操竜の力

 湖水は完全に蒸発してしまった。乾いた湖底は、竜の足踏みで亀裂を刻む。石造りの桟橋は、影も形もなく崩れ落ちていた。人質となった人々は、トリルの指揮の下、騎士や兵士に支えられながら、湖から離れたところに避難していた。

 鼻を天へむけ、竜が吠える。その目から盛り上がったものが、黒い霧となって辺りへ散った。

「怨竜の、毒が」

 シエロは、震える声で呟いた。背後に回ったレミが、縄を切ってくれる。自由になった手は、ダラリと力なく床へ落ちた。

 怨竜の目からは次々に毒の涙が盛り上がり、辺りを汚染していく。

 シドは、動かない王とファドに舌打ちした。踵を返し、魔導師たちの所へ走った。

 魔導師たちは、再びカーポに力を集めていた。竜を囲む防護障壁を張る。竜を中心に、半球状に黒い靄が留まっているのは、彼らの成果だった。

 シドは、詠唱に加わった。

 テラスの下では、みなが、それぞれできる限りのことをしている。

 震える足で、シエロは手摺りに縋りながら立ち上がった。ファラを振り返る。

「始祖王の時、操竜の乙女は、どうやって怨竜を操ったの?」

 今なら、分かるだろう。代々の鳥人が伝えた記録が、ファラの中にある。

 じっと、黒い瞳がシエロを見つめた。静かな吐息と共に、目が伏せられる。

「ビューゼント歴前。竜、現る。その吐息に、ハモニア、オーケスティン両軍勢、たちまち倒れ伏す。ムジカーノの娘、竜の苦しみに心痛め、楽にて竜を消すなり」

「消す?」

 驚いたのは、シエロだけではなかった。レミも、また、ファドも目を見張る。

 頷き、ファラは額へ手の甲を添えた。

「操竜の力とは、竜を封じる力。それが、八百二十三年前、ビューゼント王国始まりの事実です」

「竜神から力を与えられし民たちは、自分たちが従ってきた竜神を封じたムジカーノを糾弾し、排斥しようとした」

 ファラの後を引き継いだのは、ノクターンだった。崩壊寸前のテラスの下で、彼はシエロを見上げていた。穏やかに続ける。

「だが、怨竜にもなる己の身を畏れた竜の民は、万が一のとき己を止めることのできるムジカーノの血を守ろうと、共に隠れ里で暮らすようになった。竜の民の誰が竜神と一体になるのか。ムジカーノの者の誰が、竜を封じることができるのか。それは、空に悲しみが満ち、竜神と一体になるべきと神託を受けた竜の者にしか分からない」

 彼は、湖へ視線を移した。その眼差しは、悲しそうだった。

「ソゥラ様は、三年前、神託を受けられた。だが、郷に、己を封じる『絆』を持つ者を見出せなかった」

「じゃあ、あの竜を封じられる操竜の乙女は、いないってこと?」

 レミの問いには、悲痛なものが含まれていた。

 魔導師たちの詠唱が続く。彼らも、疲弊していた。竜が身じろぎをする。それだけで、竜を包む界が揺らいだ。

「どうなんだ。私は力の限りを尽くして、ムジカーノの女を集めた。操竜の乙女は、おらんのか」

 王が、ずれた額飾りを掴んで呻いた。傷ついた騎士たちが、竜の発する毒を吸って、次々に倒れていく。

 魔導師が力尽きれば、内に溜まった毒は世界全域に飛び散るだろう。封じることができなければ、この世界は滅びる。王の顔は、蒼白になっていた。

「乙女は、いません」

 ノクターンは、静かに答えた。その顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。

「何故なら、ソゥラ様の『絆』は、シエロだから」

 穏やかな、温かな顔のまま、ノクターンはシエロを振り仰いだ。

 ぐらりと、シエロの視界が回った。手摺りに縋り、震える指で自分の鼻先を示す。

「僕?」

「そう。始祖王の時が、たまたま若い女性だっただけの話。シエロが我らの結界を物ともせず隠れ里に流れてきた時点で、特別なものを感じた。未だ、外の世界でムジカーノの名を継ぐ者がいることにも驚いた。けれど何より、シエロの笛を聞いて、ソゥラ様は気付かれた。だから、珠を、『幸竜の涙』を、シエロに託したんだ」

「じゃあ」

 シエロは、懐を握った。

「この珠で、ソゥラを、止めればいいの?」

 しかし、ノクターンは首を振った。毒の涙を流し続ける竜を見上げる。

「その珠は、竜神には効かない」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

 噛み付くようなレミを、ファラがなだめた。クリステの警備兵たちも、何名かが毒にやられて倒れていた。

 思い当たるものに、シエロは口へ指先を当てた。

 カヌトゥは地の声を聞く。ウォルトは水を読む。ステラシアは空の張りを知る。ムジカーノに出来ることは、奏でることだ。

「曲?」

 ノクターンが頷く。

「八百二十三年前の楽を、ムジカーノ家は子孫に伝えてきた。だから、シエロも知っていたんだよね? あの旋律を」

 隠れ里で、幼い双子に請われて奏でた旋律のことだと、すぐに分かった。

「母が、よく、歌ってたから」

 時に子守唄として、鼻歌として。サンドラは、あの曲を口ずさんでいた。それが、竜を封じる力と知ってのことなのか。ただ、祖母から聞いた馴染みの曲を無意識に伝えていたのか。

 強風が吹き荒れ、竜の吐く息が轟音となって響き渡る。この中であの旋律を届けるには、笛が適している。だがシエロは、今まで、あの曲を終わりまで吹き切れたことがない。どうしても途中で息が苦しくなり、咳で中断される。気管の調子が良い時でも、そうなのだ。

 牢に繋がれた間、ずっと発作に苦しんでいた。最初の息継ぎで咳がこみ上げるのは必至だった。

 それに。

 母の笛も、木屑と化した。

 笛は、材料となる茎の太さの違いから、同じ音を出すのにも個々で指遣いが異なる。もし仮に、誰かがかわりの笛を貸してくれても、慣れない笛で複雑な旋律の曲を吹き切るのは難しい。

 無理だ。シエロは竜から顔を背けた。

 諸々の感情、条件で、自分にソゥラを消し去ることはできない。

 竜が吠えた。界の表面から、細く黒い粒子が漏れ出た。

 最前列で魔道具に魔導師たちの力を集めていたカーポが呻いた。胸を押さえる。

「師匠、俺が代わります」

 駆け寄ろうとするシドの肩を、マギクの魔導師長が引き止めた。キッと睨み上げるシドへ、彼は厳かに口を開いた。

「お前がなすべきことではない」

「俺の力が不足してるって言いたいのか」

「何度か見せてもらったが、ね。だからこそ、お前は下がっていろ。この術の返しは、相当だ。私が、代わる」

 さらに身を乗り出すシドへ、魔導師長は口の端を引き上げた。フードの下から垣間見える顔は、中年の終わりを告げていた。シドを見下ろし、微笑んだ。

「将来マギクを背負っていけそうな有望な若者を、ここで失うわけにはいかんのだよ」

 グッと、シドは言葉を詰まらせた。

 シドは、声を合わせ詠唱を続ける魔導師たちを振り返った。皆、人生の盛りを過ぎた者ばかりだ。熟練の技を持っているものを選りすぐったと思っていたが、そうではない。

 魔導師長は、フードを被りなおした。杖を握る。

「カーポ様を、後ろへ。もし、気持ちが収まらないなら、返しの時、先程の盾を私の後ろに張れ」

「んな、あんたは」

「自分の身くらい、自分でどうにかするさ」

 振り返る魔導師長の笑みに、彼の覚悟を悟った。シドは、深く頷いた。

「分かった」

 その時は、と歯を食いしばる。

 絶対俺は、あんたの前に盾を張ってやる。

 抱え上げた師匠は、全身に汗を浮かべ、荒い息をしていた。薄く開いた目に、穏やかな色が浮かんだ。

 竜の太い尾が、地面を打った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る