花が咲いていなくても桜だと解る?

 学校と家とで生徒の印象が異なることがある。当然だ。人間誰しも時と状況に合わせて自分を繕う。仮面を被る。

 学校という特殊な場所に合わせてこしらえた仮面は、さぞや特異なものだろう。制服に合わせてあるが故に私服には似合わないこともある。


 大人しくて真面目な春川桜子の仮面の下に、まさかこんな素顔が隠れていると、誰が思ったことだろう。


「お前は大人しい奴だと思っていたよ」


 桜の回廊の出口に設置されたベンチに一人分の距離を開けて、二人は並んで座っていた。


「そうですか。先生は人を見る目がないのですね。教師として致命的では?」

「だって、なあ。学校ではお前、すごく静かじゃないか」

「話したくない相手とは話さないので」


 葉太は横目に桜子をうかがった。彼女は澄まし顔で降り注ぐ桜の花弁を眺めていた。


「クラスには話したくない相手ばかりか」

「ええ。でも、勘違いしないでくださいね。クラスメイトが特別に嫌いなわけではないのですよ。全人類と分け隔てなく、平等に嫌っています」


 明るくにこやかに、桜子は酷いことを言う。


「……嫌いなのか。クラスメイトは、お前のこと心配してるぞ。食事、一緒に摂ろうって誘われただろう?」

「ああ、あれですか。うざいので断っているのですが、諦めずに毎日誘ってくれるのですよ。おかげでストレスがかかって仕方がありません。そろそろトイレで食べるようにした方が良いかと思案中です」


 頭も口もよく回る。葉太の青春の記憶を今なお苦く鮮やかに包む初恋の人に、桜子はやはりよく似ていた。


「悩みとか、無いのか?」


 やめておけと心の片隅で声がした。人の悩みに寄り添うのは難しい。自分を傷つけ、相手を傷つけ、解り合えないという事実に締め付けられる。

 だが、葉太は教師を選んだのだ。子供と向き合い受け止めるのが教師の仕事ではないか。


「悩み、ですか……」


 桜子は小首を傾げた。回廊を抜ける風を受けて、桜並木がざわざわと揺れた。桜の匂いが桜子の髪を絡め取り、葉太の鼻先をくすぐる。


「私、友達がいた試しがないんです」


 ぽつりと、桜子は呟いた。


「でも、それを悲観したことはありません。孤独は不幸なことだという考えが主流なのかもしれませんが、私にとっては最大の幸いです。友達はいれば便利でしょう。でも、休み時間のたびに集まって面白くもなければ中身もない話をして空笑いをしたり、自分の時間を削って一緒に過ごさなければいけなかったりするでしょう? 面倒なのですよ。ただ――」


 桜子はそっと目を伏せて、皮肉な笑みで口元を飾った。


「可哀そうな奴を見るような視線に晒されるのは、とっても辛いんですよ。例えば、毎日毎日一緒にご飯を食べようと誘われたり、悩みはないかと聞かれたり……」


 そら見たことか。糾弾の声が葉太の後頭部にじわりと広がった。


「私が幸せであることを、どうにも納得していただけないのです。主流とは異なる幸福観を持つ人間は、善良な人の心を憐れみで乱さないために自分の幸福を削らなければならないのでしょうね。やはり食事は皆の目の届かないところで摂るようにします。ご指導ありがとうございました」


 言い捨てて、春川桜子は立ち上がる。一瞬交わった視線が、葉太の眼球に忌憚きたんのない軽蔑を叩き込んだ。制止する時間も気力もなかった。


 桜の回廊の奥へ奥へ。どんどん小さくなっていく彼女の背中に、かける言葉は見つからなかった。



 *****



「桜は好き?」


 生物室の窓からは、校庭の桜が良く見えた。

 葉太が桜子と同じ学年だった頃の、丁度この時期。花弁の陰で日増しに緑を広げる桜を見下ろして、彼女は葉太に問いかけた。


「好きだとも」


 葉太は素直に答えた。


「じゃあ聞くけれど、秋田君」


 彼女は見るからに意地の悪い笑みを葉太に向けて、問いを続ける。


「花が咲いていなくても桜だと解る?」


 葉太は答えにきゅうして黙り込んだ。


「花を咲かせるのは一年の内の、せいぜい二週間。そのたった二週間が、桜のイメージを占めている。酷い話だとは思わない?」


 外に向けた目を鋭く細めて、彼女は静かに呟いた。


「春にだけ注目されて、その後は背景に溶け込んで。動かない自分を置き去りに変わっていく世界をじっと見つめている」


 真黒な双眼に戸惑った顔の葉太を映して、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「私は桜が大嫌い」




 あれ以来、葉太は彼女に夢中だった。

 彼女を見て、取り込んで、背伸びして。

 彼女のように見て、彼女のように感じる人間になりたかった。


 あの瞬間の彼女の輝きは逃れようもないまでに葉太を捕らえた。憧れと嫉妬と劣等感のフィルター越しに見る彼女の姿を追い、彼女が落とした欠片を拾って繋げて自分を作った。


 だからあの言葉が受け入れられなかった。


――ありのままで愛されることはできなかったのかしら。


 今にして思えば、葉太が追い続けた彼女はきっと本来の彼女ではなく、彼女もまた葉太の思い込みに応じて自身を作り上げていったのだろう。さながら二重の螺旋のごとく、葉太と彼女は相手の虚像を求めて空回りを続けた。そうして作り上げた巨大で分厚い仮面に隔てられて、二人の距離は埋まることがなかった。

 それに気が付いた彼女は仮面をとって歩み寄ろうとし、気付きそうになった葉太は逃げ出した。


 誰もが本当の自分を隠して生きている。無意識に他者の目を意識し、足りない部分を他者で埋め、継ぎ接ぎの自己を引きずって……。


 潔癖な子供がそれに気付いたのならば、酷く汚らわしく思うのかもしれない。あるべき姿から外れた、奇妙で歪んだものであるのは確かだから。けれど、きっとそれで正しいのだ。

 何者にも交わらず己を守り貫く生き方は清く美しいが、辛く苦しく、間違っている。


 生徒が間違っていたのなら、教師はそれを正さねばならない。

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