新たな伝説

 ふわりと、シエロはソゥラを感じた。瞼を閉じていても、銀の髪が揺れ、真紅の瞳に見つめられたのが分かった。優しく微笑む姿が、見えた。

 竜が弾けた。

 光の粒子があふれ出し、辺りへ散った。座り込んだ魔導師に。逃げ遅れた騎士に。崩壊したテラスに。城の反対側へ避難する人々に。雪のように降り注ぐ。

 やがて、光は地に染み、水に流れ、音に乗り、空に満ちた。

 辺りはキラキラと煌いた。陽光が戻っていた。

 澄んだ光の中に、乾いた湖底が広がる。竜骨山脈の東の端の山が、青い空を背景に、くっきりとその稜線を描いていた。

 シエロの手の中で、笛が崩れた。ファドに折られた後の形に戻る。木屑が指の間から零れた。

 跡形もなく、消えた。竜も、ソゥラも。

 息を吐ききった肺に、空気が吸い込まれる。

「ソゥラぁっ!」

 ありったけの声で、叫んだ。

 声は、山肌に反響した。しかし、応える優しい声は、もう二度と聞こえない。

 消えて欲しくなかった人を、消してしまった。この手で。

 シエロは体を折った。上腕を掴む。咳と一緒に、涙がボロボロと溢れ出した。

「シエロ様」

 ファラがそっとシエロの肩へ手を載せた。

「シエロ」

 レミが背中を摩る。シドがテラスへ駆け上がる。サンドラが身を乗り出す。ノクターンは彼女を支える。裏から戻ってきたトリルがノクターンに手を貸す。

 楽団のみんなが、魔導師が、戻ってきた。たちまち、たくさんの人がテラスを囲んだ。

 押し寄せる人々に恐れをなし、ディショナール王とファドは這って回廊へ逃れた。呆然と、テラスを見やる。

 ファドを満たしていたのは、圧倒的な敗北感だった。

 竜を恐れず、向き合い、受け入れる。そして何より、あらゆるものを労り、周囲に愛される。己や弟は、竜の民に認められる資質の欠片すら持ち合わせていなかった。それなのに、竜の民を、竜神を恨んだ。若気の至りとはいえ、羞恥の炎で燃え尽きそうだった。

「竜に認められるとは、そういうことか」

 剣術を磨き、力によって全てを手に入れてきたと思い込んでいた。今、分厚い掌にあるのは、砂埃ばかりだ。

 ファドの隣で、太いため息が聞こえた。王が呟く。

「よくも、やってくれたものだ。この私を、差し置いて」

 ずり落ちた額飾りを外し、乱れた髪を掻きむしる。だが、彼の言葉に、憎しみも怒りも含まれていなかった。

「なに、我々は、彼らとは別の使命を与えられているだけですよ」

 ゆったりとした口調は、カノンだった。兄の髪を手櫛で整え、額飾りを着け直した。

「彼らが竜に対して力を発揮しようと、多くの者から慕われようと。国をまとめ、民を守る力は我らにある。確かに、今までのやり方は間違っていたところが多い。でも、今からできることもあるはずです。まずは、オーケスティンと休戦講和をすべきではありませんか?」

 カノンが示す崖の下に、捕虜がいた。他の捕虜が自供したところによると、中隊長だ。彼の方も、王を見上げた。

「ビューゼントの周辺国への侵略及び我が国への謀略は許しがたい。が」

 小隊長は、視線を移した。群衆に囲まれたシエロを見上げた。

「彼らに免じて、此度は矛先を収めるよう、我が王に進言しよう。港の使用については、もう少し話し合いの余地もあると見た」

 無精髭に囲まれた、こけた頬を緩ませる。

「良い楽を、聞かせてもらった」

 脆くなったテラスへ上ろうとする人々を、騎士が制する。

 取り巻く歓声も耳に入れず、シエロは自分の体を抱えて泣き続けた。

 トリルとノクターンの手を借りて、サンドラがシエロの前に立った。傷ついた両手で、シエロの顔を包む。

「これでいいのよ、シエロ。あなたは、竜神様を救ったのだから」

「だけど」

 涙にむせ、咳き込む。次から次へと、涙が溢れ出す。

 肩を叩いたのは、ノクターンだった。

「ありがとう。シエロ。それに、ソゥラ様は、消えたわけじゃない。見えなくても、いつも、シエロと共におられる」

 ノクターンは、天を仰いだ。腕を、柔らかく挙げる。

「この、シエロのように」

 涙でぐしょぐしょになった顔で、シエロは空を見上げた。

 どこまでも青く、澄んだ空が広がる。どんなに雲に覆われていても、雨風が吹き荒れても、空は、そこにある。

 シエロの胸のうちが、仄かに温かくなった。珠の光のように沁みこんでいく。ソゥラの心を確かめるように、シエロは胸を押さえた。

 そこに、珠はもうない。しかし、ソゥラは、シエロの中にいる。いつだって、ひとりじゃない。

 絆は、まだ、ここにある。

 シエロは、両方の袖で涙を拭った。喉から漏れでる嗚咽を飲み込んだ。 

 自分を取り囲む人々の顔を、順に見ていく。

 色を取り戻したファラが、耳の先を欠いたレミが、シドがいる。

 ノクターンが頷く。サンドラの強気な目が潤んでいる。すっかりやつれた技芸団の団長が微笑んでいる。カーポも、魔導師たちも、温かくシエロを見つめていた。

 全員の中に、ソゥラの光を感じる。

「みんな」

 声が震えた。別の、温かい涙が溢れた。頬を流れる涙をそのままに、シエロは微笑んだ。

 夏の空にも負けない、明るい笑顔で、みなの気持ちに応えた。

「ありがとう」


 ビューゼント歴八百二十三年、夏。

 王都に怨竜現る。怒りに満ち、毒の涙を流す。

 竜と絆を結びし楽師、想い奏でる。

 竜、幸竜と化し、毒を清める。

 ビューゼント王国、オーケスティン王国と結び、沿岸諸国を潤す。

 後、長きにわたり、栄える。


「で、シエロ。こっからどうすんの」

「う、ん。何も決めてないけどね。その、希望を言えば、また、みんなと旅をしたい、とか、うん。だけど、みんなそれぞれ大変だよね。ごめん、聞き流して」

「旅、ですか。あれだけ過酷な旅が終わった直後なのに」

「今度はね、ゆっくり、楽しくあちこち行きたいんだ。レミやシドに、美味しいものをあまり食べさせてあげられなかったし」

「なら、当然バロックンにも寄ろうね。愛しのキャロルに、ちゃんと挨拶しなきゃ」

「レ、レミ。それは」

「あらあ、シエロ。キャロルってどなた? お母さんも会いたいわぁ」

「違うからっ。彼女は、だから、そういう関係じゃないからっ。それに、レミだって、クリステの方が忙しいでしょ」

「レミ。クリステ城主として、正式に各地の視察を依頼する。どうせ、今回はまともに見て回れなかっただろう」

「トリル兄。いいのか?」

「ああ。行ってこい。サンドラ殿、シエロ殿の旅に、我が妹を同行させていただいてよろしいだろうか」

「構わないわよ。頼りになるわ。シド君は、どうかしら。ね、カーポさん」

「こちらも、構わぬ。さらに修行を積んで来い」

「師匠。ありがとうございます」

「ただ、杖の扱いはもっと丁寧にせんかい」

「ぐは。返す言葉がない……」

「で、でも、カーポ様、お陰で、僕はいっぱい助けてもらいました。あの、もし大丈夫なら、こんどは鉄の杖とか」

「シエロ、それはさすがに俺でも重い」

「獣人の私でも、鉄の杖はないわー。ファラは? 冠羽が戻っちゃったから、世界の見聞に忙しい?」

「必要があれば離脱するかもしれませんが。お伴いたします」

「シエロ。もし良かったら、この竪琴も旅の伴にしてくれないかな。ソゥラ様が、昔使っておられたものだけど」

「いいの? ノクターン……ありがとう」

 そっと、シエロは弦を弾いた。懐かしい音に、目を閉じた。

 想いを乗せ、空に奏でる。



 全ての民の未来に、光のあらんことを





 ソラに奏でる君のオト・完

 ※「シエロ」は、エスペラント語で「空」を表す

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ソラに奏でる君のオト かみたか さち @kamitakasachi

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