降臨
牢に繋がれ、どれくらいの日数が経ったか。シエロには分からない。体がだるく、思い出したように咳が続く。時間を決めて水と小さなパンが手の届くところに置かれるが、いつ、誰が置いていったのかも知らなかった。
手をつける気にならない間に、パンは乾燥して表面に皺が寄った。水だけは、苦しい呼吸をなだめるため飲んだ。毒の混入を疑ったが、ファドの目的を考えると、命には別状がないと判断した。
懐には喘息の薬とソゥラの珠が残されていた。どちらも、逃亡の助けになるものではないと判断されたのだろう。しかし、どんなに呼吸が苦しくても、薬を飲む気にならなかった。
うとうとしていると、俄かに外が騒がしくなった。荒い足音と甲冑の触れ合う音が複数近付く。扉が開いた。
入ってきた近衛騎士がふたり、枷を外した。替わりに、後ろに回した手首を縄で縛る。
「出ろ」
上腕を掴まれ、引き上げられる。
眩暈がした。耳鳴りもする。意識が朦朧としたまま、ふらつく足を左右交互に動かす。咳が出て止まった足を、引きずられた。
扉を出ると、そこにもう一名、近衛騎士が立っていた。前方と左右を囲まれ、石の廊下を歩かされる。
いくつもの扉を潜ると、生ぬるい風が頬を撫でた。外だった。
咳をしながら、ぼうっとシエロは辺りを見回した。
暗い。空には星がうすく光っている。だが、夜の暗さではない。歩かされる回廊の両脇に咲く花は、花弁をいっぱいに開いている。不思議な光景だった。
視野が開けた。
回廊が半円型に膨らみ、テラスになっていた。
「連れてきました」
先頭をいく騎士が胸に拳を当て、報告する。
慇懃に頷き、振り返ったのは、正装した近衛騎士長と、もうひとり、同じくらいの年齢の男だった。滑らかな起毛の濃い紫色のマントが揺れる。銀に竜紅玉を始めとした宝石が煌く額飾りの下にある目は、鋭い光を湛えていた。
いきなり、シエロは腰を押し下げられた。
「王の御前だ。跪け」
のめるように、膝を折る。なされるがままに項垂れるシエロを横目で一瞥し、ファドが満足げに口を歪めた。
だが、ディショナールはムジカーノの青年楽師に興味を示さなかった。
「いよいよだな」
呟くと、磨かれた石造りの手摺りへ手を載せた。
ファドの指示で、兵士はシエロを手摺りの袂に座らせた。手摺りの陰になり、外からシエロの姿は隠される。しかし、シエロには、顔の幅ほどの間隔を開けて並ぶ支柱の間から、外の様子が見えた。
シエロは、そっとテラスの先を窺った。
覗き込むと、下に居並ぶ兵士の頭頂が見下ろせた。張り出したテラスの下は、大人の背丈の倍ほどの崖になっていた。その先、十数歩の距離に水際があり、テラスの正面に湖が広がる。岩や小島が点在する湖面は、鏡のように山々を写していた。降竜碑から見た東の山だった。
湖の上空に、光があった。最初、シエロはそれが太陽だと思った。だが、太陽は、さらに高いところにあった。黒く、影となって。
湖水の上に浮かぶ眩い虹色の光球は、絶えず輪郭を歪める。まるで、拍動しているようだった。
「あれが」
掠れた声が漏れ出た。ファドが、ニヤリと振り返る。
「そうよ。あれが、竜と呼ばれる力だ。まだ、完全に降りてはおらん」
目を細め、よく見ると、空の彼方から小さな光が集まってくる。糸のような線を引きながら飛んできて、光球に吸い込まれる。その度に光球は、一時的に光を強くした。
あれが、人の悲しみ、嘆きなのか。
どこからか、すすり泣きが聞こえた。
手摺りの隙間に顔をつけ、シエロは息を飲んだ。
テラスの右手方向の岸に人工的に石を積んだ桟橋が張り出していた。普段は、遊覧や釣りを嗜む豪奢な船が停泊していると思われる。そこに、縛られた人々が座らされていた。騎士の剣に囲まれている。
目を凝らすと、個々の識別ができた。
レミは、人型に戻り、簡素な服を着ていた。彼女とシドは、縄だけでなく、魔術でも縛られているのだろう。側に、魔導師の姿もあった。檻のようなものが見える。変化しても逃れられられないよう、ファラが入れられているのか。
母とムジカーノの女性たちは、ひとかたまりに身を寄せ合っている。その近くに、技芸団の仲間達が座り込む。ひとり離れて縄をかけられているのが、王弟カノン・ジグ・ビューゼントだろうか。
そして、さらに離れたところに、猿轡を噛ませられた男たちが座らされていた。オーケスティンの捕虜だと思われる。
耳鳴りがする。牢を引き出された時から続いていたが、酷くなっている。両手を縛られ、耳を押さえることもできない。静かに息を吸って、吐いて、それでも治まらない低い音が詠唱だと、ようやく気がついた。
シエロは、桟橋と反対の、左手の岸を見やった。
砂地に、魔導師が数列に並んでいた。全員で二十名近くいるだろうか。彼らを率いるようにひとり列の前に座るのは、ビューゼント王国最強の魔導師と言われるシドの師匠カーポ・サロヌだった。
詠唱が高まる。合わせて、カーポの影が濃くなった。彼の前に置かれたものが、光を強くした。
湖面を、魔方陣が覆った。
「始めるとしよう」
王が、ひとあし踏み出した。
始める。竜を呼ぶ儀式を。
レミとシドの縄を持っていた騎士が、動いた。ふたりを立たせ、桟橋の端へと歩かせる。後ろで、二名の騎士が剣を構えた。
「やめてください。そんなことをしたって、竜は!」
叫ぶシエロは、後ろの騎士に押し倒された。
「シエロっ」
「そこか」
レミとシドの声が響いた。
何事もなかったかのように、王は手を挙げかけた。その表情が強張る。目が見開かれた。正面を睨む。
ファドもまた、剣の柄に手をかけた。王を庇うよう、構える。
「いつの間に、どうやって」
シエロを囲んでいた騎士も、ひとりを除いて王の周囲についた。
皆が驚愕と不審の眼差しでひと所を凝視していた。シエロは、動かせる範囲で首を捻り、テラスの支柱の隙間を覗いた。
湖の浅瀬から、岩が頭を出していた。岸から、数歩も離れていない。テラスからでも、相手の顔がはっきり見える距離だ。そこに立つ人影があった。
「第二十一代ビューゼント国王、ディショナール・ジグ・ビューゼント」
静かな、だが凛とした声に、聞き覚えがあった。ノクターンだ。
「そなたは、どうしても、竜を降ろすおつもりか」
別の声が、柔らかく尋ねた。悲しげでもあった。その声も、シエロは知っていた。
銀色の髪が、光球の虹色に染まる。真紅の双眸が、懇願するように王を見上げた。
「ソゥラ」
ソゥラの側に、ノクターンが控えていた。
ファドが、はっきりと舌打ちした。
「警備は抜かりなかったはずです。あやつら、どこから」
言い訳めいた囁きを受け、王は強張った顔のまま、小さく頷いた。
「捕らえよ」
警笛が鳴る。テラスの両脇に控えていた兵士たちが、一斉に剣を抜いた。崖を下る。先頭付近で竜紅玉が煌く。トリルだ。
だが、駆け寄る兵はソゥラたちを中心に半円を描くと、その先に進むことができなかった。見えない障壁に阻まれ、爪先すら地面に降ろすことができない。
詠唱はいよいよ高まり、魔方陣が光る。応えるように、光球がギラリと光った。
ぐ、と王は唾を飲み込んだ。腕を、桟橋へと挙げた。
「構わん。生贄を捧げよ」
シドとレミの後ろに控えていた騎士が、ふたりの肩を押した。湖面へ乗り出す形のふたりの脇で、それぞれ騎士が剣を上段に構える。
ソゥラが、ノクターンへ何かを囁いた。ノクターンは頷き、重心を低く構え、自分たちを囲む兵士と対峙する。
「見ろ、光が」
誰かが声をあげた。
銀の髪が揺らいだ。ソゥラは岩の上で体の向きを変える。王へ後ろ姿を晒す。その途中で、ソゥラは確かにシエロを見上げた。憂いを帯びた紅の瞳に、シエロは察した。
彼が何者で、何をしようとしているのかを。
皆の視線が集まる中、ソゥラの体が浮いた。羽毛のように、光球へ吸い寄せられる。
「ソゥラ、駄目だ」
叫びが終わらない間だった。
突如、辺りは眩い光に包まれた。白い閃光が走り、全ての影を奪う。衝撃が襲い掛かった。
何かが崩れた。瓦礫が落ちる音がする。兵士達が叫ぶ。
風が渦を巻く。ゴウッと空が鳴った。
シエロは、細く瞼を開けた。
まだ光が満ちる中、ソゥラの後ろにできた影が淡く浮かんでいた。その影が、膨らむ。上に、横に広がる。
光球が浮かんでいた直下の湖面が波立ち、飛沫がテラスまで散った。
バサリと、羽ばたきの音が耳を打った。弱まる光の中に、巨大な翼が現れた。立ち上る黒い靄で、輪郭が揺らぐ。鱗に覆われた長い首の先が開く。地鳴りのような咆哮が響いた。
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