明かされた事実

 白く淡い光は、二本の石柱の間を埋めていた。

 手を入れてみる。なんとなく、ひんやりとする。濃密な霧のようだ。雲のようだとも言える。

 雲海の彼方に浮かぶように、降竜碑から東を見た景色が霞んでいた。

「今ならあそこまで行ける、てこと?」

 レミが唸った。シドに体を支えられ、シエロは答えられずにいた。

 本当に、降竜碑に繋がっているのか。

 シドが、杖をゆっくり光へ差しこんだ。杖先は、シエロの膝の深さまで沈み、止まった。確かな手ごたえがあるようだ。

「落っこちるってことは、なさそうだ。いま、俺が繰り出す転移魔導と、どっちをとる?」

「究極の選択ですね」

 ファラが腕を組んだ。

 シエロは、ごくりと、唾を飲み込んだ。決めなくてはいけない。

 三人が、シエロを見つめている。門からの光に反応するように、彼らの周囲に光を感じる。見える、というより、感じる。

 胸元を押さえた。ソゥラの珠に触れる。仄かに温かい。

「行こう」

 足を踏み入れた。シエロを支えるシドが、ほぼ同時に光を踏む。やはり、膝まで埋まる。

 おぼつかない足取りで、獣のままのレミが続いた。前足を垂らし爪先で光を掻く。恐る恐る、一足を踏み込む。首の辺りまで埋まり、唸る。

 しんがりを、少なくなった荷物とレミの剣を抱えたファラが務めた。

 ひと足ずつ、杖先で足場があることを確認しながら、歩を進めた。

 進むほどに、濃厚な光に包まれた。目が痛くなる白さの中に、虹色が過ぎる。肌の表面で、細かい泡が弾けるようにシュワシュワと音がする。

 見えない足場は、緩やかに下っていた。降竜碑が次第に近くなる。

 靴底が地面を踏んだ。降竜碑の、花束が引っかかったところに立った。支えあう石柱を潜る。

 夜も近いとあって、参拝客はいなかった。無人の山頂を、生ぬるい風が撫でる。夕焼けを残す空は血の色をしていた。所々黒く浮かぶ雲の合間を、供物を狙う猛禽類が旋回する。

 振り返ると、ただ、隆々と連なる竜骨山脈があった。不気味なほどに、静まり返っていた。黒々とした山肌に、木の一本も生えていない。

 死の山脈。

 天を刺さんとする険しい山の連なりに、シエロは呟いた。

「怨竜」

「え」

 獣のレミが、くぐもった声で聞き返した。シエロは目を伏せた。

「八百年前、ハモニア王が会った竜は、怨竜だったんじゃないかな、て。竜骨山脈に夏でも木々が生えないのは、末代まで続く竜の毒の涙が原因なのかもしれない、て」

「あり得るな」

 シドが目をすがめた。

 高度も関係しているだろう。だが、連なる山脈は、麓ですら黒々とした岩と土に覆われ、薄く草が生える程度だ。大国オーケスティンすら、国境にわずかな警備兵と監視魔術を張り巡らせるだけで、都市を築こうとしない。不毛の山脈だ。

 夏なのに、寒気が肌を撫でた。シエロは自分の体を抱えた。

 もし八百年前の竜が本当に怨竜だったら。

 そして、近いうちに目覚めるのが、怨竜だとしたら。

『どちらになるかのぅ』

 大婆様の言葉が蘇る。

 シエロは、空を仰いだ。

 星読みでもなければ、ステラシアの民でもない。シエロの黒い目には、ただ、藍色の空に散った銀砂しか映らない。この空に、悲しみが満ちている。

「操竜の乙女は、どうやって竜を操ったんだろう」

 怨竜を、いかに鎮めたのか。

 ただの独り言のつもりだった。

 だが、シエロの隣で、ファラが俯いた。

「申し訳ありません」

「ファラが謝ることじゃないよ」

 柔らかくなだめたが、ファラはサラサラと白い髪を振った。黒目がちな目を閉じる。

「カンウを、奪われたのです」

「カンウ?」

 レミとシドも、首を傾げた。

 ファラは、細い手を額へ当てた。

「鳥人は、孵化と同時に、歴代の鳥人が記した記録を冠羽に受け継ぎます。しかし、私は」

 言葉を切ったファラは、静かに息を吐いた。

「奪われたのです。三十四年前に」

「誰に」

 レミが唸った。

 ファラは、顔を上げた。表情の乏しい顔に、なんの感情も表していない。だが、声は、毅然としていた。

「ディショナール・ジグ・ビューゼントと、ファド・アルレッキーノ。王と、近衛騎士長です」

 技芸団を襲った男の、残忍な顔が蘇る。上げた甲冑の下で歪められた口は、自信と野望に満ちていた。

「私にあれを寄生させ、シエロ様を王都から遠ざるよう脅迫したのも、傀儡師を差し向けたのも、ファドです」

「傀儡師がご主人呼ばわりしていたのが、近衛騎士長か。てっきり、王だと」

 シドもまた、唸った。腕を組む。

 冷たい汗が、シエロの背筋を伝った。

「だけど、どうして。鳥人って、世界的にも重要な存在なんでしょ?」

 尋ねると、ファラは口をつぐんだ。しばらく、逡巡する。

「学友だったふたりは、若気の至りもあり、怖いもの知らずでした。共に野心家で、憶測ですが、たまたま王都を訪れていた鳥人の私が、このような姿だったことで、一線を越えてしまったのかもしれません」

 見た目は、成熟前の少女のようなファラだ。鳥に変化し、世界を見聞し記録すると言われても、防御魔術が使えるわけでもない。獣人のように、驚異的な腕力があるわけでもない。鳥人への畏怖そのものが唯一の力だ。それを軽んじられたなら、無力な子供同然だ。

 何かを思い出すように、ファラは空を仰いだ。旋回していた猛禽類たちも、ねぐらへ帰ったか。藍色の空が広がる。

「襲われたのが、三十四年前の冬。その九ヶ月後、三十三年前の秋。相次いだ、王家の不幸。先代の王の崩御と、王位継承一位だった王太子の不慮の事故」

「自ら王になるため、近衛騎士長と結託して、彼らを暗殺した。その罪を記録させないように、とか?」

 引き継いだのは、レミだった。獣の目が、ギラリと光った。ファラが、小さく頷いた。

「事実だという証拠がないため、私からは申し上げられませんが」

 心なしか、ファラはホッとしていた。

 風が、ファラの髪を靡かせた。肩で切りそろえた癖のない髪が、闇の中で白く浮かび上がる。露になった額の生え際に、古い傷跡が垣間見えた。

 冠羽を奪われた跡なのか。

 代々の鳥人が記した記録。

「冠羽が戻れば、もっと昔のことも、分かるの?」

 尋ねると、ファラは唇を引き締めた。頷く。

「始祖王と竜の記録も?」

「あれば、遡れるはずです」

 この世界の大事件だ。あらゆる記録が使命なら、沿岸地域の民の生活を一変させた、ハモニア王の戦いと竜の出現を、記録せずにいられないだろう。

「ファラの冠羽を、取り戻せないかな」

「近衛騎士長から?」

 呆れたレミは、すぐさまニヤリとした。項の毛を逆立て、灰褐色の尾をユラリと揺らす。広い獣の口で唸る。

「いいねぇ。仕返しもしなくちゃなんないし」

「いや、仕返しってわけじゃなくて」

 慌てるシエロに、シドも杖を掲げた。これまた、悪い顔をしていた。

「面白そうだな。俺も、仲間にいれてもらおうか」

「シドまで」

 苦笑したシエロは、ふと、腰に手を当てた。

 痛みが、なくなっている。

 シドもレミも、傷が癒えていた。黒いものに引きちぎられたレミの耳は欠けたままだったが、脇腹や背中の傷は塞がっていた。

「あれ? いつのまに」

 体を捻り、あちらこちら確認するシエロに、シドもレミも、傷を負った箇所に鼻をあてたり、服をめくったりした。

「あの光かな。なんか、怪我したところが、炭酸浴びてるみたいにシュワッとしたけど」

 シドの視線を追って、降竜碑を見やった。光は失われ、三角形の隙間からは、荒涼とした竜骨山脈の連なりが見えるばかりだ。

 シエロは、胸へ手を当てた。

「また、助けてもらっちゃったのかな」

 竜神の加護。

 これほどまでに助けてくれるのに。

 シエロは、黒い影と化した竜骨山脈を見つめた。

 竜は、滅びをももたらす。

 冠羽を取り戻せたら。操竜の力についても、分かるだろうか。怨竜が現れても、竜の怒りを、鎮めることができるだろうか。現状のディショナール王の行いを見ていると、怨竜である可能性が極めて高い。

「行こう。王都に。ファラの冠羽を、取り戻しに」

 力強く頷き返してくれる仲間がいる。

 しかし。

「その前に、レミ、戻らなきゃだね」

 もふもふとした首筋を撫でた。グル、と喉を鳴らし、目を細めたレミが、次の瞬間に牙をむいた。

「犬じゃないってば」

「じゃあ、さっさと戻れよ」

 肩をすくめるシドに、レミはふいと顔を背けた。

「革鎧も、着替えも、駄目になったからね」

「全裸で歩くわけにいきませんからね」

「言わないの」

 狼の前足が、ファラの脛を打った。

 カッと、シエロは顔を熱くした。

「そ、そうだね。今、戻れないね。ていうか、戻らないで」

 シドのマントも、ボロボロだ。レミの体を覆うものが必要だった。

 冠羽より、まず、服だ。

「じゃあ、まずは、バザールで服と食事の調達だね」

 緩やかに下る下山口へ足を向け、シエロは体を強張らせた。

 平らな山頂の地面に、光の線が走る。シエロたちを囲む。

 地面に影が浮かぶ。何かが、転移してくる。

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