしゃったではありませんか。花は虫や鳥を引き寄せるためのものだと。一面の桜には、誰しも目を奪われるでしょう?」

「そうかもしれないな……。だが――」


――ソメイヨシノに生殖能力はないの。


 かつて彼女が口にしたのと同じ事実を、葉太は告げる。


「日本全国で人々を楽しませている桜の品種、ソメイヨシノは全て挿し木で増えたクローンだ。あれほどに力を絞って咲き誇るのに、あの花は次代を繋ぐことがない。人間が鑑賞用に捻じ曲げた、歪な生命……。人のために咲き、無為に散るんだ」


 自分は何を話しているのだろう。ふと葉太の頭を疑問が過る。

 ただ彼女の言葉をなぞっているだけではないか。桜子に語り掛けているようでいて、自分の思い出をなぞっているだけではないか。ちぎれた絆のほつれた端を握り締め、元に戻そうともがいている。


 桜子は彼女ではないというのに。


「人間はな、自分の心地良いように周りを変えてしまうんだ。理解できない存在というのは危険なものと紙一重だから、何とかしようとする。理解できればいいと思うが、残念ながら理解するよりも理解できる範囲に押し込んでしまうことの方が多いんだ。一人ぼっちのクラスメイトが空気を悪くしていたなら、空気を良くするためにその子を変えようとする。自己中心的な善意が、お前の平安を脅かすんだ。今だけじゃない。これからもずっとだ。迎合しろとは言わないが、それを跳ねのけて生きるのは難しい……」


――ありのままの姿で愛されることはできなかったのかしら。


「ありのままの姿で愛されることなんて、できないんだよ」


 それを口にした瞬間、舌の上に後悔が広がった。再び降りた沈黙が、二人の間に重く冷たくわだかまる。


「つまり……」


 ふっと、桜子は笑みを零した。


「あの花のようにあれ、と?」


 美しく狂った花を延々と降らせる悲しい木々を指さして、桜子は冷たく問うた。葉太は答えることができなかった。


「……先生もそうなのですね」


 ぽつりと呟いて、桜子はベンチから立ち上がると、足早に歩き去った。緑の回廊に消えてゆく彼女の背中を見送りながら、葉太は胸に広がる虚無感に向き合った。


 葉太は失敗した。教師として桜子と向き合うことができなかった。してはならないことをした。


 葉太が向き合ったのは、十年前の彼女であり……。


 十年来の後悔だった。


 ぽっかりと穴の開いた胸を爽快な風が吹き抜けて、不思議と軽い心地がした。

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