葉桜の君に SS

文月(ふづき)詩織

ソメイヨシノって不思議な生物だと思わない?

「ソメイヨシノって、不思議な生物だと思わない?」


 彼女の声が聞こえた気がして、葉太は足を止めた。冬が過ぎて薄い春の気配が漂う中、満開の桜の隙間にちらつく温かな陽光が、花弁を濃淡に染め分けて彩る。


 過去の幻影は静かに葉太を見つめて、ゆったりと微笑んだ。


「とても奇妙で、歪んでいる。あるべき姿から外れている。それなのに誰もがこの花を愛しているの」


――ありのままの姿で愛されることはできなかったのかしら。


 あの春の日以来、彼女の幻影は桜のつぼみの膨らみに比例して体積を増し、葉太の胸腔きょうくうを圧迫する。


 花弁と共に後悔ばかりが降り積もる。


 だから葉太は、この季節が嫌いだった。



*****



 葉太が新一年生の教室に足を踏み入れると、ざわめきが停止した。張り詰めた空気の中、己の足音に神経をひりつかせながら教壇に上る。

 一段上から見下ろす生徒たちは硬い布地の制服を一片の狂いもなく着用していて、顔は高校生活への期待と緊張に上気していた。


「まずは入学おめでとう。君たちの担任になった、秋田葉太だ。担当科目は生物。一年間、よろしく頼むよ」


 生徒たちと相対する葉太からは、彼らの顔面を移り行く感情が良く見えた。期待も不安も全て喜びの中にある。未来を信じて疑わない無垢な瞳の発する圧を一身に受けて、葉太は息苦しさを覚えた。


 番号順に自己紹介を指示すると、クラスの空気が膨らんだ気がした。多くの生徒が意気込みつつも他から外れぬ程度の自己紹介をしていく中で、彼女は少し違っていた。


「春川桜子です。よろしくお願いします」


 細く小さな声に、耳孔じこうの奥の蝸牛カタツムリが身震いする。麗かな日差しがしなやかに流れる黒髪に落ちて弾け、光の冠が映える。外から吹き込んだ春風が桜の香りを運んできた。


 短い挨拶を終えて座った春川桜子は、視線を儀礼的に担任教師へ向ける。

 黒々とした目に浮かぶのは静かな諦念と無関心。期待もなければ不安もなく、淡々と時が過ぎ行くのを見つめている。

 その佇まいに、ほんのりと甘く、あまりにも苦い記憶が想起された。


 高校生活最後の春だった。

 葉太はクラスの中心に立つことのできるタイプではなく、青春と愚かさの安易な相関を善しとせず、さりとて身の内で咆哮する正体不明な衝動を無き物として扱うにはあまりにも若かった。


 自信過剰にして自意識過剰。


 彼女もそれは同じだったのだろう。


 誰よりも若さに振り回されながら、それと向き合うことのできなかった青春の浪費者二人組は、共に所属した生物部の部室で日々言葉を交わし合った。

 言葉の数だけ心が通うと、本気で信じていた。受け取る相手のことなど視界になく、ひたすら空虚な言葉を投げ合った。


 それが葉太の青春だった。


 受け取ったものを素早く美しく投げ返すことばかりを考えていた。だからだろう。投げかけられた言葉のほとんどを、葉太は覚えていない。

 それでいてあの春の日に彼女が紡いだ言葉だけは、記憶に強く根を張っていた。


――ソメイヨシノって、不思議な生物だと思わない?


 そんな問いかけから始まった、呪わしいやり取りだった。おごりりの春、葉太の不用意な言葉は、彼女をひどく傷つけた。


 後悔に染め上げられた高校時代。その象徴たる彼女に、春川桜子はよく似ていた。



*****



 春川桜子を評するならば、どんな言葉が相応しいだろう。


 春川桜子は大人しい生徒だ。

 彼女はいつも受動的で、自分から何かをすることはなく、他者に何事かを要請する様子もない。


 春川桜子は真面目な生徒だ。

 多くの生徒が慣れと共に制服を着崩し始めても、彼女は校則通りの着こなしをしていた。少したりとも校則を外れることのない姿勢は、教師たちから高く評価されていた。


 大人しくて、真面目。

 いずれも彼女の印象として正しいが、そのくせ全くの的外れにも思われた。己の外側から世界を俯瞰ふかんしているような落ち着きと悟り切ったような無関心が、彼女の存在を大人しく真面目なだけに留めない。


 休み時間の訪れと共に何かに急き立てられるようにおしゃべりを始める学友たちの声を背景に、彼女は一人、静寂の殻にこもって本を読んでいた。


 昼休みには一人で食事をするようだ。好き勝手に机を並び替える生徒たちを顧みず、彼女は弁当を食べ始める。共に弁当を食べようと誘ったクラスメイトもいたが、彼女は丁寧に拒絶したらしい。


 人の輪に加わろうとしない春川桜子は、平和を謳歌する葉太のクラスで目下のところ最大の問題児だった。些細な問題児は葉太の思考の大部分を占め、深刻に心身をかき乱した。


 ソメイヨシノの淡い色合いの中に萌黄もえぎ色が映える頃、葉太はふらりと放課後の学校を後にして、校庭に隣り合う公園へと足を向けた。


 桜の名所としてそれなりに名の知れた公園である。砂利道を挟む桜の並木は春には花の回廊を形成し、多くの人で賑わう。


 花の盛りが過ぎてしまえば、えてこの道を歩く人もいないのだけれど。


 鼻孔を掠めるそよ風はうっすらと甘い桜の香りを乗せている。靴の裏で音を立てる砂利道には落ちた花弁が踏みしだかれてこびりついていた。

 凸凹した木肌の、日の当たらない面にコケと小さなシダが根を張って、命の複合体を成している。

 細く伸びる枝の上、頭部で奇妙な律動を刻んでいたヒヨドリが、葉太を見下ろして小首を傾けた。


 長かった冬が行ったと思えば、春は足早に通り過ぎようとしている。花の回廊には葉太一人。桜に切り取られた世界に満ちる静寂が、甘く優しく葉太を包む。


 進行方向から歩いて来る人影に気がついた瞬間、夢幻の世界は遠のいた。桜の回廊に現れたのが見知った人物だと気が付いて、葉太は足を止める。


 花弁を孕んだ風を巻き取る桜色のワンピースは、また別の夢のようだった。彼女は葉太に気付くと少し驚いたような表情を浮かべ、踵を返して背を向ける。


「おい、春川」


 そそくさと立ち去ろうとする彼女の後ろ髪に葉太は声をかけた。彼女は渋々という風情で振り返る。


「これは秋田先生。少しも気付きませんでした」


 高く細い声は凛とした棘を含んでいた。


「目が合ったじゃないか」

「気のせいではありませんか?」


 桜子は口端を吊り上げて目を細める。透けるような笑顔の奥に、鮮やかな拒絶の色がうねった。


「春川、少し話をしないか?」


 笑顔がくるりとひっくり返って、冷たい無表情が葉太を睥睨へいげいする。桜はバラ科の植物だ。何の脈絡もなく、葉太はそんなことを思った。


「教育委員会に通報しますよ」


 桜色の唇の奥から、極寒の声が流れ出た。


 ヒヨドリに食いちぎられた花が、ぽとりと足元に落ちて来た。

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