第2話 似ていないのに
桜の木に抱きついていた
まさかの遭遇である。こんな状況、まったく想定していなかった。
「
先にフリーズ状態が解除されたのは桜子のほうだった。
葉太もほうけている場合ではない。仮にも教師である。
「はい。……おはようございます、春川さん」
高速回転をはじめた脳から出てきたのは朝の挨拶だった。人間関係の基本である。この場にふさわしいかどうかはともかくとして。
「おはようございます。すごいですね。もう名前おぼえてるんですか?」
葉太が担任になったのはつい先日の話である。まさか一年もまえから彼女の存在に心をかき乱されていたなんて、本人は思ってもいないだろう。というか、知らなくていいのだ。むしろ知られてはいけない。
「たまたまです。とても優秀だと聞いていたので」
桜子はちょっと目をまるくして、しばらく口をもごもごさせていたが、やがて「まじめに生きてきたかいがありました」と、おどけてみせた。その勢いのまま、たたっとかけよってくる。
葉太が横にズレると、「おじゃまします」と、人ひとりぶんくらいのスペースをあけてちょこんと腰をおろした。
「先生も散歩ですか?」
「ウォーキングをはじめたんです。最近運動不足なので」
「へえー」
「春川さんは、なにをしていたんですか?」
「……散歩ですよ?」
「木に抱きついてましたよね」
うっと声をつまらせて、そこツッコんじゃいますかとかなんとかブツブツと口をとがらせている。葉太が黙っていると、彼女はあきらめたようにため息をついた。
「なんか、安心するんですよ。目をとじて耳をあててると、木の鼓動を感じるっていうか、エネルギーをわけてもらえるような気がするんです」
何年かまえ、やはりこの公園で知りあったおばあちゃんに教えてもらったのだという。春先、木の幹に耳をあてると音が聞こえるのだと。
なるほど、と納得する。その『音』や『鼓動』は、根から吸いあげた水を枝や葉に送っている音だといわれているものだ。もっとも、実際は葉が風にこすれる音や枝のきしみなど、人の耳にはたくさんの外的な音も混ざってはいってくるため、科学的には正しくないのだという。植物学を研究している友人から聞いた話だが、ここでわざわざ口にするのもヤボというものだろう。
「それにしても春川さん、ずいぶん早起きですね。いつもこんなに早いんですか?」
「だいたいそうですね。朝起きて三十分勉強して、晴れてたら三十分散歩して、雨だったら家でストレッチしたり音楽聴いたり。それから朝ごはんたべて学校。中学生になったころからずっとそんな感じです」
あたりまえのような顔でいう桜子を思わず凝視してしまう。教師のいうことではないかもしれないが、ちょっと健全すぎるのではないだろうか。健全すぎて逆に心配になってくる。
葉太が中高校生のころなんて、いつも遅刻ギリギリで母親に叩き起こされていたというのに。それとくらべてはいけないような気もするが――なんだろう、この違和感は。
「先生、顔怖いです」
さすがに見つめすぎてしまったらしい。桜子の笑顔が若干ひきつっている。
「すいません。よくいわれます」
「その顔で敬語つかわれると、もっと怖いです」
「え」
「学校ではそれでいいと思うんですよ。ちょっと怖いくらいでちょうどいいっていうか。そうでなくても、すこし乱暴な言葉をつかっただけでパワハラだーって動画拡散されちゃったりする時代ですからね」
「はぁ……」
彼女がなにをいいたいのかわからず、相づちもあいまいになってしまう。
「でも、今はプライベートですよね」
「まあ、そうですね」
「だから、フツーにしゃべってください」
「フツー……」
中学生くらいのときにはもう強面である自覚を持っていた葉太は、できるだけ乱暴な言葉をつかわないように、たとえ腹が立っても、怒鳴ったり大声を出したりしないように心がけてきた。なぜなら、ただでさえ怖い顔の自分が声を荒立てたりすれば、八歳下の妹がおびえて泣くのがわかっていたからだ。
よく絵本や童話を『よんで』とせがまれていたのだが、そのなかに怒ったりおどかしたりする場面があると、妹は『おにーちゃん、かおこわい』と泣くのである。
そうやって泣くくせに、つぎの日にはまた本を抱えてトコトコやってくる。ニコニコと『よんで』とねだられればイヤとはいえない。そしてまた泣かれる。そんな過去を積み重ねてきたのである。泣きたいのは葉太のほうだった。
さすがに家族や親しい友人相手に敬語をつかうことはないものの、社会に出てからは、年齢や立場にかかわらず敬語で話すようにしている。それもこれもすべては相手を怖がらせないためだったのだが、それがかえって怖いとは。本末転倒ではないか。
ピピピピ……と、電子音が鳴る。
「あ、時間」
桜子は立ちあがりながら、パーカーのポケットからスマートフォンをとり出してアラームを止めた。
「じゃ、先生。また学校で」
「はい。気をつけて」
ちいさく手をふって桜子は走り去った。
その背中を見送りながら、葉太は首をひねっていた。春川桜子とかつての恋人、
咲がどちらかといえばかわいい系だったのに対して桜子はきれい系である。なのになぜ『そっくり』だと感じたのか。
わからないままに出勤した葉太はさらに首をひねることになった。クラスで見た桜子は、やはり咲にそっくりだったのである。
❀
似ているのに似ていない。似ていないのに似ている。
その謎がとけたのは、公園の桜がめしべとおしべを残して、ほぼすべての花を散らしたころ、晩春の季語にもなっている『桜しべ降る』といわれるころのことだった。
あれから二度、葉太は早朝の公園で桜子と顔をあわせた。
ほんとうはウォーキングコースを変えようかとも思ったのだが、それだと葉太が避けているように感じさせてしまう可能性がある。たとえば生徒である彼女のほうが、教師である葉太を避けることがあったとしても、その逆があってはいけないと考えなおしたのだ。
雨が降ったり寝坊したり、ウォーキング自体できない日もあったが、葉太は基本的に毎朝、ほぼおなじ時刻に公園に到着し、東屋で十分ほど休憩してから自宅に折り返すということを日課にするようになった。
桜子のほうはその日の気分で散歩コースが変わるらしく、公園で会う日もあれば会わない日もある。
強面での敬語が怖いといわれたので、彼女のいうとおり、公園で話すときはつかわないようにしようと努力はしてみたのだが、長年しみついた習慣はなかなかにしぶとく、かえってぎこちなくなってしまった。結局、あきれたのか見かねたのか『先生おもしろい。もうそのまんまでいいです』と笑ってくれたので、敬語のままでいくことにした。
そうして三度目に顔をあわせたこの日、桜子は最初からそわそわしていて、なにか話したいことがあるのだとすぐにわかった。
うながすか待つか。葉太が見極めるまでもなく、桜子は口をひらいた。
「もし、自分の恋人にじつの親がいないってわかったら、先生はどう思いますか」
さらりとした口調とは裏腹に、その瞳は不安定に揺れている。このとき、葉太にはわかったような気がした。なぜ、桜子と咲が似ていると感じたのか。
(つづく)
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