取り戻す


 桟橋から悲鳴が上がった。心臓が止まる思いで、シエロは這って進んだ。後ろで縄を持っていた騎士も、油断したのだろう。シエロは、手摺りに顔を押し付けた。

 石の桟橋は、血で染まっていた。

 だが、それは騎士の血だった。レミとシドに剣を振り上げていた騎士の胴体から、首が落ちた。赤い筋を引きながら転がる。鎧を纏った胴体が、湖へ落ちた。

「お、おい」

 縛られたまま、シドが、自分たちを押さえていた騎士に声をかけた。こちらも、ぐらりと体を傾けると、桟橋へ倒れる。

「どうなってんの」

 レミが獣の耳を後ろへ倒した。項の毛を逆立てる。

 湖面が乱れ、伴って魔方陣が揺れた。

 シドが、ハッとして立ち上がった。

「師匠!」

 叫ぶと同時に、何かが軋む音が鼓膜を突いた。空気全体が捩れているような音だ。耳を塞ぎたくとも、手は縛られている。

 ド、と鈍い音が響いた。稲妻が走る、バリバリという音が続く。

「カーポさんっ」

 シエロも、目をつぶったまま叫んだ。

 竜を召還するため注がれた魔導力が、破られた。複数の魔導師の力を集約していたカーポの元へ、跳ね返ってくる。

 それを、カーポの直前に張られた魔方陣が盾となって防いだ。カーポが、伏せていた顔を上げた。桟橋を見やる。皺に囲まれた目が細められた。

「あやつ、いつの間に、このような術を」

 カーポの手が上がる。魔方陣の盾へ手を添える。

「シド、もうよいぞ」

 老体から想像もつかない力強い声が響いた。

 シドが、喘ぎながら膝を突く。カーポの背後で蹲っていたマギクの魔導師長が、そろりと顔を上げた。

「杖もないのに」

「それが、あやつの術じゃ。それより」

 カーポは、厳しい表情で湖面を示した。

「我らの力が、果たしてどこまで通用するものか」

 辺りは、蒸し暑かった。湖水が蒸発している。たちこめる蒸気の中で、輪郭を持たない竜が蠢く。その度に残された湖水は波立ち、渦巻く風に熱い飛沫を巻き上げた。

「操竜の乙女を出すのだ」

 王が叫んだ。

 その声が、遠い。訝しく振り返ったシエロは、真っ二つになったテラスを見た。厚い刃物を打ち込まれたように、下の崖ごと斬られていた。ディショナール王は、辛うじて残った床に縋りつくように座り込んでいた。兵士が助けようとするが、足場がもろく、上ることができない。

 王の命令に、生贄を囲んでいた騎士が右往左往する。使い物にならない騎士たちに業を煮やしたのか、王は歯噛みをした。

「お生憎様」

 高らかに叫んだのは、シエロの母サンドラだった。彼女は、怯える女たちを背に庇う形で、座ったまま顔を王へ向けていた。

「私達の中に、操竜の乙女なんていない。そのような力を持っている者なんて、ここにはいないわ」

 怒りの形相で、王は腕を振り上げた。

「そいつらを全員、殺せ。生贄の血を、竜へ捧げるのだ」

 慌てふためき、騎士がてんでバラバラに剣を掲げた。女達の悲鳴があがる。

『愚かな』

 地響きのように、竜が呟いた。熱風が壊れたテラスへ吹きつける。ぐらついていた手摺りの端が崩れ落ちた。

『人間如きに、われを、操れると、思うてか!』

 鋭い鍵爪のある前足が振り下ろされた。地面へめり込む。土石がとんだ。地面が揺れた。

 それでも、王は果敢に叫んだ。

「構うな。殺せ。さもなければ、おまえたちも殺すぞ!」

 崖下から兵士の一団が飛び出した。

「させるか!」

 遮ったのは、レミだった。彼女の後ろに、縄が落ちる。続いて、シドが肩を回した。

「ストレス溜まってんだよ。ガンガン発散させてもらおうじゃないか」

 彼らの背後から、ノクターンが離れた。手にナイフを握っている。彼は、サンドラの元へ駆け寄ると彼女を縛る縄を切った。オーケスティンの捕虜を含め、次々に人質を解放していく。

 桟橋を囲む兵士の顔ぶれに、レミは表情を強張らせた。先陣をきっていたのは、トリルの率いるクリステの警備隊だった。それでも、仁王立ちに構える。

 トリルは間合いを空けてレミの前に立った。やや青ざめた顔で、ニヤリと笑った。

「大層な自信だな。これだけの兵を相手に、丸腰で勝負しようというのか」

 すらりと、クリステの剣が抜かれた。唇を噛み、レミは拳を固める。

 刃が煌いた。銀の弧を描く。

 竜紅玉を嵌めた柄が、レミの目前に突き出された。呆気にとられるレミへ、トリルは不器用に笑う。

「ここは任せろ。お前は、他に助けなければならない人が居るのだろう」

 レミがテラスを見上げた。黄緑色の瞳に、闘志が閃く。頷き、剣を手にした。

「ありがとう、兄上。シド。ファラを頼む」

「よし」

 レミは身を屈めた。

「裏切り者だ」

 城の騎士が叫んだ。クリステの警備兵へ襲いかかる。騎士の足元に光の線が走る。シドの魔術に足払いをかけられ、転倒する。折り重なる騎士を、たちまちトリルたちが包囲した。

「シエロ。待ってろ!」

 灰褐色の髪が靡いた。

 まっすぐに、レミはテラスを目指して走る。立ちはだかる騎士や兵士の剣を弾き、掻い潜り、飛び越えて崖の上まで身軽に跳びあがった。手摺りを乗り越える。

「レミっ」

 ホッと顔をほころばせたシエロは、いきなり後ろに引き上げられた。喉の下を押さえ込まれる。首筋に、尖ったものが刺さった。

「渡すわけにはいかないな」

 ファドだった。

 シエロを羽交い絞めにする袖も土にまみれている。割れたテラスの下から、這い上がってきたのだ。

 首筋に短剣を突きつけられたシエロを盾にされ、レミは喉で唸った。剣を構え、じり、と足に力を入れる。隙があれば、いつでも飛びかかれる態勢だ。だが、相手も、実力でのし上がり、長年ディショナール王の右腕として近衛騎士長まで務めた男だ。隙がない。

 シエロの鼓動が速まる。唾を飲み込むだけで、短剣の刃が皮膚を傷つける。湿気で浮かぶ汗と血が混じり、襟元へ滲みた。

 グオ、と突風が吹き付けた。ファドが足をよろめかせるほどの強風だ。流石に、短剣をシエロの首から離し、己の目を庇う。

 空気を震わせ、竜の咆哮が響き渡った。

 レミもひび割れたテラスの床に伏せた。土石と熱い水が降り注ぐ。

 風が弱まった瞬間、レミの足が床を蹴った。

 温い液体がシエロの頬にかかった。体を押さえていた力が弱まる。

 レミは片手でファドの腕を切り付けた。反対の手でシエロの肩をつかむ。同時にファドの胴を蹴り、シエロを彼の腕から引き剥がした。

 背中から床に落ち、滑った。

 残っていた手摺りにぶつかり、レミとシエロは止まった。

 見上げると、ファドが血の流れる腕を押さえ、肩で息をしていた。レミは片手で剣を振るったため、威力は出ず、彼の上腕を掠めた程度だった。だが、ファドは怒りに顔を歪めていた。

「まとめて、叩き切ってやる」

 剣を抜く。

「下がってろ」

 レミは言い置くと、低い姿勢から斜めに剣を振り上げた。刃がぶつかり合う。互角だ。

 数回切り結び、ふたりは一度離れた。レミは下段に、ファドは中段に構え、にらみ合う。

 ハラハラと見つめていたシエロの視野の端で、動くものがあった。ハッとして、叫ぶ。

「レミ、右!」

 反射的に上げた刃が、投擲刃を落とした。テラスの割れ目の向こうから、王が投げたのだ。わずかな隙に、ファドが剣を薙ぐ。飛び退き、かわすレミの横を、再び投擲刃が掠めた。

 刃は、剣の端に弾かれ、軌道を変える。

「しまった」

 レミが振り返った。ファドがニヤリと笑う。

 投擲刃の先は、シエロに向かっていた。とっさのことに、シエロは動けない。ただ、ギュッと体を縮め、目を瞑った。

 小さな呻きが上がった。

 振り下ろしたファドの刃がレミの尾を掠めた。灰褐色の毛がひとつまみ、宙に舞う。

「くっそ」

 柄を握りなおすと、レミはファドへ踏み込んだ。刃を振り上げる。一瞬、刃が淡く赤い光を帯びた。刃同士が、激しくぶつかり合った。

 カラリと、刃が落ちる。

 うろたえたのは、ファドだった。

「剣が」

 柄から先が、折れていた。刃をなくした剣を、近衛騎士長は呆然と見つめた。

 ゆっくりと、レミは剣を構えなおした。その刃に、ギラリと赤い光が走る。

「シドに、強化してもらったからね。切れ味最高だよ」

 ニヤリと上げた口の端から、犬歯が覗いた。

 一方、ファラは、腹に受けた投擲刃を抜いた。ジワリと赤い染みが広がるが、表情を変えない。

 シエロは、震える声をかけた。

「ファラ」

「このような傷で死なないと、申し上げたでしょう」

 平淡な声で、頷いてみせる。

 ファドが舌打ちをした。残った柄を、鞘へ押し込もうとする。

 ファラが目をすがめた。叫ぶ。

「レミ、柄を割って」

 一瞬遅れたが、レミの体が動いた。ファドの手元目掛け、剣を振り下ろす。明らかに狼狽し、ファドは柄を隠そうとする。それより早く、切っ先が柄を縦になぞった。

 手甲をつけたファドの指が飛ぶ。悲痛な叫びが響いた。

 柄の切れ目から、虹色の光が漏れ出た。

 はらりと零れ落ちる虹色の羽根が、風もないのに宙を漂う。伸ばしたファラの指先に到達し、光を弱めた。

「冠羽が」

 ファドの声が情けなく震えた。

 手にした冠羽を両手にとり、ファラは額へ掲げた。冠羽はひと房の髪となり、ファラの顔を縁取る。そこから発せられた虹色の光が輪になって広がり、ファラの全身を包んだ。

 純白だった髪が、虹の色を帯びる。黒かった瞳も、角度によって様々な光の欠片が浮かんだ。

 ファラを見たソゥラが、色を、と呟いた。

 冠羽を失い、色を失ったファラに、ソゥラは気が付いていたのだ。

 色を湛えた涼しい黒目で、ファラはファドと王を見下ろした。

「三十四年前からのあなたたちの悪行、しかと記録いたしました。両名の名は、ビューゼント王国を混乱に陥れた者として、世界の終末まで残されます」

 力なくうな垂れるファドは、一気に十歳以上年をとったように弱々しかった。王もまた、テラスの亀裂を挟み、うな垂れる。

「おい、おっさんたち」

 テラス下から、シドの声が響いた。

「あんたら、この国の頂点なんだろ。今こそ、民を助けるために、被害を抑えるために、いいところ見せたらどうなんだよっ」

 シドは、腕で竜を示した。

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