因縁

 遠くから歌が聞こえる。

 母がよく口ずさんでいた歌だ。落ち着いていて、温かく、優しくて、切なくなる。時に子守唄となり、時に目覚めの歌になった。

 体中が、温かいものに包まれる。柔らかい光の中にいる。頬に、誰かの手が触れた。優しく。

 かけられた言葉が聞き取れない。

 光が弱まっていく。消えていくのか。

 否。

 光は、滲みこんでいく。布にかかった水のように、シエロへ滲みていく。それと共に、温もりも薄れていった。

 湿り気を帯びたひんやりとした空気が肌を包んでいた。体が重い。

 シエロは、ぼんやりと瞼を開けた。薄暗い。少しずつ、焦点が合ってくる。

 灰色の中に、自分の手がある。だらりと下ろした手首に、黒い枷があった。枷に繋がる鎖を辿る気力もない。前に伸ばした足の先も、同様に鉄の輪が嵌められていた。恐らく、首にもあるのだろう。肩が重い。

 四角い石の部屋。隅に、扉がひとつ。小さな窓があるが、鉄格子がはまっている。

 そっと、頭を上げてみた。ジャラリと、鎖が音をたてる。扉と反対の壁を見上げる。さっきから視野を斜めに横切る光は、天井に近いところから射しこんでいた。採光窓がある。それにも、格子があるのだろう。光の筋は、縞模様だ。

 城の、なのか。それとも、近衛騎士長が管理する別の牢なのか。

 ともかく、そこは、シエロを閉じ込めるための場所だった。

 耳をすませる。採光窓からは、騎士が訓練をしているのか、掛け声が聞こえる。合間に、合図として笛が鳴らされる。あれが、夢の中で母の歌になっていたのか。

 扉にある窓から聞こえる音はなかった。

 レミやシドは、どこにいるのだろう。

 ファラも、あのまま囚われてしまったのだろうか。

 シエロは、壁に肩をつけた。

 技芸団が襲撃されてからの月日は、なんだったのだろう。近衛騎士長の出まかせの言葉に振り回され、命がけの旅をした。

 おまけにその動向は、ファラに憑いた黒いものを通して、すべて知られていたのだ。時に観察され、時に襲撃を仕掛けられ、弄ばれていた。

 シエロが旅に出ようと、王都で斬り殺されようと、同じことだった。

 目を閉じた。

 冷静に考えれば、気が付けたのかもしれない。八百年以上続く王国の頂点に立とうという者が、一介の楽師に、国の、いや、世界の行方を握る重大な竜を探させるなど。それをあてにするなど。

 あり得ないことだった。

 それなのに、必死になり、シドやレミを巻き込んだ。刺客を退け、さらなる恨みをかった。

 瞼の奥に、ファドの冷たい視線が浮かんだ。

 あの人の恨み、憎しみは、何なのだろう。

 ただ、思い通りにシエロが死ななかったからだろうか。技芸団を襲ったときから、そうだった。母が抵抗したからだろうか。

 ガチャリと、扉の方から音がした。石の廊下に、カツカツと踵の当たる足音が近付く。金属が触れ合う。鍵を回す音が、二箇所で響いた。蝶番が軋む。扉が開いた。

「おや、お目覚めだったか」

 身を屈め、ファドが扉を潜った。

 私服だろう。ゆったりとしたシャツとズボン姿だった。梳った黒い髪には、白いものが混じる。だが、衰えを感じさせない、がっしりとした体躯だった。

 ぼんやりと見上げる。

 シエロの顔を見て、ファドは舌打ちをした。だが、気を取り直すように、しゃがんだ。

「いいことを教えてやろう。お前達の命は、降竜のときまで生かしてやると決まった」

「じゃあ、ファラと、レミとシドも」

「ああ、そうだ。ムジカーノの女どもも、技芸団の奴らも、それから、王弟もな」

 反応を楽しむように、ファドは口の端を引き上げた。

「生贄は、多いほうがいいからな」

「そんなことをして、竜が、降りるのですか」

 尋ねる声が震えた。

 突然、ファドは顔を伏せた。逞しい肩を震わせた。次第に笑いは高くなり、石牢中に哄笑が響き渡った。

「来るだろうさ。己が大事に匿い、守ってきたムジカーノの血が、大量に流されるのだ。それでも降りないとなれば、それはそれで見ものだ」

 匿い、守ってきたとは。シエロは、眉を顰めた。

「どういう、ことですか」

 喉を仰け反らせ、笑いながらファドは腰を下ろした。片膝を立てて座り、楽しそうに顔を歪める。

「言葉のままよ。竜の民は、己の隠し里にムジカーノの者を住まわせていた」

「え」

「お前も、一度は疑問に感じなかったか? 他の、竜神から力を与えられし民から裏切り者と後ろ指をさされるムジカーノの血が、何故これほどまでに残っているのか」

「しかし、カヌトゥは、自分の郷を持っていました。彼らが襲われなければ」

 ファドの口の端が上がる。もしかして、とシエロの背筋を冷たいものが流れた。

「カヌトゥを襲撃したのも、あなたですか」

 ニタリと、ファドは太い首を縦に振る。

「おっと。睨むんじゃない。やつらも、かたまって住んでいただけだ。同族内で近親相姦を重ねれば、血が保てると思ったんだろう。だが、力は失っていた。何故だと思う」

 逡巡したものの、分からない。黙って首を振ると、ファドはつまらなさそうに天井を仰いだ。

「竜の民から離れていたからさ。所詮、竜神から力を与えられし民は、竜神と直接繋がる竜の民から離れていれば力を失う。だが、竜の民は、隠れ里を作り、自分が気に入る民しか住まわせなかった」

「それが、ムジカーノだったんですか。でも、全部ではないでしょう?」

 少なくとも、シエロの母は、生まれたときから王都で生活をしている。純粋な問いは、しかし、ファドの怒りに火をつけた。

「一部も一部。気に入らなくなれば、追放し、二度と入れない」

 ギリ、とファドは歯を食いしばった。握り締めた拳が小刻みに震える。

 気迫に、シエロはあとずさった。石壁にもたれているので、これ以上は下がれない。体がずり落ちた。

「ちょっとした出来心だって、許されない。外に憧れ、村を出た弟は、周囲から裏切りの民だと白い目で見られて心を病んだ。救いを求めて戻ろうにも、民の資格がないからと、親の死に目だろうと郷に入れない」

 握った拳から、骨の軋む音が聞こえそうだ。怒りに満ちた目が、シエロの目前に迫る。

「全てを奪われ、弟は孤独のうちに死んだよ。なのに、お前は隠れ里に匿われただと? 余所者は入れない、外の世俗に染まった奴は入れないとあれだけ言いながら、いきなり川から流れてきたお前はいいのか。ふざけるな」

 憎しみに満ちたファドを見上げ、彼の言葉を反芻する。

「近衛騎士長、あなたは?」

「ああ。隠れ里は、我が故郷さ」

 怒りの中に、自嘲の色が混じった。だがそれも、すぐさま掻き消される。シエロは、いきなり腹を殴られた。咳き込む。

「だが、それも昔の話だ。名と、故郷と、音楽を捨てた。いっそ、己の中に流れるムジカーノの血も捨て去りたかったよ。王都で剣を手にした。野望に燃えるディショナールに近付き、ここまできた。邪魔をするものは、何人であろうと許さん」

 ファドが肘を引く。避けることも出来ない。奥歯を食いしばった。顎を引く。頬に焼け付くような痛みが走った。繋がれたまま、上半身が傾いだ。

 懐から、笛が落ちた。石の床で、乾いた固い音を立てる。危険を感じ、拾おうと手を伸ばした。届かない。

 ファドは、鼻で笑った。転がる笛を踏みつける。

「竜の民も、ムジカーノも、古き血は、絶えればいい。消え去ればいい。時代は変わる。我々が、変えるのだ」

 掴んだ笛を、ファドは高く掲げた。

「やめて」

 シエロは叫んだ。

 振り下ろされた笛が、石の床に打ちつけられる。真っ二つに折れた。破片が、シエロの頬を掠めて壁に当たった。

 胸の奥が、乾く。締め付けられ、呼吸が乱れる。

 体を折り曲げ、激しく咳き込むシエロを、ファドは笑いながら見下ろした。

「降竜のときは、見ているがいい。古い民が滅びるのを」

「そのときは」

 絶え絶えに、シエロは言葉を繋いだ。ファラの聞いた言葉を知っているなら、ファドにも分かっているはずだ。

「滅びるのは、古い民だけじゃない。王も、あなたも」

「ああ、末代まで続く毒とやらか」

 ファドは立ち上がり、笛の欠片を蹴り飛ばした。

「何のために、魔導師どもを集めたと思っている。操竜の力がもし失われているなら、新しい力で従わせるまでよ」

 ニヤリと口を歪めた顔には、自信がみなぎっていた。

「全てを見せてやるよ。散々私の気分を害してくれたお前には、最高の観覧席を用意してやる。楽しみにしておくがいい」

 蝶番が軋み、扉が閉まる。二箇所の鍵がかけられた。足音が遠ざかる。

 いずれの音も、シエロの耳に届かなかった。立て続けにこみ上げる咳が、石牢に響く。

 殴られた頬が、腹が痛かった。

 それ以上に、心が痛い。

 呼吸が苦しくなっていく。このまま、止まってしまえばいいとさえ、考えた。

 冷たい石の壁に縋る。枷と鎖で動きが制限され、咳の度に肩や腰を変にぶつける。

 最後まで見届けると、言った。

 だが、それが、こんな形になるとは、思ってもみなかった。

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