第4幕:蒼星の宝剣

【幕間:promise】


 名前なんて聞かれたのは、いつぶりだろうか。

 自分の名前、大丈夫、忘れていない、ちゃんと覚えている。

 自分が何者か、自分の存在証明の証、名前。


「私は……クレアだ。クレアトゥール=デミアルジュ。美術師だ」


 彼がそう名乗ると、少年は大きな瞳をきょとんと瞬かせて、クレア、と呟いた。

 自分以外の誰かが、自分の名前を呼んでくれる、その久しぶりの感覚には彼は心が震えるのを感じた。

「びじゅつし、って?」

 首をかしげた少年に、老紳士がスッとその優しげな瞳を細める。

「ほぅ……これは、また古い言い方だな。“美術師”か……今でいう、造形主、つまりは芸術家のようなものだな」

「古い言い方なの?」

「うむ。……現在ではもう、その言葉そのものが使われておらんからなぁ……」

 ふいに向けられた老紳士の視線が、彼を捉えた。

 いや、違う。

 老紳士の眼差しは、彼を通り越して、その向こう側にあるモノを見つめている。

 少し待っていなさい、と少年に告げると、老紳士がゆっくりと彼の方へ近づいてきた。

 そして老紳士は静かに頭を垂れると、慈しみを宿した眼差しを彼に向けて、そっと穏やかな声音で囁いた。

「え……?」

 その言葉を耳にした彼は、驚いたように瞬きする。

 彼と老紳士の視線が交錯することはない。

 けれども彼の視線の先で、老紳士はふわりと優しく微笑んだ。


「またね」と、少年は言った。

 そして、老紳士に手を引かれて、彼の前から去っていった。





***【第4幕】***



<―—今宵21時、〝蒼星の宝剣″を頂きに上がります。 怪盗――>



***


 東ノ宮青寿は、事務所内に鳴り響いた電話の音で目を覚ました。

 寝そべっていたソファーから気怠げに手を伸ばして、テーブルの上にある電話の受話器を取り上げる。


「―—はい、お電話ありがとうございます。東ノ宮探偵事務所でございます。ご依頼でしょうか?」


 のんびりとした口調で決まり文句を口にすると、受話器の向こうから聞こえてきたのは、笑みを含んだ知人の声だった。

<――昼寝の邪魔をして悪いな>

 電話の相手は、青寿がよく知る人物だった。

「……あぁ、なんだ君でしたか。ご無沙汰ですね~……どうしました?」

 この声の主は、青寿にとっては友人であると同時に、お得意様でもあった。

 仕事の依頼をしたい、と告げる友人から簡潔に依頼内容を聞いた瞬間、青寿の寝ぼけ眼が一変、パチリと大きく目を見開いた。

 その瞳が、まるで新しいおもちゃを見つけた子どものように、爛々と輝く。


「…………へぇ、それは面白そうですね。引き受けましょう」


 友人にそう答えた青寿は、唇の端を釣り上げて小さく笑った。



***


 詳細は後日に、ということで翌日、青寿は依頼主に指定された喫茶店へ足を運んだ。

 そこは、依頼主がよくプライベートで利用する静かな落ち着いた雰囲気の喫茶店であり、青寿も連れられて何度か来店したことのある場所だ。

 予約していると言っていたので、名前を告げると店の奥の半個室の席に案内された。

 まだ依頼主は来ていなかったので、コーヒーでも飲みながらのんびり待つことにしようと、青寿は先に近くにいた緑のフレーム眼鏡のウェイターを呼んで注文をすませる。

 しかしそれほど待たずして、先ほどのウェイターがコーヒーを運んできたタイミングで、綺麗な銀髪に整った顔立ちの青年が、青寿の席に歩み寄ってきた。


「悪いな、待ったか? 青寿」


 青寿はウェイターにコーヒーを追加でもう一つ頼むと、向かいの席に腰かけた青年のスカイブルーの瞳を見つめてへらりと笑って見せた。

「いえいえ、ご依頼ありがとうございま~す、聡人サマ」

 この銀髪の青年が、今回の依頼主である。

「おいおい、冗談でも“様”とかやめてくれ。疲れる」

 依頼主の名前は、深雪聡人(みゆき あきひと)。

 深雪家の次期当主様だ。

 なぜそんな富裕層のご子息と知り合いなのかというと、かくいう東ノ宮家もそれなりの名家だからだ。

 ただ、青寿は三男なのでお家の期待もなければ家を継ぐなんてこともないので、半ば放置気味の家庭環境から離脱して、今は自由気ままに好き勝手に暮らしている。

「呼び出しておいて悪いが、あまり時間もないんだ。手短に説明する」

 さっそく本題に入ろうとする聡人を前に、青寿はやれやれと肩をすくめる。

「相変わらず忙しそうですね~聡人は」

「青寿も相変わらず気楽そうだな」

 うらやましいよ、という聡人の呟きに青寿は、これでもいろいろ大変なんですけどねと軽口をたたいた。

 聡人の依頼とは、付き合いで招待されたパーティーでお披露目されるらしい宝飾品を怪盗の手から守ってほしい、とのことだった。

 実際は、聡人の弟である奏人が怪盗専門の捜査官であると知ったパーティー主催者から、奏人も招待するから警護を頼みたいと言われたらしいのだが。

「なんで、奏人くんに頼まないんです?」

「こちらの世界のごたごたに、弟を巻き込みたくない。やつらに弟が利用されるのも嫌だし、最近あいつは、仕事のしすぎで疲れているようだからな」

 実家に戻ってきている時くらい、仕事のことは忘れて休ませてやりたい、と告げる聡人の顔は弟を心配する兄のそれだった。

「ブラコンですねぇ」

 茶化すように呟いた青寿に、聡人が真顔で答える。

「失礼だな。俺は妹のことも愛している」

 言われて青寿は、聡人には弟の奏人ともう一人、下に妹がいたことを思い出した。

「あ~そうでした。君は、弟妹思いの優しいお兄サマでしたねぇ~」

 ニヤニヤと笑う青寿に、聡人は咳払いをして話を戻す。

「それで、依頼は受けてくれるのか」

「電話でもお伝えしましたが、引き受けましょう。面白そうですし、僕も〝怪盗″には興味があります」

 青寿は唇の端を釣り上げて笑う。

「助かる。何か必要なモノがあれば言ってくれ。可能な限り用意する」

 頭を下げた聡人に、必要なモノは後でまとめて連絡する、と青寿は答えた。

「ところで、オフの日とはいえ、怪盗が来ると分かれば、奏人くんは休み返上して仕事するタイプだと思いますが」

 ハァとため息をついた聡人が苦笑する。

「……それは否定しない。そうなったら、そうなったで……いや、できればそうなってほしくないんだが……二人で協力するとか、まぁ、好きにしてくれ」

 すまない時間だ、と聡人が時計を見ながら席を立った。

「あぁ、一つ言い忘れていたが、その開催されるパーティーなんだが……なんというか、ちょっと変わった仮面舞踏会らしいんだ」

 どうにも歯切れの悪い言い方をした聡人に、青寿は首をかしげる。

「はい? と、いいますと?」

「いや、まぁ心配はいらない。おまえの衣装も、こちらで手配するから。当日はうちに寄ってくれ。あ、あと、奏人の友人も招待するつもりでいるから、適当に仲良くしてくれ」

「……はぁ、まぁ、よくわかりませんが、おまかせします」

 ではよろしく頼む、と言い残して聡人が立ち去っていくのを、青寿は冷めたコーヒーを飲みながら見送った。


***


 当日、用意された衣装に袖を通して会場内に足を踏み入れた青寿は、一瞬おのれの目を疑った。

「……これはまた、想像していたものとだいぶ違いますねぇ」

 黒いフードを被った般若、山羊の角、鬼の面、カボチャ頭に、骸骨の顔、ピエロ、一見して人間だとわかる者の姿は、蝶の仮面をつけているだけの給仕の者たちくらいだろうか。

 会場内を見渡した青寿は、半眼になって隣に立つ聡人を見据えた。

「……言っただろう。ちょっと変わった仮面舞踏会だって」

 ちょっとどころかかなり違う、と青寿は内心で呟く。

「ハロウィンパーティーの間違いじゃないですか?」

 豪華絢爛、煌びやかなマスカレイドパーティー、ではなく、どこからどう見てもホラーテイストの夜会、という雰囲気だった。

 かくいう青寿と聡人も会場にいる招待客と似たような仮装している。

 銀髪をオールバックに整えた聡人は、白い仮面に黒のマントと白いシャツ、スカーフといったオペラ座の怪人のような衣装。

 青寿にと用意されていたのは、同じく白い仮面と、黒いローブにロザリオと聖職者のような長い丈の服。

「……帰っていいですかね」

「気持ちはわかるが、すまない最後まで付き合ってくれ」

 げっそりとした表情で嘯いた青寿に、聡人が苦笑しながら頼み込む。

 これは予想以上にやっかいなことになりそうだなぁ、と青寿は遠い目をした。

 こんな誰が誰だかわからないような状態では、泥棒なんて侵入し放題ではないかと思わなくもない。

 一応館内に警備員を配置してはいるようだが、一体どれだけ役に立つことか。

 青寿からすると、今のところ会場内にいる全員が不審者だ。

「ところで、奏人くんは?」

 一緒に来たんじゃないんですか、と青寿が尋ねると、聡人があそこにいる、と少し離れた所に佇む骸骨のお面とカボチャ頭を指し示した。

 聡人と同じ銀髪に骸骨のお面を斜めにして乗せているのが、弟の奏人だ。

 では、もう一人のカボチャ頭は誰だろうか、

 青寿が聡人とともに二人に近づくと、なにやら奏人がアイスブルーの瞳で苦々しくカボチャ頭を睨みつけているところだった。


「………………どの面下げて俺の前に姿を現した」

「やだなぁ~久々の再会じゃないか」

「おまえというヤツは……!!」

「聡人さんに招待されたんだよ。断る理由がないだろう?」

「兄さんが?」


 訝し気に眉根を寄せた奏人の肩を、歩み寄ってきた聡人がそっと叩いた。

「そうだよ。奏人が帰ってくるっていうから、友達を招待しなくては、と思ってね」

 いたずらっぽくウインクしてみせる聡人に、奏人がハァとため息を返し、へらへら笑っていたカボチャ頭は元気よく頭を下げた。

「この度は、お招きいただきありがとうございます!」

「こちらこそ来てくれてありがとう、友禅くん」

 ニコリと微笑んだ聡人が、青寿の方へと向き直るとカボチャ頭を紹介してくれた。

「青寿、こちら奏人の友人の水無月友禅くんだ」

「初めまして、水無月と申します」

 くるりと青寿に向き直ったカボチャ頭が、ペコリとお辞儀をする。

「どうも初めまして、東ノ宮青寿です」

 その被り物はとらないのか、と青寿がじっと見ていると、すみません、とカボチャ頭が申し訳なさそうに告げた。

「これ一度被ると、なかなか頭が抜けないんです」

 ちなみにこれはジャック・オー・ランタンの仮装です、と説明してきた。

 説明されるまでもなく見ればわかるので、青寿は適当に頷いておいた。

「青寿、ちょっとここにいてくれ」

 御当主に挨拶をしてくる、と一旦聡人が傍を離れていったので、青寿は奏人に声をかける。

「妹くんは、今日は一緒じゃないのかい?」

「……見ての通り、こんな胡散臭い会なので、兄と説得して留守番させました」

 それに…、と言いかけて奏人は口を閉ざし、何故かカボチャ頭の友人を睨みつける。

「まぁ、その方がいいでしょうねぇ~」

 青寿は、二人を交互に眺めつつ、奏人が言いかけた言葉を心中で呟く。

 それに、今日は怪盗も現れるし、と言ったところだろうか。

 弟くんは仕事する気満々ですよ~、と今この場にいない聡人へ呟きながら、青寿はそれとなく会場に集まっている客人たちを眺めた。

 今のところ、特に異常はなし。

 怪盗の予告時間まで、まだ余裕もある。

「……それにしても、パーティーはまだ始まらないんでしょうかねぇ?」

「そうですね……確かに、そろそろ開催の挨拶があってもいいと思いますが」

 青寿の呟きに、奏人も衣装の装飾品である懐中時計を見て呟く。

 二人して首をかしげていると、御当主に挨拶をしに行っていた聡人が戻ってきた。

「……どうかしましたか?」

 浮かない表情の聡人に気が付いた青寿が問いかけると、聡人は困ったように眉根を寄せ、周囲を気にするように声を潜めて答える。

「……御当主が、姿を消したらしい」

 聡人の言葉に、青寿は目を見開く。

「……誘拐事件ですか?」

「……わからない。お披露目予定だった宝飾品も一緒に消えたらしい」

 窃盗及び誘拐か、もしくは…怪盗の仕業か? いやそう判断するのは早計すぎる、現時点では情報が足りない。


「その話は本当ですか、兄さん」


 会話に割って入ってきたのは奏人だ。

 聡人は少しためらうように視線を逃がした後、諦めたように小さくため息を吐いて答える。

「……あぁ確かだ。奥方様から聞いた」

 人が一人行方不明になったという一大事に、弟に仕事させたくないとかわがまま言ってられないよな、と青寿は聡人の複雑な心境を悟った。

 案の定仕事モードに入ってしまった奏人に、無駄だとは思うが一応青寿は待ったをかけてみる。

「ちょっと待とうか、奏人くん。ここは、僕にまかせてくれませんかね? 一応僕は今日、聡人に探偵として雇われて来たわけで」

「……いえ、気になることがあるので、俺も手伝います」

 わかってはいたが、曇りのないまなざしできっぱり断言される。

 これはもう聡人には諦めてもらうしかなさそうだ。

 さてと、と青寿も探偵モードに頭を切り替える。

「気になること?」

「何か心当たりがあるのか?」

 二人からの問いかけに、奏人はそっと瞳を伏せ、言葉を濁した。

「いえ、可能性の話なので……兄さん、館内を捜索する許可を頂けますか」

「奥方様にも捜索を頼まれたところでな……案内してもらおう」

 深雪兄弟が捜索に乗り出そうとしたところで、青寿は待ったをかける。

「ところで、彼はどうするんだい?」

 青寿が、パーティー客と談笑している奏人の友人を指し示して言うと、奏人はしまった忘れてた、という顔をする。

「内密にと言われたものでな……友禅くんには申し訳ないが、ここで待機していてもらおう」

 あまり御当主の不在を公にしない方がいい、と囁く聡人に、奏人は迷うように友人を見つめた。

 そんな奏人の友人に対する態度に、違和感というほどでもないが、青寿は少し不思議に思う。

「……そんなに彼を一人にするのが心配なのかい?」

 なら残ってもいいんだよ、と言外に促せば、奏人は何かを諦めたように小さくため息をついた。

「いいえ、アイツならほっといて大丈夫です。今優先すべき事柄は、御当主ですし」

 行きましょう、と奏人は聡人に頷いて見せ、三人は会場を後にする。


***


 聡人が御当主の奥方と話をし、青寿と奏人は館の奥へと足を踏み入れる。

 ひとまず失踪した御当主の部屋へ案内される道すがら、青寿は奥方に状況を尋ねる。

「この屋敷からは出ていない、それは間違いありませんね?」

「はい、出入り口には門番がいましたから……館内には、いるはずなんです」

 事前に手渡された館の見取り図に目を落としながら、青寿はさらに問う。

「御当主がいなくなったこと気が付いたのはいつ頃ですか?」

「会場の準備を終えた後、主人は一旦部屋に戻りました。お披露目予定の宝飾品の確認をしているのだろうと思っていました。……それから、そろそろ開催の挨拶をと、声をかけに行ったら、返事がなくて……部屋をのぞいたらいなかったのです」

 すぐに屋敷の者たちと館内を探し回ったのですが、未だ見つからず…と奥方は声を震わせる。

「今日、御当主に、何か変わった様子はありましたか?」

「いいえ、特には……」

「どんな些細なことでも構いません。……そうですね、例えば、怪盗から予告状が届いたようですが、御当主はどのような反応でしたか?」

「初めは、信じていないようでした……けれど、万が一のことがあっては困るから、一応念のためにと、今日は警備の方を増やしたり、事前に深雪さまの弟君に警護を依頼していたようでした……」

 さすがに警察を呼ぶことまではしませんでしたが、と告げる奥方の言葉を聞いて、奏人がぼそりと呟く。

「……依頼があったなんて聞いていませんよ、兄さん」

「……うん、おまえじゃなくて青寿に依頼したからな」

 弟の冷たい眼差しを明後日の方向を見て受け流す兄、そんな兄弟のやり取りを青寿はスルーする。

「パーティーをやめる、もしくは宝飾品のお披露目をやめる、という選択肢はなかったのですね?」

「はい、どちらも主人は楽しみにしていましたから」

 なのに急にいなくなるなんて、と奥方が声を沈ませたところで、奏人が口を開く。

「お披露目予定だった〝蒼星の宝剣″は、どこで保管されていたのですか?」

「主人の部屋です」

 こちらになります、という奥方の許可を得て、三人はたどり着いた部屋の中へ足を踏み入れる。

 奥方は書斎机に歩み寄ると、机の上に置かれたままの空き箱を指し示す。

「主人は、宝飾品をこの箱に入れて保管しておりました。近頃は、毎夜取り出して眺めるのが日課だったようで……」

「毎夜、ですか……」

 奥方の言葉に、奏人が何か考え込むように押し黙る。

 青寿は青寿で、遠慮なく部屋の様子を観察する。

 扉の鍵は開いていた、とくに荒らされた形跡もなし、窓は締まっている、机の上には宝飾品が保管されていたはずの空っぽの箱。

「……怪盗が予告時間を待たずに、御当主ごと宝飾品を奪っていった、ってのはありえます?」

「ありえません」

 青寿の言葉を間髪入れずに否定したのは奏人だった。

「その根拠は?」

「奴は人攫いなんてしません」

「それは、君の希望的観測じゃないかい?」

「いいえ、奴には奴の美学があります。我々には理解できない、怪盗の美学、とやらが。奴は、それを曲げるようなことは決してしない」

 首をかしげる青寿に、奏人は迷いなくはっきりと断言する。

 怪盗専任捜査官である奏人がそう言うのならそうなのだろう。

 一応事前に調べられる限りのことは調べてきたが、怪盗のことをよく知らない青寿としては、それが正しいのか否かまではまだ判断することができない。

 青寿には、同業者に朝日向という知り合いがいるのだが、彼も常日頃から今回の件とはまた〝別の怪盗″と対峙しているらしい。

 その彼に、怪盗を相手にするにあたり、何か参考になる意見を求めたところ、奴は高いところを好む、という、だからなに? と言いたくなるような残念な答えが返ってきただけだった。

「怪盗の美学、ねぇ……」

 そこへ、あの…と奥方がそっと窺うように声を発する。

 お役に立つかどうかはわかりませんが、と前置きをして、奥方は目を伏せながら語る。

「実はわたくし……宝飾品のお披露目をすることには、反対でした……」

「ほう、それは何故ですか?」

 怪盗に狙われているからですか、と問う青寿に、いいえと奥方は首を横に振る。

「〝蒼星の宝剣″……主人は、たいそう気に入っておりましたが……わたくしには、どうもそれが……〝ホンモノ″ではないような気がして……」

「贋作、ということですか?」

「いえ、贋作ではなく……」

「レプリカ?」

「いいえ、レプリカでもなく……なんと表現すればいいのでしょうか……」

 彼女が何を言いたいのかわからず、青寿は首をかしげる。

 上手い言葉が見つからないのか、もどかしげに言葉を探す奥方も困ったように眉根を寄せる。


「――〝未完成品″」


 ふいに響いた奏人の呟きに、一瞬室内が静まり返る。

 しかしすぐに、その通りだというように奥方がハッと大きく頷いて見せる。

「は、はい! そうです、そんな印象を抱いておりまして……」

「未完成品……」

 青寿は、事前に写真で確認した宝飾品を思い出してみたが、特におかしな点はなかったように思う。

 先ほど見た保管箱の大きさからすると、長さはおよそ三十センチ未満、鍔のない短剣という説明書きだったが、実用には向かない派手な飾りがついた宝剣だな、というのが写真を見た青寿の印象だ。

 ただ、青寿は実物をこの目で見たわけではない。

 写真と実際に見るのとでは、大きく印象が異なるということくらいは理解している。

 他に何か得られる情報はないかと、棚を観察していた青寿は、ふと目に着いたたくさんのレコードを指し示して問いかける。

「ところで、御当主は、音楽鑑賞がご趣味で?」

「えっ? えぇ、はい」

 青寿の問いかけに、奥方が戸惑いつつも頷く。

 クラシックが好きで、就寝前やリラックスしたい時にいつも聞いていると。

 そういえば最近は、あまり聞いていないようだったと、奥方は思い出したように呟いた。

「青寿、どうだ?」

「さっぱりですねぇ」

 何かわかったかと言外に問う聡人に、青寿が肩をすくめた時、複数の足音が近づいてきたかと思うと、部屋の扉が慌ただしくノックされた。


「失礼いたします、奥様っ! 旦那様がいらっしゃいました!!」


 入ってきた使用人からもたらされた報告に、室内にいた全員が驚きに目を見開いた。

 ハッと我に返った奥方が、報告に来た使用人に詰め寄る。

「本当なのっ!? どこに?」

「ですが、その……」

 なんと申し上げればよいのか、と使用人が困惑したように言いよどむ。

「まさか、怪我でも……!?」

「いえ、違います! お怪我はないようですが、どうも、様子がおかしい、と言いますか……」

「どういうことです? ちゃんと説明なさい」

「場所はどこです?」

 使用人と奥方のやり取りに、もどかしさを覚えたのか奏人が割って入った。

「えっ?」

「御当主を発見した、場所はどこです?」

 強い口調でハッキリと同じ問いをぶつける奏人の声音に、青寿は焦りを感じとった。

「バルコニーがある、三階の階段の踊り場に……」

 使用人の回答を聞くや否や、奏人が部屋を飛び出していく。

「奏人!?」

「追いかけましょう」

 奥方と使用人を待たずに、青寿は聡人と共に奏人を追いかけ部屋を飛び出した。

「何なんだ? 御当主が見つかった、で終わりじゃないのか?」

「ん~……僕もそう思っているんですが、奏人くんの様子がそれで終わりじゃないって言ってる気がするんですよねぇ」

 事前資料で聡人から屋敷内の見取り図をもらっていたので、迷うことなく目的地へ向かえる。

 階段を駆け上がっていくと、上から言い争うような声が聞こえてきた。


「えぇいっ、近づくなっ!」

「旦那様、落ち着いてください!」

「これだろう、これが目的なんだろう!?」

「旦那様、奥様が心配していらっしゃいますよ!」

「これは渡さん、誰にも渡さんぞ!」


 たどり着いた先に、確かに御当主はいた。

 近づくなと大声を上げる御当主にどうしたらいいかわからず困り果てた使用人と、奏人の姿も。

「奏人、何がどうなっている?」

「御当主は、どうしてあんなに激昂しているのです?」

 怒っている、いや、青寿の目には錯乱しているようにも見えた。

 その彼の手にはしっかりと、今夜お披露目予定だったという〝蒼星の宝剣″が握られている。

 なんだろう、まるでおもちゃを取り上げられるのを恐れる子どもみたいだ、と一瞬青寿は考えた。

「兄さん、早く御当主とあの宝剣を引き離した方がいい」

「どういうことだ?」

「でないと、御当主が危険です」

 説明が足りない奏人の言葉に、聡人と青寿は首をかしげるしかない。

 確かに、御当主の様子はおかしいが、たかが宝剣を何故引き離した方がいいのか、そもそも何が危険なのか。

 まさかそれらすべての原因が、あの宝剣だとでも?

 集まった使用人たちがじりじりと御当主を囲むように、だが近づけずに戸惑う中を御当主は腕を振り回して、威嚇する。

「長引けば長引くほどまずいんですよ」

 こうなれば多少手荒な真似になるが実力行使もやむをえまいと、足を踏み出す奏人を聡人が慌てて止めた時。


「あ、あのっ!」


 すぐ後ろから声をかけられ、三人は振り向いた。

 階段を駆け上がって来たらしいメイドが一人、息を切らして立っていた。

「こんな時になんです?」

「深雪聡人さまと奏人さまに、こ、こちらの手紙を、と」

「あとにしてください」

 今は御当主が先だ、と奏人は切り捨てるが、代わりに聡人が手紙を受け取る。

「至急、お渡しするようにと」

「誰から?」

「申し訳ありません、お名前までは……」

 恐縮するようにうつむいたメイドは、確かにお渡ししました、とそそくさと離れていった。

 聡人がすぐさま開封し、中に入っていた紙を取り出したので、青寿も一緒に除き見る。

「……ヴァイオリンの楽譜?」

「ほかにメッセージかなにかは?」

「ないな」

 これが至急渡すような代物だとするなら、とんだいたずらもあったものだ。

 状況を考えてほしい。

「奏人、おまえのは」

 掴まれていた手をいい加減放してくれ、と振り払った奏人は、渡された封筒と手荒に開封する。

 中に入っていたのはやはり楽譜で、しかしこちらには小さなメッセージカードが入っていた。

 それを目にした途端、奏人の顔色が変わる。

 一度、未だ錯乱している様子の御当主に目をやり、それから考え込むように眉間にしわを寄せ、次に聡人へ向き直る。

「……兄さん、手を貸してください」

「お、おう。御当主に関係あるんだな? なんだかわからないが、いいぞ」

「青寿さん、御当主がここから離れないように見ていていただけますか」

「後で説明していただけるなら、いいですよ」

 ありがとうございます、と口早に礼を言った奏人は、聡人の手を掴んで急ぎ階下へと降りていく。

 時間を稼げということだろうか、と青寿は考える。

 青寿の見間違いでなければ、小さなメッセージカードには流麗な筆記体で


【Heart-moving music.】


 心を揺さぶる音楽を、と書いてあった。

 どういう意味だろうか。

 奏人のあの様子からして、これがいたずらでないというのなら、そもそも送り主は一体誰だ。

 いや、考えるのは後にしよう。

 今、青寿がやるべきことは、御当主との対話だ。


「あの~ちょっと、いいですか?」


 まずこの状況をなんとかすべきかと、青寿は御当主を囲む使用人たちを一旦下がらせた。

 けれども、逃げられないようにと一応、階段付近や逃走できそうな通路をふさぐような位置に立っていてもらう。

「な、何だ、お前は?」

「え~、とりあえず、お初にお目にかかります、東ノ宮青寿と申します」

 両手を広げて、青寿は自分が無防備であることをアピールする。

 その間、視線だけはしっかりと相手を見据え観察している。

「本日は、お招きいただきありがとうございます」

 ゆっくりと一歩踏み出すと、相手はじりじりと一歩後ずさる。

 その瞳に宿るのは、怯え? 警戒? 猜疑心?

「御当主、今、どういう状況か、おわかりですか?」

 青寿は、相手を刺激しないようにのんびりとした口調を心がけて話しかける。

「あなたは今日、階下の大広間でパーティーを主催しています」

「パーティー……?」

 青寿の言葉に、やや呆然としたような声が返ってきた。

「あなたがいらっしゃらないので、パーティー開催の挨拶がまだなんですよ」

「……あぁ、そうだ、パーティだ」

 ほんの一瞬、相手の瞳の中に理性の光が見える。

 上手くいけば、錯乱状態から落ち着かせることができるかもしれない。

「集まった客人たちは、今か今かと首を長くして、あなたがいらっしゃるのをお待ちですよ」

 さぁ一緒に大広間へ戻りましょう、と手を差し伸べているが、御当主は動かない。

「今夜あなたはこのパーティーで、今あなたがお持ちのそちらをお披露目する、その予定だったのでは?」

「……お、おまえも、これを狙っているのだろう!」

 怒鳴るや否や、再び相手の瞳が吊り上がる。

 おっとまずい、しくじったようだ、と青寿は内心で呟く。

 やはり、宝剣について触れてはいけないらしい。

 一体どういうことだろうか、急にお披露目するのが嫌になったのだろうか。

 怪盗からの予告状のせいか?

 盗まれるのが怖くなって、お披露目するのを恐れたか。

 だったら、それはそれで集まった客人たちにお披露目はやめると言えばいいだけの話だと思うのだが。

 恐れている、怯えている、いや違う気がする。

 宝剣を守るように握りしめ、誰にも渡さないとばかりに、近づく輩を牽制するそのさまは、まるで美術品に取り憑かれているかのようなふるまいだ。

「御当主、どうか落ち着いて」

「近づくなっ!」

 後ろがただの壁だったら、問題はないのだが、残念ながら開け放たれた両開きの窓の先は、バルコニーだ。

 三階の高さから飛び降りて逃走、なんてことはしないだろうが、錯乱の末に手すりを超えて落ちたりしたらまずい。

「それ以上、近づくなら……」

 腕を振り回して威嚇していた御当主は、ふいに宝剣を両手でつかむ。

 まさか、刃物を取り出そうとでもいうのか。

 美術品とはいえ、剣は剣だ。

 短剣とはいえ刃物である。

 使い方を誤れば、美術品であっても人を傷つけることができる殺傷道具となり果てる。

 たかだか、人を近づけないためだけに、そこまでするか、正気じゃない。

「みなさん、離れてください」

 青寿は、背後にいる使用人たちに短く告げる。

 その間、視線はそらさず、じっと相手を観察している。

 やはり目が行くのは、御当主が握りしめている〝蒼星の宝剣″。

 あれははるか昔に作製された美術品だ、奥方がホンモノではないようだとか、奏人も未完成品だとか言っていたし、もしかしたら、刃こぼれしていたり、そもそも刃が付いていない代物であったりしたら、とても助かるのだが。

「御当主、落ち着いて、僕の話を聞いてください」

「うるさい! 黙れっ!」

 怒鳴るとともに、鞘から宝剣を抜こうとした御当主に、青寿は身構える。

 しかし、宝剣を鞘から抜くことはできなかった。

 うんともすんともいわない、中が錆びているのか、はたまたロックでもかかっているのか、びくともしなかった。

「は……?」

 一瞬、呆然とした御当主に、今がチャンスと青寿が足を踏み出した刹那、室内の明かりが一斉に落ちた。

 同時に鳴り響いたのは、時刻を告げる鐘の音。

 開け放たれた窓からそよぐ風にあおられて、ふわりとカーテンが舞い上がる。

「な、なんだ……?」

 窓から降り注ぐ月明かりを背に、意地でも放すまいと宝剣を握りしめていた御当主の両手に、そっと背後から手を添える者がいた。


「――残念ですが、御当主……これは〝宝剣″ではないのですよ」


 薄闇に響いたのは、この場の誰のものでもない、第三者の声で。

「だっ……誰だっ、おまえはっ……!?」

 振り向き、驚愕の声を上げた御当主に、背後に佇んでいた人物は、目深にかぶった白いシルクハットの下で口元を笑みの形を刻んだ。

「おや、予告状は差し上げたはずですが?」

「まさか、怪盗……!!」

 ご名答、と予告通り現れた怪盗が、唇の動きだけで囁く。

 夜の闇にぼんやりと浮かび上がるような白い衣装。

 緑のリボンがまかれた白いシルクハットに、白いマント、なるほどふざけた格好だと青寿は思った。


「――宝剣ではない、というのはどういうことですかね?」


 青寿が口をはさむと、怪盗の視線が青寿の方へ向けられたのを感じた。

 目深にかぶったシルクハットのせいで、表情は見えない。

「言葉通りです。これは短剣などではありません」

 白手袋に包まれたその手には、いつの間にか〝蒼星の宝剣″があった。

 それに気が付いて、あっと声を上げる御当主から、怪盗は素早く離れ、バルコニーの手すりの上に立った。


「見入るのは良し、けれども決して魅入られてはなりません」


 その時だ、ふいに窓の外から美しい旋律が聞こえてきたのは。

 確か外は庭園だ、そして階下はパーティー会場である大広間だ。

 これは録音ではない、生演奏だ、屋敷の見取り図を頭の中に広げた青寿は、階下の大広間で誰かが演奏でもしているのか、と思い当たる。

 音色からして、ヴァイオリンとピアノの二重奏のようだ。

 思わず状況を忘れて聴き入ってしまいたくなるほど美しく、心に響く、この演奏は。

「まさか、聡人……?」

 そして奏人。

 そうだ、深雪兄弟は音楽を嗜んでいて、二人ともそれなりの技量をもつ、聡人がヴァイオリン、奏人がピアノの奏者だった。

 まさか、この演奏はさっきの楽譜の曲か?

「素晴らしい……」

 ドサリと地面にしりもちをつくように崩れ落ちた御当主は、唖然とした表情で怪盗を見上げた。

「私は、なにを……?」

 まるで憑き物が落ちたかのように、きょとんと目を瞬かせた御当主に、怪盗のシルクハットの下から覗く口元がニコリと微笑みかける。


「御当主、もっと見る眼を養うことです」


 そう告げた怪盗は、白いマントを翻すとひらりとバルコニーの手すりから飛び降りて消えた。

 思わず、バルコニーに駆け込み、手すりの下を覗き込んだ青寿だが、すでに怪盗の姿はどこにもなかった。

 後には、腰を抜かして動けない御当主の膝の上に「〝蒼星の宝剣″確かに頂きました。 怪盗JIN」と書かれた一枚のカードだけが残されていた。



***



 何が起こったのかわからないが、どうやら正気に戻った様子の御当主を使用人たちにまかせ、青寿は深雪兄弟と合流する前に、この屋敷で一番高い所に位置する屋根裏部屋へと足を運んだ。

 屋根へと続く小さな窓を開けて危なっかしい動きで、屋根の上へと登る。

 本音を言うと運動神経にそこまで自信があるわけではないのでやめたいところだが、その先に待ち受けているであろう出来事に対する好奇心には勝てなかった。

「よーいせっと。はい、発見」

 同業者の助言、もとい青寿の予想通り、屋根の上には先客があった。

「あ、安心してください。君を捕まえるつもりは、ありませんので」

 この屋敷で最も高い場所、離れの塔の屋根の上に、白い怪盗が佇んでいた。

「……よく、ここがわかりましたね」

「いえね~、怪盗は高いところを好む、って事前に教えてくれた同業者がいましてね~」

 屋根の上に登ったのはいいものの、室内へ戻ることも考え、危ないと判断した青寿はそれ以上動く気にはならなかった。

 それに、怪盗を捕まえるのは警察の仕事であって、探偵の仕事ではない。

 青寿がここにきたのは、怪盗と話がしてみたかったからだ。

「君は、宝石の魔術師と呼ばれる芸術家、ファルシュ=アルティスタを知っているかい?」

 夜空へ叫ぶように問いかけた青寿の言葉に、ほんのわずか怪盗の肩が揺れた。

 白いマントをなびかせて屋根の端に立つ怪盗へ、青寿はさらに言葉を続ける。

「怪盗が盗むのは、決まって彼の作品だ……何故だい?」

 答えてもらえるかわからない問いだ。

 聞いてどうする、と言われたら、どうするつもりもないが、しいて言うなら好奇心、と青寿は答えるだろう。

 何故だろう、と思ったので、理由が知りたい、ただそれだけだ。

 風に煽られて、怪盗の白いマントとシルクハットから零れ落ちた金色の髪がさらりと揺れる。

 はたして長いようで短い沈黙の後、ポツリと怪盗が呟く。


「――FALSE NAME」


 聞き取れた英語を頭の中に思い浮かべる。

「……なに?」

「本来の名称を無視し、勝手に与えられた偽りの名前のこと」

 シルクハットの下から覗いたエメラルドグリーンの瞳が、ちらりと青寿を一瞥した。

 意味は分かる、だが、それと問いの答えと、どうつながるというのか。

 困惑する青寿に、怪盗は懐から〝蒼星の宝剣″を取り出して見せた。

「この美術品の名称は〝蒼星の宝剣″などではありません」

 先にも怪盗は同じようなことを言っていた、これは剣ではないと。

 そして今度は、名称が違うと言う。

「これは〝未完成品″――本来なるべきはずだった、本当の名称は〝蒼穹の導き″」

 未完成品、と怪盗も口にしたこの言葉は、奏人も言っていた。

「私はただ、純粋に、この完成品が見たいだけです」

 どこか恍惚としたような、けれどもどこか無邪気な声音で、そっと囁くように怪盗が告げる。

 その言葉の意味が、青寿にはよくわからない。

 偽りの名称、本当の名称、そして、未完成品、完成品。

 まるで謎かけのようだ。

 これ以上、言葉を引き出させなさそうな気配に、青寿は問いを変える。

「……深雪兄弟に、楽譜を送り付け、演奏を依頼したのは、君ですか?」

 さすが探偵さん、と怪盗が呟く。

 一体何のために、と続けた青寿に、怪盗が答える。

「……感性を揺さぶるためです。魅入られてしまった人を呼び戻すには、より心を震わせるもので対抗するしかないんですよ」

 魅入られてしまった人、というのは御当主のことか。

 確かあの時、見入るのは良し、けれども決して魅入られてはならないと、怪盗が言っていた。

 魅入られたならば、感性を揺さぶり、より心を震わせるもので対抗する。

「興味の対象を移させる、みたいな意味合いですかね?」

「簡単に言えばそうですね」

 正直、意味は分かっていないが、とりあえず御当主の正気を取り戻させるためにやったことだと青寿は解釈することにした。

 あとでその辺は、あの時唯一状況および怪盗からのメッセージを理解していたのであろう、奏人に聞けば説明してくれるかもしれない。

 気になる不思議なことは、もう一つある。

「……職業柄、僕は人の顔を覚えるのが得意でして、記憶力には自信があるんですけどねぇ~……何故でしょう? 君の顔が覚えられない!」

 忘れてしまう、という感覚とはちょっと違う、思い出せない、というか、覚えられない、というほうが正しい。

「それで今、ふと思い出したんですけどね~……数日前、僕は友人ととある喫茶店に行きまして、そこで対応していただいた店員さんが確かにいたはずなんですけど……不思議なことに、あんまり覚えていないんですよね!」

 それ以外のこと、喫茶店のメニューの数とか、観葉植物の種類とか、内装の色とか、テーブル椅子の数とか、その時いた客の数とか、些細などうでもいいことは鮮明に思い出せるのに。

 もしかしてその店員は君でしたか、と青寿はあえて尋ねてみたが、怪盗は、さてどうでしょう、と言わんばかりに小首をかしげて見せた。


「……君は一体、何者なんだい?」


 静かな青寿の問いかけに、怪盗は笑みを含んだ声音で答える。


「ただの怪盗ですよ」


 今度こそさよならです、と恭しくお辞儀をして見せた怪盗は、躊躇なく優雅に屋根の上から身を躍らせると青寿の前から完全に姿を消した。

 青寿はそれを、怪盗というのはみんなああいう気障ったらしい感じなんですかね、と内心で後日同業者の朝日向に聞いてみようと思いながら見送った。

 それから、さてと深雪兄弟と合流でもしますか、と呟いた青寿は慎重に屋根から室内へと降りて行った。



***



【終幕:They achieve a reunion.】


 時は流れ、元居た場所から流浪の旅に出ていた彼の前に、真っ白な怪盗は現れた。

 緑のリボンがまかれた白いシルクハットに、白いマント、金色の髪とエメラルドグリーンの瞳。


「……本当に来てくれるんだね」

「約束しましたから」


 正直、元の場所から離れることになった時、二度と会えないと思っていた。

 それでも、あの時少年だった怪盗が、彼の前に再び現れてくれた。

 約束を守るために。

「あの時から、ずっと、君を待っていたよ……小さな怪盗さん」

「遅くなってしまい、大変申し訳ありません」

 背が伸びて、大人びた表情になった怪盗が、彼に恭しく頭を垂れる。

「大丈夫だよ。待つのには慣れているからね」

 確かに少年が成長するほどの時間は経過しているようだが、今まで待っていた時間に比べれば、はるかに短い。


「約束通り、お迎えに上がりました。美術師、クレアトゥール=デミアルジュ殿」


 どうか私に盗まれてください、といたずらっぽく告げながら差し出された手を、彼は迷うことなく取った。



<〝クレアーレの指輪″確かに頂きました。 怪盗JIN>




***Fin***

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FALSE NAME 宮下ユウヤ @santa-yuya

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