空に奏でる

 大地が揺らぐ。テラスはさらに崩壊した。傾き、亀裂近くに伏せていたファドの体が滑る。レミは、彼の腕を取った。テラスの下には、まだ兵士や人質が残っていた。

「兄上!」

 レミは、叫んだ。すぐさま、トリルが応え、亀裂を見上げた。

「ここは危険だ。できるだけ皆を、遠ざけて」

「分かった。お前たちも、早く」

 だが、レミは首を振った。灰褐色の髪が吹きつける熱風に乱れる。

「私は、約束した。シエロと共に、最後まで見届けると」

 微笑む妹を、トリルはしばらく見つめていた。が、力強く頷く。

 人質の中から声が上がった。

「私も、残らせてもらうわ」

 サンドラだった。トリルがなだめるが、彼女は強い笑みを浮かべた。

「息子のここ一番よ。見ていたいじゃない」

 拷問で痛めつけられた足を引きずりながら、亀裂に近付く。ノクターンが、彼女の体を支えた。

「じゃあ、こっちは我々に任せろ。全員、退避」

 トリルの声が響く。兵士が動き始めた。

 テラスの下で蹲る騎士へ肩を貸し、トリルはレミを振り返った。

「クリステは、まだレミを必要としている。戻って、来いよ」

「分かってるよ」

 手を振り、レミは犬歯を見せて笑った。トリルの姿が回廊を支える足の角を曲がる。レミの隣で、ファラが目を伏せた。

「自分たち、と言えないのが、残念なお兄様ですね」

「あれが、トリル兄の精いっぱいなんだよ」

 屈託なく返し、レミは剣を鞘へ戻した。

 王の側に座り込んでいた騎士が、頭を下げる。

「ディショナール様とファド様も、お急ぎください」

「いや、残るべきだ」

 太い声が王の側のテラスを上ってきた。王より、やや若いが、似た顔をしている。王弟カノンだ。

「我々は、見届けなければならない。己が導いたことの結果を」

「正論です」

 ファラも、頷く。優雅に腕を組み、テラスの高みから、虹色を秘めた黒目がちな半眼で見下ろす。見た目は淡々と、表情の乏しい少女のようでありながら、溢れ出す気迫は、今までにない凄まじさだった。

 王とファドの顔から、血の気が引いた。

 空気が震えた。身を捩る竜が、グワ、と口を開く。地の底から湧き起こる咆哮に、手摺りの端が欠けた。破片が、ノクターンの肩に当たる。

「ノクターン」 

「大丈夫。だけどシエロ。一刻も早く封じてさしあげて。ソゥラ様は、自分が怨竜になることを、心の底から嘆いておられた。世界の民を未来永劫苦しめることを、悲しんでおられた」

 魔導師の結界の中で竜は激しく動いた。足で地面を抉り、尾を振り回して山肌を削る。その間も絶え間なく黒い涙を流す。涙は霧となり、界から漏れで上空へ黒い雲を作った。

「竜を封じたら、ソゥラは」

 尋ねるシエロに、ノクターンは一拍おいて、首を横に振った。

 竜を封じると、ソゥラもまた、消滅する。

「そんなの」

 したくない。

 今度、竪琴を聞いてもらうと約束した。たくさん助けてもらったお礼も充分言えてない。まだまだ、聞きたいことがある。聞いてもらいたい話がある。

 けれど、次第に竜は闇を濃くする。暴れているようだが、苦痛に身を捩っているようにも思える。その姿が、シエロの胸を締め付けた。

 ふと、ファラの言葉が蘇った。

『ムジカーノの娘、竜の苦しみに心痛め、楽にて竜を消すなり』

 だから。

 シエロは、胸を押さえた。

 だから、『絆』は、僕なのか。

 ムジカーノの民で、竜を思い、慕い、心の底から救いたいと願える者。

 懐を探る。喘息の薬と一緒に入れていた珠を手に載せる。透き通った珠は、内側から、仄かな光を放っている。

 封じたくない。だけど、ソゥラを救いたい。

 シエロは、珠を握った拳を、反対の手で握った。食いしばった口元へ押し当てる。目を閉じた。

 涙を堪え、強く願う。

 ソゥラ。どうか、僕に、奏でさせて。ソゥラのための音を、……。

 固く握った手の隙間から、光の粒子が零れ出た。

 竜が発する風に流されることなく、フワフワと漂い、シエロを包む。門の間を満たしていた光と同じで、それはきめ細かい泡が弾けるようにシエロへ沁みていった。

 耳の奥、それよりずっと奥のどこかから、音が聞こえる。声にならない誰かの言葉が、シエロの心の耳に囁いた。

 握る手の間に、固い感触が生まれた。

 目を開き、手の中の物を見つめた。

 ファドに折られたはずの、母の笛だった。すべすべとした表面も艶も、そのままに戻っている。

 口を当てる。順に穴を塞ぎ、音を確かめる。折られる前と同じ音が出た。

 シエロは、大きく息を吸った。苦しくない。

 竜を見上げた。

 毒の涙でくすんでいるが、真紅の目は、ソゥラのものだった。悲しげに、救いを求めている。

 笛を構える。最初の音に、指を置く。祈った。

 届け。ソゥラに、竜に、この想いよ届け。

 息を吸った。吹き口へ、唇を寄せる。

 柔らかく、穏やかに音は響いた。

 竜が唸る。ぐるりと首を回し、シエロを睨んだ。

 低めの音が続く。深い音色が広がった。

 いつもなら呼吸が苦しくなるが、珠の力なのか、息継ぎに煩わされることもない。

 シエロはただ、心の導くままに奏でた。澄んだ笛の音が、竜を包むように響いた。高まる。

 魔導師たちがざわめき始めた。

 界の中の霞が減少した。背後の山々が透けて見えるまでになった。

 竜の輪郭も明確になる。開いた口から唸りが続く。赤黒い目で、シエロを見据える。耳が、時折ビクリと動く。

 竜は翼を畳んだ。動きを止める。老木のように、立ちすくむ。

 旋律が変わった。

 ノクターンとサンドラが、同時に表情を変えた。

「シエロ?」

「あなた、何を」

 伝えられた旋律ではない。ふたりは、不安を浮かべた顔を見合わせた。

 だが、シエロは吹き続けた。指を動かす。

 声にならない言葉は、言った。

 ただ、あなたの思うままに奏でなさい、と。

 竜が軋んだ。ボロボロと、瘡蓋のような黒い塊を落としながら、体を捻る。口を開き、首を曲げる。おもむろに、シエロへと突き進んだ。レミが剣へ手をかけ、構えた。ファラが制する。

 結界を紡ぐ魔法陣に、竜は鼻先を突っ込んだ。

「界を解け!」

 カーポが叫んだ。解けば毒が広がる。躊躇する魔導師の詠唱が止まらない。

 シドが立ち上がった。杖を持っているつもりで手を掲げる。即座に逆詠唱を唱え始めた。強制的に結界がほどけていく。同時に、魔導師長が新たな結界を紡いだ。人々を毒から守る結界だ。

 身をくねらせ、竜は身を乗り出した。大きく口を開く。竜の顔が目前に迫った。王とファドが、短く悲鳴をあげる。ノクターンが、サンドラを庇って身を伏せた。

 だが、シエロは動じなかった。黒く濁った真紅の双眸を、まっすぐに見つめた。竜に聞かせるために奏で続けた。 

 ソゥラ、戻ってきて。どうか、消えないで。

 僕は。

 感情の高ぶりに、音がわずかに乱れた。

 竜の熱い吐息が頬を撫でる。蒸気が上がるような唸りに包まれる。だが、シエロは怖いと思わなかった。姿が変わり、理性が薄れていようと、竜の中にソゥラを感じ取っていた。

 怒りの涙で曇った竜の目の奥に、小さな光が点った。

 シエロは、目を閉じた。

 竜の目に点った澄んだ光は、徐々に広がる。全身を軋ませ、竜は首を仰け反らせた。鼻を天へ向け、クォン……と悲しげに吠える。

「見ろ、竜が」

 誰かが声をあげた。見開いた竜の目から、透き通った丸いものが零れ落ちる。

「幸竜の、涙」

 ノクターンが、呟いた。

 竜から離れた涙は、空中で光を放った。砕け、無数の光の粒子となって漂う。次から次へと零れ、光は、辺りへ降り積もった。

 竜の目の端から、亀裂が走った。乾いた音を立て、全身へ広がる。隙間から光が漏れた。

 笛の音は、いよいよ高まる。終わりの旋律を奏でる。

 息を継いだ。

 ソゥラ、僕は。

 もっと、ずっと、あなたと共に生きたい。

 最後の音が、高く、長く、空へ響く。

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