葉桜の君に

野森ちえこ

第1話 出会い

 それは一年まえの、満開になった桜が散りはじめたころだった。


 国語教員として勤務する公立高校の入学式で、秋田葉太あきたようたは彼女の顔をみつけた。いや、目が勝手に吸い寄せられたといったほうがいいかもしれない。

 たくさんの顔がならぶ体育館。来賓、保護者、在校生、そして入場してきた新入生。その最後の列に、彼女はいた。教員として拍手で迎えながら、強力な磁石にひっぱられるように、問答無用で視線を奪われた。


 よく、似ている。葉桜が好きだといっていた、かつての恋人に。


 期待と不安がいりまじったような、初々しくも凛としたその新入生の横顔に、遠い記憶の底に埋まっていた過去がひきずり出される。


 ――花と、花が落ちて残っためしべとおしべ、それから若葉。まるで、今と過去と未来が一緒にいるみたいじゃない?


 満開よりも、花と葉が半々くらいの、五分葉桜といわれる状態が一番好きなのだといっていた、彼女の澄んだ笑顔が今も葉太のなかであざやかに輝いている。



 ❀



 冬森ふゆもりさき。当時十六歳の高校二年生だった彼女との出会いは、葉太が大学に入学した春のことだった。


 アルバイトとして採用されたコンビニの先輩店員だった咲は、掃除に商品補充にレジにと、新人の葉太にいろいろと丁寧に教えてくれた。

 いつもキリリと背すじが伸びていて、どこかミステリアスで、笑うと左の頬がぺこっとへこむ。まるくてちいさなえくぼが、とてもかわいくて魅力的だった。

 対して葉太は人相が悪い。歩いていただけで何度職質されたかわからない。自分で応募しておいてなんだが、よく接客業に採用されたと思う。

 後日店長に聞いてみたら『用心棒にいいかと思って』と笑っていた。店長いわく、葉太が働きだしてから店のまえでたむろする中高生がいなくなったらしい。


 ほんとうは、家庭教師のアルバイトがみつかるまでのつなぎのつもりだったのに、それを忘れるほどコンビニのアルバイトはたのしかった。より正確にいえば、咲と会えるアルバイトがたのしかった。


 じつのところ、一緒に働くのが女の子だと知って、おびえさせてしまうのではないかと心配していたのだが、咲は『たしかに顔はすこし怖いですけど、やさしい人だってすぐにわかりましたよ』と、にっこり笑ってくれた。そんな彼女だったからこそ、デートに誘う勇気が出せたのかもしれない。


 読書家だった父親の影響で、幼いころから大量の本にふれてきた葉太と、やはり読書が趣味だという咲は思いのほか気があった。

 そうして、三度目のデートで、咲はバイト仲間から葉太の恋人になった。


 それまでにも好きになった子はいたけれど、いつも『顔が怖い。無理』と断られてきた葉太にとって、はじめてできた彼女である。


 浮かれていた。調子にのっていた。だから――見えていなかったのだと思う。咲が抱えていた不安も、恐怖も、なにも気がついていなかった。やがて、些細ないきちがいからひどく傷つけてしまった。

 いや、そうじゃない。ここで『些細』と思ってしまう自分だからだめになってしまったのだ。


 ――そんなこと、ぼくは気にしないよ。


 励ますつもりの言葉はあまりにも無神経で、彼女の心を深く切りつけていたのだと知ったのは、ずいぶんあとになってからだ。『気にしない』といっている時点で、すでに気にしているのだと、そんなことすらわかっていなかった。


 ――ヨウちゃんも、そっち側の人なんだね。


 だから当時は、なぜ咲があれほどかなしそうな顔をしたのか、なぜ自分が一方的にフラれなければならなかったのか。そっち側とはどういう意味なのか。まるでわからなくて、理由もろくにいってくれなかった彼女に腹を立てていた。


 想像力が欠けていたのだと思う。それはつまり『知らない』ということだった。知らなければ、想像すらできない。当時大学生だった葉太の世界は、とても狭かった。



 ❀



 全校集会で、廊下で、咲によく似た彼女をみかけるたびに心がざわめいて、胸の底がちりちりと刺激される。視界にいれないようにと思っても、目が勝手に彼女をみつけてしまう。もうおわったことだと思っていたのに。いや、現実にもう、十五年以上まえにおわっているのに。自身の後悔の強さを、こんなかたちで知るとは思ってもみなかった。


 咲と彼女になにか関係があるのではないかという疑念が脳裏をよぎったこともある。年齢的に娘ということはないだろう。仮に娘だとしたら十七歳での出産だ。そのころはほかでもない葉太とつきあっていた。それでも結局調べなかったのは、怖かったからかもしれない。たとえ咲と彼女になんらかのつながりがあったとして、それで葉太になにができるというのか。


 答えが出ないまま一年がすぎて、ふたたび校庭の桜が花びらの雨を降らせはじめたころ。担任となった新二年生のクラスで、葉太は心を騒がせる彼女の名を知ることになった。春川桜子はるかわさくらこ。彼女は葉太の受け持ち生徒になった。



 ❀



 地元では進学校としてそこそこ有名なこの高校に、国語科の教員として着任して三年目。新採用された最初の高校から三校目にして、一番波乱の幕開けとなった新年度である。引き継ぎで優秀な生徒だとは聞いていたが、それが咲を思わせる彼女だとは考えもしなかった。

 新二年生のクラスを受け持つことはきまっていたのだから、そのなかに彼女がいる可能性は十分あったのに、不自然なほど葉太の意識にはのぼらなかった。無意識に思考から追い出していたのかもしれない。そんな葉太を嘲笑うように、春川桜子は葉太の生徒になったのである。

 そう。生徒だ。一生徒。それ以上でも以下でもない。自分にしつこくそういい聞かせなければならないほど、葉太の心は千々に乱れていた。



 ❀



 三十歳をすぎてそろそろ六年。教材研究やら研修やら書類仕事やら、休みもあってないような生活だ。多忙ゆえの万年運動不足。お腹まわりもほんのすこし気になってきたところである。

 夜はどうしても帰って寝るだけになってしまうので、自由時間をつくろうと思ったら早起きするしかない。いい機会だとポジティブにとらえることにして、始業式から数日後、葉太は早朝ウォーキングをはじめた。出勤まえに気持ちをととのえることが最大の目的だ。


 駅周辺は商業施設などそれなりに充実しているが、すこし歩けば畑が広がっていたりする。ほどよく都会でほどよく田舎。家と家とのあいだが広く、高層ビルと呼ばれるような建物もない。


 生まれたての朝。どこか甘やかな空気で肺が満たされる。歩いているだけで開放的な気分になれた。


 やはりこれは、気分転換になるし運動不足も解消できる。一石二鳥である。


 見かけるのはもっぱらカラスと野良猫。あとは犬の散歩をしている人や、葉太とおなじようにウォーキングやジョギングをしている人。彼らとポツポツすれちがいながら、一定の歩幅、スピードを意識して足をすすめる。住宅街を抜け、商店街を抜け、神社にお参りをして、折り返し地点兼休憩ポイントに設定した公園まで約三十分。だいたい予定どおりのペースで到着した。


 テニスコート三面分くらいはあるだろうか。車で何度かとおりかかったことはあるが、足を踏みいれるのはこれがはじめてだ。

 広々として見えるのは遊具のすくなさゆえかもしれない。なにしろ、ブランコとちいさなすべり台しかない。

 中央付近に屋根つきのベンチがあった。いわゆる東屋あずまやといわれるものだ。遊ぶためというより、散歩や休憩のための場所といった雰囲気の場所だった。公園をかこむように背の高いケヤキと桜がのびのびと枝を広げている。


 自動販売機で購入したペットボトルの水をのどに流しこみながら東屋のベンチに腰をおろす。と、おかしなものが目に飛びこんできた。なにかの見まちがいかとパチパチと目をまたたかせたが、どうやら気のせいではなかったみたいだ。すっくと空に向かって立つ桜の木に、若い女の子がひっしと抱きついている。


 これは、注意したほうがいいのだろうか。しかし枝を折っているわけでも花をちぎっているわけでもない。また、木に触ってはいけないという注意書きがあるわけでもない。


 女の子は淡い空色のパーカーと黒のジョガーパンツ。肩にかかる黒髪は、ゆるくひとつに縛られている。満開をすぎて、新しい緑の葉が見え隠れしている桜もまた、そっと彼女を抱きしめているみたいに見えた。


 どこか幻想的にも思える光景をまえに、ひとまずようすをうかがっていると、視線を感じたのか、女の子はふいにこちらを振り向いた。そして固まった。葉太も固まった。


 真っ白になった葉太の頭にかろうじて浮かんできたのは、たった二文字。


 なぜ。


 ウォーキングをはじめたその日に、そもそものきっかけとなった生徒にはちあわせるなんて。これはいったい、なんの冗談だ。



     (つづく)


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