過去の真実と新たな伝説
絶体絶命
舌打ちをし、シドが杖を構えた。防御魔方陣を描く光が、石突から発せられる。
「うわ」
「シド」
一瞬のことだった。火花が散った。シドが引いた魔方陣の線に沿って小さな稲妻が走り、シドを囲む。杖の石突から珠へと、遡る。火花が縄のようにシドを縛った。
「ぐ」
食いしばった歯の間から呻きが漏れ出る。
縄が消えた。同時に、シドの体が傾ぐ。膝を突き、喘ぎながら座り込んだ。
「これで、しばらく術が使えまい」
喉の奥で笑う声が、高い所から聞こえた。カツリと、ブーツの踵が岩を打つ。風を孕んだマントの裾が、音を立てて翻った。
「近衛騎士長」
シエロは、思わずあとずさった。
冑は省略している。だが、彼が纏う銀の軽装鎧の胸当てには、ビューゼント王国の紋章が刻まれていた。
彼の後ろに控えている魔導師にも、見覚えがある。マギク城の魔導師長だった。さらに後ろには、数名の騎士が剣を構えて並んだ。
力強い羽ばたきが下りてきた。一羽の猛禽類が魔導師長の差し出す腕に止まる。彼の手から、ガツガツと生肉をついばんだ。「目」を載せていたのだ。
近衛騎士長ファドの口が歪んだ。降竜碑に目をやる。
「まさかと思ったが、門が開くとは、な」
「どうして、降竜碑が門だと、知って」
震えるシエロに、ファドはニヤリと笑った。
門へたどり着き、あの黒いものが離れるまでの出来事なら、ファラを通じて見聞していただろう。だが、門のことは、傀儡師たちを倒した後に分かったことだ。
「己だけが全てを知ったと思うな。シエロ・ムジカーノ」
ファドの顔が歪んだ。憎しみ、怒り。それらを堪えるように、シエロを見下ろした。
彼は、何か他の情報源を持っている。ファラの聴覚と視覚を通した情報、王立大学で竜研究家のフラットから学んだこと、シエロたちが各地で書物から得た情報。そのいずれでもないところで、シエロたちが得ることのできなかった何かを知っている。
ファドの手が、ゆっくりと挙がった。背後に並ぶ近衛騎士が前進する。甲冑が触れ合った。
レミが唸った。狼の姿のまま、シエロとファドの間に立ちはだかる。毛に覆われた足が、地を蹴った。
「やばい」
切迫したシドの呟きが聞こえた。
灰褐色の獣がファドの喉元目掛け、飛び掛る。悠然と構えるファドに、あとわずかのところだった。レミの前足が触れたところから、魔方陣が光の壁を作る。
稲妻が走り、煙が上がった。焦げ臭い臭いが漂う。
獣の叫びを残し、レミの体が地面へ落ちた。すぐさま、騎士の剣先がレミを囲む。
「レミ」
シエロは、身を乗り出した。
縮れた毛に覆われた前足が、小さく痙攣している。
「なに、殺しはしない。殺せば、人質として価値が下がる」
ファドの手が、ファラへ伸びた。
「盗難届けの出ている剣だ。渡してもらおう」
ファラは、抱えていたレミの剣を彼から遠ざけるよう、身を捻った。シエロは叫んだ。
「違う。レミは、トリルから正式に剣を与えられたんです」
が、ファドは鼻先で笑った。
「正式だと? では、何か、証文でもあるのか?」
懐から取り出した羊皮紙を、目の前に掲げられた。
そこには、クリステ城の剣が盗まれたこと、見つけ次第持ち主であるトリル・クリステの元へ返却すること、犯人は厳重に罪に問うことが書かれていた。末尾に、トリルの署名もある。
シドが、吐き捨てるように言った。
「どうせ、脅して書かせたんだろ」
「我々は記録によって物事を判断する。文書が、全てだ」
羊皮紙を魔導師長へ渡す。その手が、再度ファラへ伸びた。
鞘を失い、抜き身の剣の柄を、ファラは握り締めた。黒目がちな目で、ファドを見据える。
「抵抗できるとでも、思っているのか」
冷たい目だ。技芸団を襲撃した時と同じ、慈悲の欠片もない目をしている。
シエロは、震える足で立ち上がった。
「ファラ。剣を」
騎士の数名が、構える。
「シエロ様」
問いかけるようなファラへ、頷く。
ファラから剣を受け取る。シエロは、竜紅玉の輝く柄をファドへ差し出した。
「全ては、私、シエロ・ムジカーノの罪です。三人のことは、ご容赦ください。竜を探す王命も、果たせませんでした」
「ふん。殊勝なことだ」
金属の手甲を嵌めたファドの手が、柄を握る。
シエロの手から、剣の重さがなくなった。刹那、ファドは易々と手首を返し、刃を下げた。腕を振り上げる。
シエロは、衝撃に跳ね飛ばされた。遅れて、金属音をたてて剣が地面を滑る。ガツ、と鈍い音がして、ファドが呻いた。
魔導師長の呆れ声が漏れた。
「そのような使い方」
シドの杖の石突が、ファドの甲冑の隙間から鳩尾を打っていた。すぐさまシドは身を引きながら杖を回す。中段に構える。
「平気な顔で約束を破る為政者ってのは、どの世界にもいるんだな」
肩で大きく息をしながらも、シドは腰を落とした。
「約束、だと?」
ファドが冷ややかに笑う。
「私が、いつ、誰と約束をしたと? さっきも言っただろう。少なくともビューゼント王国では、文書が全て。記録が全てなのだ」
だが、とファドは頬を緩めた。その笑みに、シエロは嫌な予感がした。
足が振り上げられる。
素早く、シドは杖を構えなおした。水平にする。だが、ファドの脛当てに蹴り上げられた。すでに傷だらけだった杖が折れる。木屑が散った。勢いを削がれながらも、ファドの爪先はシドの腹部を弾いた。
よろめくシドを、両脇から騎士が捕らえる。
苦笑し、ファドは顔に散った木屑を拭った。
「カーポの言うとおりだな。なかなか、肝が据わっている」
「もしかして、師匠を」
騎士に押さえながらも、シドは噛み付くように尋ねた。
答えたのは魔導師長だった。冷ややかに、フードの下で薄い唇が動く。
「ご自分から、志願されたのだ。今、竜召還の準備のため、城におられる」
魔導師長は、折れた杖を拾った。両手に持ち、折れ口を覗き込んで眉を顰める。
砂利を踏み、残った騎士がシエロとファラを包囲した。
「さて」
正面にファドが立ちはだかる。嫌らしい笑みで見下ろされる。下がろうにも、後ろには別の騎士が剣を構えている。
「まさか、このような奴に振り回されるとは、な」
残忍な笑みが広がった。一度は剣の柄に置かれた手が、離れる。しゃがむと、ファドはシエロの襟首を掴み上げた。
呼吸が苦しい。喉が、笛のように鳴った。
「あの傀儡師も、図に乗って報酬を上げろとうるさかった。運のいい奴め」
「私は」
咳こみながら、シエロはファドの目を見返した。
「ただ、王命に従ったまでです。母と、仲間の、ために」
「王命だと?」
嘲る口調に、シエロは突如、弾かれたように頭の中が白くなった。
「まさか、それも」
「いつ、お前が王に謁見を許された?」
くく、とファドは喉で笑った。
竜を探し、建国祭までに連れて来たなら、母や団員を解放する。これは王命だ。
言い放ったのは、近衛騎士長だった。
シエロもファラも、王に目通りしたわけではない。王から、直々に命じられたわけではない。
「最初から、騙していた、と」
「騙す? 勝手に勘違いしたのは、そっちだ。私はただ、王が求めるムジカーノの女を差し出さない無礼者を排除しただけだ」
「じゃあ」
冷たい汗が、シエロの全身からふき出した。
「母や、技芸団のみんなは」
戦慄くシエロを見下ろすファドの目は、降竜碑で襲ってきた傀儡師と同じだった。獲物が恐れ、絶望する姿を楽しんでいる。
「生かしているさ。捧げる血は、多い方がいい」
安堵したのも束の間、ファドは喉で笑った。
「ただ、あのサンドラ・ムジカーノとやらは、ちょっと元気が良すぎる。操竜の最有力候補だと王が信じているから手加減はしたが」
言葉を切られた。それも、シエロの不安と恐怖を掻き立てるためだろう。シエロは、歯を食いしばった。案の定、シエロの怒りを見て、ファドは口の端を引き上げた。
「足を、折らせてもらったよ。私は寧ろ、うるさい口を使い物にならないようにしたかったが、ムジカーノは音を操る、とね。王に感謝するんだな」
楽に合わせ軽やかに踊っていた母の姿が、シエロの脳裏を過ぎった。
ファラが、シエロの袖を握った。
「ファド。あなたの悪行、有史以来最悪の事件として残る可能性が高いですよ」
平淡なファラの言葉にも、冷ややかさが含まれていた。
だが、ファドは眉を上げた。空いた手が、軽く剣の柄に載る。
「冠羽がない限り、記録には残らん。引き継がれることのない歴史に何の意味がある」
勝ち誇ったように、ファドはシエロの襟首を掴んだまま立ち上がった。シエロより、頭ひとつは背が高い。足先がどうにか地面を擦るが、吊り上げられる。
「トリが不能な今、記録は我らで綴っている。ビューゼント歴八百二十三年夏、ディショナール・ジグ・ビューゼント王と近衛騎士長ファド・アルレッキーノは竜神を服従させ、世界の歴史を塗り替えるのだ」
「それが、望みなのですか」
ファラの問いは、鋭かった。
グラリと、シエロは掴まれた喉元から揺らされた。シドがファラの名を叫ぶ。
白い小さな体が、黒い地面へ叩きつけられた。さらに、ゆらりとシエロは揺さぶられる。
ファドは倒れたファラへ歩み寄ると、固いブーツの踵でファラの額を踏みにじった。体を丸め、ファラが呻く。
「力のないものが、偉そうな口を利くもんじゃない」
ファラへ目掛け、再び足が振り上がった。
シエロは、両手でファドの手を掴んだ。右足の爪先を彼のベルトへかける。渾身の力を込めて、振り上げられたファドの太腿を踏みつけた。
ファドの眉が上がる。
「やめて、ください。これ以上、僕の大切な人たちを傷つけるのは」
片手を離し、懐を握る。
ソゥラの珠を。
直後、後頭部に重い衝撃が走った。視野の端に、騎士の拳が見えた。
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