失くしたもの 手にしたもの

 傀儡師の輪郭が、乱れてきた。ノクターンの姿がドロリと溶け、見知らぬ醜い男の顔になる。苦痛に歪み、断末魔の叫びが谷間に響き渡った。

 詠唱が終わると同時に、シドは剣を拾い上げた。両手に握り、ぐったりとした傀儡師に駆け寄る。

 レミが、よろめきながら離れた。

 クリステの剣の刃が、傀儡師の首を胴から切り離した。

 自分が斬られたわけでもないのに、シドは呻いた。苦しげに喘ぎ、咳き込む。地面へ突き立った剣の柄から、震える手が離れる。全身を戦慄かせ、傀儡師の骸から目を逸らせた。

 労わるように、レミが頭をこすり付けた。その足取りも、おぼつかない。

 シドが、震えながらレミの首を撫でた。魔術で逆立った毛を、撫で付ける。

「よく、耐えたな」

 パチパチと小さく稲妻を走らせる静電気に獣の顔を顰めながら、レミもグルと喉を鳴らし、シドの腕へ頭を載せた。

「嫌な役割を、よく引き受けてくれた」

 残虐な敵だったとはいえ、人の首を斬る。命を断つ。戦士であればある程度割り切って行えるが、魔導師のシドには重荷だった。震えの止まらないシドの腕へ、レミは鼻面を押し当てた。左右に振った尻尾で、シドの膝を撫でる。

 シエロは、地面に跳ね返る自分の鼓動を静かに聞いていた。助かった。ふたりの健闘のお陰だ。

「レミ。シド」

 掠れきった声が、風に吹き消された。それでも、ふたりはシエロの叫びを聞き取ってくれた。顔を上げ、よろめきながら側まできた。

 おもむろに体を起こすファラへ、レミが半ば呆れ顔で首を傾げた。

「その傷で、本当に、大丈夫なの?」

「はい。もう、あらかた塞がりました」

 血に染まった手を離す。服の穴から、淡い赤色の肌が見えていた。

「はあぁ。すげぇ」

 感心するシドが、腹を押さえ、座り込んだ。胡坐をかいた腿に肘をつき、口元を覆う。気まずそうに、溜息をついた。

「俺が、もっと魔導に通じていたら、もっと早くに気配で分かったのにな」

 無言で、シドは頭を下げた。

 ファラは、じっと彼の赤い髪を見ていたが、静かに首を振った。

「仕方のないことです。シドとも、レミとも、出会ったとき既に、あれを含む気配が、私の気配となっていました。他の者と異なる気配であろうと、鳥人とはそういうものと、思われて当然です」

 そっと、ファラは胸に手を当てた。

「幸い、あれは私の視覚と聴覚を共有し、心理まで食い込んでいませんでした。ただ、あれらの主に逐一通報されていたためもあり、私の知りうる情報を口に出来なかったことを、お詫びします」

「しんどかったね、ファラ」

 前足を上げかけたレミが、思い直したように頭を擦りつけた。戸惑うように、ファラは目を伏せた。

 地面が揺れた。火口から、新たな黒い噴煙が上がる。

「ここを、離れなきゃ」

 だいぶ喋れるようになったが、風に舞う火山性の砂が喉を刺激する。シエロは、襟巻きを鼻まで引き上げた。

 地面に横たわっていると、揺れがはっきりと感じられる。カヌトゥの民なら、この揺れからも、地の声を聞くことが出来るのだろうか。あの少女の後ろ姿を思い出し、胸が締め付けられた。

「シエロ様、起き上がれますか?」

 ファラに問われ、シエロはゆっくりと仰向けから横向きになった。体を捻ると、衝撃を受けた腰が痛む。歯を食いしばって耐え、どうにかうつ伏せになった。その状態で休憩する。

 シドの手が、腰に翳された。

「呪は、残っていない。けど、かなり強かったからな」

 シドの視線が、壊れた竪琴に落ちた。

「ごめんな、シエロ。あんなに、大事だったのに」

「いいよ、シド」

 シエロは、ゆっくりと首を振った。

「竪琴がなかったら、もっとひどいことになっていたはずだよ。身代わりになってくれたんだって、そう思うよ」

 体を起こした。どうにか、地面へ座る。荷物を引き寄せ、母の笛を引き出した。

 土埃と竪琴の木屑を拭い、順に指を置いて穴を塞ぐ。唇を当て、音を確かめた。

「よかった。こっちは、無傷だ」

 もう一度丁寧に埃を拭い、懐へ入れて内側から帯に挟んだ。

 安堵したように笑ったシドが、ふっと力を抜いた。地面へ手をつく。

「シド? 大丈夫?」

 そういえばシドは、ずっと座り込み、腹を押さえている。彼も、傀儡師の攻撃を腹部に受けた。本当に怪我はないのか。外傷がなくとも、酷いことになっていないだろうか。

「痛むの?」

 尋ねると、シドは苦笑した。

「腹減った。これ以上、動けない」

「私も。ファラが仕込んだ干し肉、食べちゃえばよかった」

 狼が、シエロの足元に伏せた。グゥと鳴るのは、喉ではなく腹の虫だ。

 しかし、荷物はすべて、先程までの戦いでめちゃくちゃになっていた。シエロの槍の柄も、真っ二つに折られ、転がっている。

 ファラが、ゆっくりと使えそうなものを集めてくれた。しかし、携帯用の食料は土にまみれ、食べられる状態ではなかった。

「使えるのは、お金くらいですね」

「下山するしかないかぁ」

 シドが天を仰いだ。空は夕暮れの色になっていた。早い星が、光り始めている。

 山を下っても、町は住民が避難した後だ。手前の農村を頼るにも、家屋は遠かった。

「あー。麓の家畜、美味しそうだったなぁ」

 舌なめずりするレミを、ファラが平淡に咎めた。

「そのままでは、いけません」

「じゃあ、焼けばいいって話?」

 シドが、口元を袖で拭う。早くも脳内では、丸焼きの家畜が肉汁を滴らせているもようだ。

 じとりと半眼で見下ろしたファラが、抱えてきた杖を下ろした。

「正規の処理を経て、市場に並んで調理されてからです」

「長いよぉ」

 嘆くレミの前には、引きずってきた剣が置かれた。

 ふと、シエロは淡く優しい光が、ファラの足元に影を作っているのに気がついた。影を逆に辿って顔を上げた。

「あ、れ?」

 力の入りきらない腕を挙げ、門を示す。

 二本の石柱の間が、光っていた。輝く霧のように立ち込める光の奥に、うっすらと景色が見えた。見覚えがある。

 降竜碑から見た、東の山だ。

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