第3幕:黒影の結晶
【幕間:old gentleman】
「――こんなところにおったのか」
階下からゆっくりと上がってきたのは、杖を手にした老紳士だった。
老紳士に気が付いた少年がパッとはじめるような笑顔を浮かべる。
「あ、じいちゃん! もういいの?」
「うむ。問題ない」
穏やかな笑みを浮かべた老紳士は、どうやら少年を迎えに来たようだった。
そのまま去ってしまうのかなと、彼が寂しげな眼差しを少年に向けると、少年が彼の方を振り仰いだ。
「あのね、じいちゃん。この人がね、おかしなことを言うんだよ」
「うん? どの人だい?」
そう優しく声をかけて、ゆっくりと膝をついて少年と目線を合わせた老紳士は、少年が顔を向けた彼の方へ視線を向ける。
しかし、残念ながら老紳士と彼の視線が合うことはなく、老紳士の視線は彼を素通りしてその背後の展示ケースの中へ注がれていた。
少年が透えるのなら、もしかして、と期待してしまった彼は少しだけ落ち込んだ。
これで、少年も彼が他の人に透えない存在なのだと気が付いてしまうだろう。
「少年、私は――」
彼がそう思った時、老紳士が少年に穏やかな声をかけた。
「う~む、最近どうも老眼がひどくてなぁ……わしにもわかるように詳しく説明してくれるかい?」
いや、彼の姿が透えないのは決して老眼のせいなんかではないのだが。
「えぇ~仕方がないなぁ。あのね……」
少年はそういう老紳士の言動に慣れているのか、丁寧に説明を始める。
そこに、こういう人がいて、さっきまでこういう話をしてたんだけどね、と彼について語る少年の言葉に真剣に耳を傾ける老紳士。
そんな二人の様子を見て、彼は驚いて目を見開いた。
***【第3幕】***
<――今宵21時、“黒影の結晶”を頂きに上がります。 怪盗――>
***
北都玄司は、読んでいた新聞をぐしゃりと握りつぶした。
「……とうとう、この街にも現れやがるのか」
新聞の一面に載っていたのは、怪盗からの予告状の写真だった。
“正体不明、神出鬼没の怪盗”
どこのテレビ番組も今日は朝からその話題で持ちきりであった。
「――北都警部! 予告状、鑑識から借りてきました!」
駆け寄ってきた若い男が、透明な袋に密封されている白いカードを北都のデスクの上に置いた。
それは今朝届いた、怪盗からの予告状の現物であった。
「何か出たか?」
「いえ、指紋も何も。人物を特定できる痕跡は無しです」
部下からの報告に、予想通りの結果ではあるが、北都は苦々しい表情になる。
唯一怪盗と対峙できる者と世間から思われている警察官であるが、残念ながらその警察官であっても、はっきりと怪盗の人相を説明できる者は存在しない。
実際に当日警備にあたり、直接対峙した者であっても、不思議なことに、誰一人として怪盗の姿を鮮明に思い出せる者がいないのである。
ただ、間近で対峙したことがある者が共通して証言する事柄もある。
印象に残る鮮やかな色が、何かあった気がするのに思い出せない。
目の前にいた時は確かに覚えていたのに、とそろえて同じようなことを口にするのだ。
まぁ要するに、確実に証言できるのは、白いマント、白のシルクハット、それだけだ。
警察組織としては、本来なら人相書きを描き手配書を各街へ配布したいところなのだが、それができないのが現状である。
「この予告状が、偽物である可能性は?」
「ほぼ99%、本物で間違いないそうです」
以前、どこかの街で偽の予告状が出回ったという話から、そう聞いてみたのだが、鑑識は本物と判断したようだ。
とにもかくにも時間がない、今夜までに怪盗を捕らえる作戦を組み立てなければならない。
急いで人員を集めろ、と若い部下に指示を出し、自分も行動を始めようと北都が席を立った時、別の部下がやってきた。
「北都警部、お客さんです」
こんな時に誰だ、と一瞬眉間にしわを寄せた北都だが、そういえば今朝、怪盗専任捜査官が派遣されて来るとの連絡があったのを思い出した。
本来所属する街を守る警察官であるが、何でもこの捜査官は街から街へと移動し、怪盗がらみの事件においてのみ、その捜査指揮権を特別に与えられているのだという。
一体どんなベテラン刑事が来るのかと身構えていたのだが。
部下と共に応接室へ足を踏み入れると、すでに中にいたらしい来客が立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
銀色の髪がサラリと揺れる。
「お初にお目にかかります、深雪奏人と申します。このたびは、件の怪盗の担当として本部より遣わされて参りました」
冷たく輝くアイスブルーの瞳が北都を見据えた。
身のこなしに隙はない、けれども想像していたのよりもかなり若い捜査官であったことに、北都は面喰った。
さっき予告状を持ってきた若い部下と同じくらいか、下手したらそれよりも若い。
こんな若造に、捜査指揮権が与えられているだと、と自然と北都の眉間にしわが寄る。
「今夜の怪盗の件を担当する、北都玄司だ。……どこの誰だか知らんが、余所者と組むつもりはない」
「ちょっと、北都警部!?」
案内してきた部下が、喧嘩腰の上司を咎めるような声を上げたが、北都は無視した。
「…………一応、こちらには、本部より正式に与えられた捜査指揮権がありますが」
淡々とした口調で告げた深雪が、懐から取り出した書面を北都に見せてきた。
どういう手を使ってそんなものをこんな若造が手に入れたのか知らないが、確かに書面は紛れもなく本物だ。
しかし、それはそれ、これはこれだ。
北都にも譲れないプライドがある。
「――ここは我々の街だ。余所者の指図は受けない。さっさと自分のシマへ帰んな」
威圧感を持って鋭い眼光で見下ろした北都を、深雪のアイスブルーの瞳が冷ややかに真っ向から見返してきた。
「――失礼ながら、今申し上げた事柄はただの建前です。そちらがそのようにおっしゃるのであれば……こちらとて、無理に共闘するつもりはありません」
「なっ……!」
深雪の言葉に驚愕したのは北都だけでなく、傍にいた部下も言葉をなくした。
「では、私は私で勝手にやらせて頂きますので、邪魔だけはしないで頂きたい。……要件はそれだけです」
抑揚のない声音で静かに言い放った深雪は、もう用はないとばかりにさっさと踵を返すと応接室を出て行こうとする。
だが扉の前で、ふと足を止めると肩越しに北都を振り返った。
「――……一つだけ。アレは、私の標的です。あなた方に渡すつもりは毛頭ありませんので。……では、失礼」
低く囁くようにそう告げた深雪が小さく会釈をして出ていき、扉は無慈悲に閉じられた。
来客の去った応接室で、北都は拳を握りしめる。
「ほ、北都警部……」
恐る恐る窺うように部下が声をかけると、北都の怒りが爆発した。
「――若造が偉そうな口をききやがって!!」
それからしばらく北都の機嫌は直らなかった。
***
柊木冬華は、廊下を颯爽と歩く銀髪の青年の姿を発見して、声を上げた。
「――あのー! そこの人ー! そこの銀髪のお兄さーん! 深雪奏人さんですよねー?」
呼びかけに気が付いていないのか無視しているだけなのか、青年は振り返らない。
あれ間違えてないよね、と冬華は一応頭の中で情報を確認する。
写真は見たし名前も確認したので、彼が今日派遣されてきたという怪盗専任捜査官で間違いないはずだ。
それに、署で見覚えのない顔だったので、人違いでもないし、うん、合っているはずだ。
「深雪刑事~? 深雪捜査官~! 深雪さ~ん! 深・雪・奏・人・さーん! おーい!」
耳が遠い人でない限り声は聞こえているはずだと思うのだが、足を止めない後ろ姿に冬華がしつこく声をかけ続けると、観念したのか深雪が振り向いた。
「―—……うるさい。何だ、おまえは」
綺麗な顔を不愉快そうに歪めて問いかけてきた深雪に、冬華はニコリと笑みを返した。
「広報担当の柊木冬華と言います! どうぞよろしく!」
深雪は冬華を興味なさそうに一瞥すると、さっさと踵を返した。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ~! 私、深雪さんに用があるんですよー!!」
「俺にはない」
まるでとりつくしまもない。
冬華は歩みを止めない深雪を追いかけながら、なんとか話を続けようと言葉を紡ぐ。
「私、今回の件の広報担当なんですよー! 怪盗に関する情報とかー…何かないですか?」
「……捜査資料を読め」
何てつれない反応、だが律儀にも返答してくれるだけマシだ。
これくらいでめげる冬華ではない。
勿論、捜査資料は読んでいたが、冬華が欲しいのはそういう書類的なつまらない情報ではない。
直接対峙したことがある人間からの生の声が欲しいのだ。
街から街へと怪盗を追い続けている彼なんかまさに取材対象だ。
「神出鬼没、大胆不敵。犯行前には必ず予告状を出す。性別、年齢、国籍も不明。具体的な容姿等の詳細も不明、唯一の特徴と言えるのが、白いマントに白いシルクハット……こんなの、まるで何もわかってないに等しい情報じゃないですか!」
捜査資料じゃダメなんだと喚いた冬華に、前を歩いていた深雪が小さく嘲笑った気がした。
「……それが、おまえの属している組織の限界ということだろう」
「いや、深雪さんも大きく言えば同じ組織の一員ですけど」
思わず突っ込んでから冬華は、いや、待て、今の言い方なんか引っかかるなと口をつぐむ。
まるで何か知っているかのような口ぶりだった気がする。
そりゃあ、今回初めて怪盗と対峙するこの街の警察よりも、ずっと怪盗を追い続けている深雪のほうが知っていることは多いだろうが、どうも今のはそういう感じではない。
もっと、こう、なんというか、うまく言葉にならない何かが、ともどかしさを覚えた冬華はハッと我に返る。
「――じゃなくて! 私は、深雪さんから話を聞きたくてですね……!!」
「……他を当たれ。俺はここの人間じゃない」
鬱陶しそうに手を振って追い払う仕草をする深雪に、冬華はからりと笑って見せる。
「何言ってんですか! だからこそですよ! 一途に怪盗を追い続ける流浪の捜査官来たる、とかいいと思いません?」
あ、これ見出しに使えるかな、と本気で考えた冬華に、深雪の低い声が答える。
「……流浪じゃないし、好きで追いかけているわけでもない」
「じゃあ、どうして怪盗専任捜査官なんてやってるんです?」
この問いかけは完全無視された。
何か気に障るようなことを言ってしまったか、もしかして今の質問はタブーだったか。
心なしか足早になった気がする深雪をしつこく追いかけながら、ところでどこ向かってるんだろう、と呟いたら、律儀にも「現場だ」と声が返ってきた。
現場、ということは、今夜予告状が出された美術館へ行くということか。
「ついて行っていいですか!?」
勢い込んで訊ねたら、ものすごく嫌そうな顔をされたが、諦めたのか断ってもどうせついてくるだろうとか思われたのか(実際そうするつもりであった)、「勝手にすればいい」と言われたので、冬華は喜んでそうすることにした。
***
「お呼びでしょうか、北都警部! 佐藤界、参りました!」
北都は、作戦会議室にやってきた、まだ幼さの残る顔立ちの新米刑事を見据えた。
何故自分が呼ばれたのかわかっていないであろう佐藤は、やや緊張した面持ちで部屋の入り口に佇む。
北都は、入ってこい、と佐藤を近くに呼び寄せた。
「―—おまえにだけ内密に……特別任務を与える」
「自分だけ、でありますか?」
声をひそめて告げた北都に、佐藤が戸惑い気味に息をのむ。
場数を踏んでいるベテラン刑事ならともかく、配属されたばかりの新米刑事である自分に特別任務なんてたいそうなものが務まるのか、と不安げに顔に書いてあった。
こいつ嘘ついたりするのむいてないな、と北都は内心で呟く。
だが、今回の任務は、そんな新米刑事のこいつにしかできないことだとも思っていた。
「そんな難しいことじゃない。おまえには、あの余所者を見張っといてもらいたい」
「余所者……といいますと、あの、深雪捜査官、のことですか……?」
ためらいがちに呟いた佐藤に、北都は頷く。
「他に誰がいる。……これはまだ不確定な噂だが、奴と怪盗がグルである可能性がある。万が一のことを考え、奴を野放しにはするな」
佐藤ならあの若造と年齢が近いだろうし、新米刑事ということもあってそれほど警戒されないだろうと北都は考えた。
また、こちらの手の者を傍につけておけば、向こうの情報は手に入るし、おまえの行動を見張っているぞという牽制にもなるはずだ。
「あの、ですが……怪盗専任の深雪捜査官は、今回の怪盗の事件の捜査指揮権をお持ちなんですよね?」
そんな疑うような真似していいのでしょうか、と言外に問う佐藤に、北都は鼻で笑う。
「だからどうした。そんなもん関係ない。いいか、これは命令だ」
強い口調で北都が命じると、佐藤は反射的にピシッと背筋を正して承諾した。
「はっ、了解しました!」
***
現場へ向かうという深雪に同行していた冬華は、何故か街中を歩き回っていた。
署を出て真っすぐに美術館を目指すと思い込んでいた冬華は、深雪がなかなか目的地へ向かおうとしないことに首をひねっていた。
「……あの、深雪さん。現場に行くんじゃなかったんですか……?」
何故街のパトロール紛いのことをしているのだろうかと、もしかしてこの人、実は方向音痴なんじゃないだろうかと疑い出していた冬華は、そろそろ我慢できずに彼の背中へ声をかけた。
冬華の声に、面倒くさそうにチラリと振り返った綺麗な顔が、あからさまに眉間にしわを寄せていた。
「……何を言っている。この街そのものが現場だろう」
一瞬言われた言葉の意味が分からなくて、冬華は足を止めてしまった。
この街、そのものが、現場?
直前まで、この人方向音痴なんじゃないだろうかと疑い出していた冬華は、その言葉を聞いて一瞬だけ、道に迷った言い訳かなと失礼なことを考えた。
「えっ、美術館に行くんじゃないんですか!?」
冬華を置いてさっさと歩いて行ってしまっていた深雪を、慌てて追いかけながら声を上げる。
「美術館にも行く。だが、その前に街を把握しておく必要がある」
深雪の補足を聞いても、冬華にはあまりピンとこなかった。
「そんなの地図見ればいいじゃないですか。後で印刷して渡しますよー?」
冬華の言葉に、深雪が小さくため息をついた。
「俺はこの街の人間じゃない。実際に歩いてみないと地図ではわからないことがある」
「あー現地調査ってやつですね~。なるほどなるほど、それで……」
あんな噂が流れているのも、彼のこういう捜査の仕方が影響しているのかもしれない。
深雪の後をついて歩きながら、思考を巡らせた冬華は思い切ってストレートに訊ねてみた。
「ところで、知ってますか~? 深雪さん、怪盗とグルなんじゃないかって噂が流れてるんですよ~?」
さて、どう答えてくるかな、と心の中で身構えた冬華に、深雪は変わらない淡々とした口調で返す。
「―—……何を根拠に?」
「怪盗が街に現れる時、必ず貴方もその街にいる。……それに、怪盗専任捜査官として派遣されておきながら、毎回怪盗を捕らえることができていない」
冬華の後半の言葉を聞いて、深雪が自嘲するように顔を歪めた。
「だから、俺が怪盗の仲間だと?」
振り返ったアイスブルーの瞳が、真っすぐに冬華に向けられた。
その冷たい瞳に怯むことなくしっかりと見返しながら、冬華は言葉を続ける。
「そうです。例えば、警察として潜り込んで、情報を盗む役割とか」
「くだらない」
「先に街に入って下見とか、現場での捜査かく乱担当とか」
冬華の言葉を聞いて、段々呆れて物も言えないみたいな顔になっていった深雪を前にしながらも、冬華はあえて最後まで問い詰めてみる。
「実際のところ、その辺どうなんです?」
こちらは真面目に訊いているというのに、ハァと深いため息をつかれた。
面倒だな、と思っているのが丸わかりの表情をした深雪は、少しの間考え込むように目を伏せた後、冬華に向き直る。
「―—……仮に、俺が、本当に怪盗の仲間だったとしたら……おまえはどうするんだ?」
「え?」
逆に問い返されて、冬華は目を瞬かせた。
「怪盗の仲間疑惑として俺を今ここで捕まえるか? 今すぐ端末で応援を呼ぶか? それとも署に帰って仲間に説明しに行くか?」
アイスブルーの瞳を冷たく光らせ、抑揚のない声音で嘯いた深雪に、冬華は一瞬気圧された。
もし、彼が本当に、怪盗の仲間だとしたら。
冬華だったらどうするか。
「えっと…………とりあえず…………質問攻めにしますね!」
胸の前でグッと拳を握り締めて言い放った冬華を前に、予想外の答えだったのか深雪がキョトンと目を丸くした。
「………………は?」
あ、その顔かわいい、と思わず内心で呟いてから、いやいや何考えてるんだ自分、と冬華は首を横に振った。
「あ、いや、えっとですね、逮捕して連行されちゃうと取り調べとか全然係わらせてもらえないですし、私としては、その前に個人的に訊きたいことを聞いておきたいかなーと……思ったり」
弁解みたいな感じになっているが、一応本音でもある。
犯行動機とか、なんか理由とか、実際どんな手口を使っているのかとか、怪盗とはどういう関係なのかとか、取り調べではなくて、興味本位で聞いてみたい。
「…………刑事としては、失格だな」
小さく唇の端を釣り上げながら、呟いた深雪はクルリと背中を向けると歩き出す。
あれ、ひどい言われようだけど声の響きがあんまり冷たくない、と冬華は目を瞬かせた。
「……って、結局のところ真相はどうなんですかー!?」
深雪を追いかける冬華の声が街中に響いた。
***
怪盗からの予告状が届いた美術館には、すでに北都警部の部下であろう警官たちがそれぞれ警備についていた。
同じ街の警官たちなのに、何故かこちらに向けられる視線が痛いのは気のせいだろうかと思いながら、冬華は前を歩く深雪に軽い口調で声をかける。
「ほらー深雪さんが街をうろうろしてた間に、対策本部隊に先を越されてますよー」
「……今から警備していたところで、ヤツを捕まえられるわけがない」
低い声音で呟いた深雪の言葉に、ピクリと近くにいた何人かの警官が反応を示した。
それに気が付いた冬華は、あぁそうかこの痛い視線は敵意だ、と悟った。
「深雪さーん……もしかしてもしかしなくても、なんかやらかしましたー?」
確か、怪盗の事件の捜査指揮権は深雪にあるはずなのに、すでに現場には警官がいて警備態勢についている。
署を出る前に深雪が指示していた可能性もなくはないが、深雪の言葉と今の状況を見る限りそうではないのだろう。
冬華の問いかけに、深雪がわずかに表情を歪めた。
「……先に断ってきたのは向こうだ。俺は、向こうの意見を尊重しただけだ」
「いやいや、怪盗を捕まえる以前に、こっちが仲間割れしてどーすんですか~……」
呆れてため息を吐いた冬華だが、深雪は特に気にした風もない。
警備についている警官たちを素通りして、怪盗の標的となっている美術品がある展示室へとさっさと足を向ける。
北都警部と鉢合わせしたらどうなるのかなこれ、と不安を覚えた冬華だったが、観察していた限りでは深雪が現場にいても、北都警部の部下たちは協力はしないが、邪魔をするつもりもないらしい。
お互いにお互いの存在をないかのように扱っているようだった。
それはそれでどうかと思わなくもないが、あからさまに立ち入り禁止などの捜査妨害をされるよりはいいだろう。
気まずく感じる沈黙の中、館内を進み、冬華と深雪は特別展示室唯一の出入り口に立ちはだかっていた警備の二人に身分証を呈示し、中へと足を踏み入れた。
広々とした特別展示室の中央に、一つだけポツンと設置されたガラスケース。
中に展示されているのは、キューブの形をした漆黒の水晶が揺れる耳飾りだ。
これが“黒影の結晶”――今回、怪盗が盗むと予告した品だ。
今日一日美術館は、捜査関係者以外の一般客は立ち入り禁止になっているため、見物客がいないのをいいことに、冬華はじっくりと美術品を鑑賞させてもらう。
「……さすが“宝石の魔術師ファルシュ=アルティスタ”の作品ですね。怪盗が狙うのもわかるなぁ~」
こんな小さいモノだったら、誰にでも盗めそうな気がしなくもない。
一応セキュリティとか防犯システムはしっかりしているはずだと思うが、はたして怪盗相手にそれがどこまで通用するか。
もしや、もうすでに警官に成りすまして館内に侵入していたりするのだろうか。
「……おまえはこれを、“美しい”と思うか?」
ふいに呟かれた静かな言葉に、冬華は振り返った。
振り返った先には、深雪が感情の読み取りにくい表情で佇んでいる。
「えっ? 思い、ますけど……」
どうしてそんなことを聞くのだろうかと冬華は首を傾げる。
「深雪さんは、そう思わないんですか?」
恐る恐る冬華が問いかけると、気のせいか深雪のアイスブルーの瞳が暗く沈んだように見える。
「……あぁ。俺はこれを、美しいとは評価できない」
「あー…男の人って、宝石とかこういうの見る目ないですよねー」
からかうように冬華が言うと、深雪はわずかに目を細めて何か物言いたげな表情をしたが、結局それ以上何も言わなかった。
捜査のためか、深雪が何か考え事をしながら展示室内を歩き始めたので、冬華は 邪魔をしないように再び美術品の観察をすることにした。
この“黒影の結晶”の製作者は、“宝石の魔術師”と称されたファルシュ=アルティスタという芸術家だ。
その二つ名のとおり、この芸術家は宝石の扱いに長けており、数々の代表作を残している。
“紅の星乙女”という紅い宝石のブローチや、“緋色の涙”という緋玉の指輪など、これまでにもいくつか怪盗に盗まれたものもある。
ふと、怪盗はファルシュ=アルティスタの作品のファンなのだろうか、と冬華は考える。
彼の作品をいくつか盗んでいるという事実だけで、そう決めつけるのは早計かもしれないが。
この“黒影の結晶”を観察する限り、じっと彼の作品を見ていると、なんだか人を惹きつけるような魅力があるように思えてくる。
先ほど深雪にこれを美しいと思うか、と問われたが、冬華は普通に綺麗な美術品だなと思うし、こんな小さな耳飾りなの細部に繊細で緻密な細工が施されているのも好みだ。
見ていて飽きないな、と思いながら眺めていると、スッと細くて長い綺麗な指先が美術品と冬華の視線を遮るように割って入った。
「……見入るのは良い、だが魅入られるのは危険だ」
思わず瞬きをして冬華は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
いつの間にか深雪が傍に戻ってきていた。
深雪は、ガラスケースの中の美術品を見据えながら、冬華に問いかける。
「これを見て、おまえは何を考えた」
「えっと、綺麗だなって……」
見ていて飽きないから、いつまででも見ていられそうな気がする、と冬華は答えた。
「……それだけなら、まだいい」
冬華の答えを聞いてそう呟いた深雪の声に、少しだけ安堵したような響きが混ざった。
「まだって、他に何が……?」
深雪は一体、何を懸念しているのだろうかと、冬華は戸惑う。
見入るのは良い、だが魅入られるのは危険、その言葉の意味も冬華には理解できない。
ふいと美術品から視線を外した深雪が、静かなアイスブルーの瞳で冬華を見据えると、抑揚のない声で淡々と言葉を紡ぎ出した。
「美術品を前にして、それを眺めながら、綺麗だな、美しいなと感じる……ここまでは“見入る”だ。だが、……この美しさをもっとよく見たい、この美しさが欲しい、この美しさを手に入れたい、この美しさを他の眼にさらしたくない、この美しさを奪い去りたい、この美しさを自分のモノだけにしてしまいたい、この美しさを永遠に閉じ込めてしまいたい……その美しさしか眼に入らなくなってしまった時には、もう“魅入られて”いるんだ」
無機質に無感情に紡がれた言葉を聞いていて、何故だかわからないが冬華は背筋がぞっとした。
この美しさを自分のモノだけにしてしまいたい、その感情は、愛憎か、独占欲か、強欲か、執着か、狂気か。
傾国の美姫、魔性の美、という言葉が冬華の脳裏に浮かんだ。
「あれ……? それなら、怪盗は……」
怪盗が美術品を盗むのは、美術品に魅入られているから?
冬華の言いたいことを察した深雪は、ゆっくりと首を横に振る。
「―—……いや、アイツは違う。アイツは、……“魅入られて”いるわけじゃない」
何故わかるんですか、と冬華が問いかけようとした時、わざとらしい咳払いが聞こえた。
冬華と深雪が振り向くと、特別展示室の入り口に北都警部とこの美術館の館長が佇んでいた。
入口で警備に身分証を見せ、中へ入ってきた二人に冬華と深雪は会釈をする。
「……これから美術品のチェックを館長と行いますが、同席しますか、深雪捜査官?」
館長の前だからか、一応畏まった口調で深雪に訊ねてきた北都警部に、深雪も丁寧な対応で返答する。
「いえ、そちらはおまかせいたします。私はこれから、館内を巡回させて頂きますので」
失礼いたします、と頭を下げクルリと踵を返した深雪は特別展示室を後にする。
しかしふと部屋の入り口の手前で、チラリと北都警部の方へ顔だけ向けると人差し指を立てて淡々と告げた。
「……北都警部。差し出がましいようですが、一つだけ。……館内警備に三十人は多すぎるかと。人員を減らして、配置するなら監視カメラの死角とその対面にすべきだと思います」
まぁ聞き流していただいてもかまいませんので、と呟いて今度こそ深雪は展示室から出て行った。
返答も、声を荒げることもなかった北都警部だが拳を強く握りしめ、ピクリと頬を引きつらせていたのを冬華は横目に見ながら、ペコリと会釈をして慌てて深雪の後を追いかけた。
***
「ちょっと、深雪さん! やっぱり、北都警部と協力したほうがいいんじゃないですか?」
怪盗を捕まえるという点は同じなんだから、仲間割れしている場合じゃないですって、と冬華が言いつのると、前を歩いていた深雪が足を止め振り返った。
「だって、そうじゃないですか! 大人なんですから、目的のためには、いくら北都警部が気に食わなくても一夜限りの共闘くらい我慢すべきですよ!!」
ここぞとばかりに冬華は力説したが、深雪は眉間にしわを寄せて小さくため息をついた。
「……それくらいわかっている」
「だったら……!」
「おそらく俺の思考は、だいたい怪盗に読まれている」
ふいに、淡々と告げられた言葉の意味を冬華は掴み損ねた。
「……え?」
「俺の指揮下で動いてもらうよりも、あえて別々に行動した方が、怪盗の意表をつける可能性が高くなる」
怪盗は深雪の思考回路を把握している、ということは北都警部には深雪の意図に反して好き勝手動いてもらった方が、もしかしたら怪盗をかく乱することができるかもしれない。
「えっ、それは、つまり、今の状況はある意味作戦通り、ということですか」
「……なんてな」
冬華は瞬きした。
え、いまなんて、おっしゃいましたか、え、深雪さんが、冗談とか、えっ嘘ですよね、あれ、つまり、今の真面目な話は、全部冗談……?
いやいや、そうとみせかけて本気、なんですか、やっぱ嘘なんですか、どっちですか…!?
冬華としては心の中の声を全部声に出したつもりだが、実際口から飛び出た言葉は、
「なっ、なななななな……!?」
という、意味をなさない音だった。
絶句しすぎて二の句が継げなくなった冬華を置いて、悪いがここから先は一人でやらせてもらう、と告げて深雪はさっさと曲がり角に消えて行ってしまった。
通路に一人残された冬華は、呆然としたまま深雪を見送って、しばらく動けなかった。
「な…………なんてなって……なんてな、って、何ですかぁぁぁっ――――――!!!!!」
今この状況で、というほど別に切羽詰まってる状況なんかではないけど、ないけど、ここで冗談とか、ねぇ、それもまさか、深雪さんが言い出すとか、真顔で冗談なんか全然通じなさそうな顔して、なんてなとか、もう少し冗談なら冗談っぽく言うとか、こう、なんかあるだろ、わかりにくいんだよ、結局、冗談なのか本当なのか、全然わからないし…
「……ひ、柊木さん?」
もはや荒れ狂う心の叫びに、内心で呟いているのか、実際に口に出してしまっているのか冬華自身わからなくなっていたところへ、控えめに呼びかけられた。
声がした方へ振り向くと、柱の陰からひょっこりと見知った顔がのぞいていた。
「……佐藤くん?」
新米刑事の佐藤界だ。
確か、北都警部の下で今夜の対策本部隊の一員として館内の警備についているはずだが。
「こんなところで何してるの? 警備?」
基本、警備中は二人組で行動することが原則であるはずだが、佐藤の他に誰もいないことから、冬華は首を傾げた。
「いえ、自分は、北都警部に内密に特別任務を命じられていまして」
真面目な顔して正直に答えた新米刑事に、冬華は思わず苦笑した。
「……佐藤くん。それ言ったら内密にならないから」
内密ならまず、任務を命じられていることすら他言するべきではない。
「えっ? ……あ。い、いえ、自分は、その、えっと、巡回を……」
冬華の指摘に、一瞬きょとんとした表情をした佐藤は、すぐに慌てて取り繕うように言葉を紡いだ。
しどろもどろな口調で、あからさまに動揺していますという様子の純粋で素直すぎる新米刑事に、気軽に訊ねた冬華の方が申し訳なくなってきた。
「わかった、ごめんね! 大丈夫、何も聞かないから、何も言わなくていいから!」
とりあえず落ち着こうかと、冬華は佐藤をなだめた。
内密な特別任務、その内容に興味がないわけではなかったが、彼が北都警部の部下であり、新米刑事であることと、一人で行動していたこと、そして今このタイミングで冬華の後ろから現れたことから、薄々察しはついた。
冬華は、今さっきまで“深雪”と共に行動していたのだ。
おそらく、佐藤は北都警部が深雪につけた監視なのだろう。
牽制のつもりか、こちらの情報を把握するためか、はたまた深雪が怪盗の仲間ではないかという噂を警戒しているのか。
北都警部は冬華からしたら、やたら年功序列を重んじる頭の固い昔の時代のおっさんだが、決して口先だけの無能ではないし、むしろ刑事としての勘は良い優秀な警部だ。
新米刑事の彼なら、万が一監視がバレたとしても、後学のために深雪の下に遣わしたとか、いろいろ言い訳できるだろう。
なによりこの人畜無害の純粋素直そうな佐藤だったら、深雪に警戒されにくいとかその辺も狙いだろう。
「……それで、私に何か用だった?」
何も聞かないとは言ったものの、声をかけてきたといいうことは、自分に何か用事でもあったのだろうかと思ったのだが。
冬華の言葉に、落ちこんでいた佐藤がハッとしたように顔を上げた。
「はい! そうです、柊木さんに、北都警部から伝言があるんです」
「……私に?」
まさか、広報担当の分際で捜査の邪魔をするなとか、深雪に関わるなとか、何か情報寄越せとかそういうのか、と思わず冬華は身構えた。
「はい、今夜の作戦に関わる、大事なことです」
佐藤が真剣な顔をして告げた言葉に、冬華は耳を傾けた。
***
それから時は過ぎ、日も暮れて、もうすぐ予告された時刻二十一時を迎える。
北都は特別展示室内で警備についていた。
室内にはほかに、深雪と美術館の館長がいるだけで、唯一の出入り口には部下を四人置いて封じている。
これから展示室内に入ろうとする者、展示室から出行こうとする者がいたら、一切通すなと指示している。
昼間、深雪と共にいた警備要員ではない広報担当の柊木には、邪魔になるので室内への立ち入りを禁じたら、しつこく騒いできたのでその宥め役に佐藤を任命しておいた。
他にも美術館内のいたるところ、外から出入りできそうな箇所には警備を配置している。
侵入する怪盗の姿を見かけたら、すぐに連絡するよう指示してもいる。
本来なら、館長にも外で待機していてもらいたかったのだが、自分の眼で見届けると言い張って聞かず、説得したのだが標的の美術品の所有者でもあるので強く反対できなくて、仕方なく室内に留まることを許可してしまった。
北都はもう何度目になるだろう、チラリと自分の腕時計に視線を落とした。
予告時刻まで、あと三分。
ガラスケースの中には、まだちゃんと美術品が鎮座している。
厳重な警備の中、果たして怪盗はどこから現れるのか。
このドーム状の特別展示室は、美術品に直射日光が当たらないように設計されているため、窓がない。
地下室も、隠し通路も、天井裏もない、出入り口も一つだけだ。
普通に考えれば、その入口から入ってきて真正面、部屋の中央に位置するこのガラスケースの傍までやってきて美術品を盗り、もと来た入口から出ていく、ということになる。
そんな真似をするヤツがいたら、すぐに警備がひっ捕らえるが。
ガラスケースのすぐ傍に立っているのは北都だけで、ここに近づく者がいたら、すぐに取っ捕まえてやる気でいる。
館長は出入り口付近に不安げな表情で佇み、深雪はというと室内奥の柱に寄りかかって目を閉じている。
あと一分。
耳に着けた無線からは、異常なしとの報告が相次ぐ。
北都は心の中でカウントダウンを始める。
後十秒……五秒……一秒……。
カチリ、と北都の脳内で時計の針が二十一時を刻んだ刹那。
ハッとしたように深雪が身動きしたのを北都が視界に捉えたのと同時に、ピィィィィィッ――――という甲高い音が室内に鳴り響いた。
「――ッ……なんだっ!?」
それはさながら、ロケット花火が打ち上がる際に鳴る音に似ていた。
何事かと、北都が素早く室内に目を走らせた直後、視界が暗転する。
いや、照明が落とされたのだ。
「……美術品は、無事ですかっ!?」
悲鳴のような館長の声が聞こえた。
動揺してざわつく部下たちの気配を感じて、北都は一喝する。
「うろたえるなっ! 持ち場から離れず、暗視ゴーグルを装着しろ!!」
照明を落としその暗がりに乗じて盗むという怪盗の手口は、捜査資料に記載してあった。
だから北都はその対策として、全員に暗視ゴーグルを持たせていたのだ。
暗闇の中から、深雪の声が響いた。
「――北都警部。ガラスケースに近づいた者はいますか?」
問われて暗視ゴーグルをつけた北都は、サッとガラスケースを見やる。
「誰も近づいてな――……にっ!? どういうことだ!?」
誰も近づいてきた者はいない。
だがしかし、ガラスケースの中から美術品が消えていた。
「ど、どうかしたんですか!?」
不安そうな館長の声が近づいてきたが、北都は返事ができなかった。
何故、何も入ってない?
混乱する北都をよそに、耳元に着けた無線から声が響いた。
<――こちらA班! か、怪盗らしき人影を発見!>
ついに怪盗が現れた。
いや違う、すでに美術品は盗られているのだから、今まさにここから逃げようとしているところか。
だが、怪盗はいつここに現れた? いつ美術品を盗んだ? あの音は何だったんだ? どうやってここから美術品を盗んだ?
様々な疑問が浮かんだが、今はそんなことを考えている場合ではない。
全ては怪盗を捕まえればわかることだ、と北都は頭の中を切り替える。
「……絶対逃がすなっ!!」
必ず捕まえろ、と指示を出した直後、再び無線から報告がくる。
<――こちらC班! 怪盗が現れました!>
「なっ……何だとっ!?」
北都は困惑した。
美術館の正面玄関にA班を配置しており、そこから時計回りにB、C、D班と四方を取り囲むように北都は警備班を配置していた。
先ほどA班から怪盗を見たとの報告があり、そのすぐ後にC班から怪盗を見たとの報告がきたが、これはおかしい。
A班とC班の警備場所は対極に位置する。
瞬間移動でもしなければ、数分で正面玄関から美術館裏に移動できるほどこの建物の敷地面積は小さくない。
どちらかがフェイクだ。
「とにかく追えっ! 怪盗を捕まえろっ!!」
無線に向かってそう叫び、北都は苛立たし気に舌打ちした。
照明はまだ復旧しない。
予備電源に切り替えるとの連絡は入っていたが、まだ少し時間がかかるのか。
いくら暗視ゴーグルをして暗闇でも視界を確保しているとはいえ、限界はある。
この特別展示室内に窓でもあれば、照明が落とされても月明かりで完全なる暗闇になることはなかっただろうに、と北都は内心で考える。
ないものねだりをしたところで仕方がないのだが、それよりも怪盗が予告した時刻を過ぎてから今何分経った?
怪盗はまだ館内にいるのか、もうとっくに逃げ出してしまったか。
状況が分からない北都は、表情には出さずとも内心で焦燥感を募らせる。
「か、怪盗が現れたんですか!? 美術品はっ!?」
ふいに焦ったような館長の声が近くから聞こえたので、北都は思わず目を見開いた。
館長には暗視ゴーグルを渡してはいなかったので、暗闇に慣れてきた目で、なんとか北都の傍までやってきたのだろう。
いつの間にか近くに来ていた館長に、どうなってるんですか、と腕を掴まれた北都は、一瞬言葉に詰まった。
暗視ゴーグルをつけた目で何度確認しても、ガラスケースの中に美術品はない。
いつのまにか現れた怪盗の手によって煙のように消え失せてしまった。
だがこの暗闇の中で館長はまだ、美術品がなくなっていることに気が付いてはいないようだった。
ならばと、北都はあえて館長に状況を説明するのを避けることにした。
余計な混乱を招きたくはないし、状況を説明して館長に問い詰められても困るし、正直今ここで館長の相手をしている時間も惜しい。
照明が復旧したら館長にバレてしまうだろうが、まだ盗られただけで、逃げられてはいないのだ、取り返せる。
警察の威信にかけて、必ず美術品を取り戻し、怪盗を捕まえてみせる。
「館長は、ここから動かないように! 何かあれば、そこにいる深雪捜査官に……」
言いかけて北都は、自分も現場へ合流しようとしていたその足をふと止めた。
出入り口で警備していた部下たちはすでに二手に分かれてA班とC班の警備地点へ合流に向かって行ったが、刑事の勘とでもいうべきか、何かが北都をその場に引き留めた。
北都は、深雪を振り返った。
暗闇の中で、深雪はやはり柱に寄りかかって目を閉じたままで、警備がざわついているにも関わらず、一度北都に声をかけたきり微動だにしていない。
落ち着いている、といえば聞こえはいいが、この状況でまったく行動を起こさない深雪を北都は不審に思った。
共闘はしないと言ったが、互いの行動の邪魔をしないように、深雪にも無線を渡しているから、部下から北都への報告は全て聞こえているはずだ。
怪盗が現れたにも関わらず、何故彼は動かない?
刹那、北都の脳裏をよぎったのは、深雪と怪盗がグルではないか、というあの噂話だ。
半信半疑で昼間は深雪の監視に新米刑事の佐藤をつけていたが、彼からの報告では特に怪しい動きはなかったとのことだった。
しかし、ふと北都は考えた。
もし今、北都がこの部屋から出て行っていたら、この特別展示室の状況はどうなっていたか、警備がいなくなり、館長と深雪だけが残されることになる。
そんな中、実はまだ、怪盗が美術品を手にしたままこの暗闇の中に潜んでいたとしたら、北都が出て行った直後に深雪と二人がかりで館長を拘束し、邪魔者のいなくなったこの部屋から楽々逃走、なんて可能性が考えられないだろうか。
さらに北都は、先ほど一つ気にかかったことを思い出した。
特別展示室の照明が落とされる直前に鳴り響いたあの謎の甲高い音、確か深雪はあの音が鳴るより一瞬早く反応してはいなかっただろうか。
それはつまり、深雪は音が鳴り響くことを事前に知っていたからだとは考えられないだろうか。
深雪奏人は怪盗の仲間である、もしかしてこの噂は、本当なのか。
不信感を募らせた北都が、深雪の方へ一歩足を踏み出しかけた時、閉じられていた深雪の瞳が開いた。
カチリと無機質な音が聞こえた直後、北都の方へ銃口が向けられる。
「――動くな」
鋭く放たれた冷たい声音が、北都の鼓膜を震わせた。
暗闇の中、深雪が鋭い眼光で北都を睨み据える。
いや、違う。
「動くなと言っている」
北都は、深雪の視線が自分を通り越して、その背後へと向けられていることに気が付いた。
北都のすぐ後ろには美術品が展示されていたガラスケースがある。
そして今、その近くにいると思われる人物は――館長だ。
北都は振り返る。
「……やはり、貴方を欺くのが一番難しいですね」
困ったような口調で呟く館長の声が、まったく別人の声に聞こえた。
北都が館長の方へ足を踏み出した刹那、落ちていた照明が復旧した。
よしこれで邪魔なゴーグルなしで捜査ができると北都が思った直後、突然視界が真っ黒に塗りつぶされ、館長の姿を見失う。
何が起こったのかすぐに理解できなかった北都の耳に、笑みを含んだ静かな声が届く。
「――“黒影の結晶”確かに頂きました」
真っ黒な視界の中、館長よりも大分若い声が恭しく告げると同時に、バサリと衣擦れの音が聞こえて、近くにあった人の気配が遠ざかる。
「待てっ……!」
暗視ゴーグルをむしり取りながら、半ば無意識に追いすがるように伸ばした北都の手が何かを掴む。
「逃がす、かっ……!」
「――ッ、北都警部!」
苦々しい声と共に舌打ちが聞こえ、意地でも放すまいと伸ばされていた北都の腕を、逆に掴む手があった。
「――悪く思わないでくださいね……!」
ゴーグルから解放された視界に映る状況を北都が認識すると同時に、視界がクルリと反転する。
北都が掴んでいたのは深雪の腕だったのだ。
展示室の床に無意識に覚悟していた衝撃もそれほどなく転がされ、真っ白な天井を見上げる形となった北都が、深雪に投げ飛ばされたのだと理解するのに少し時間がかかった。
「――美術館出入口を封鎖し、警備を固めてください。館外周辺に出没している怪盗はフェイクです。捕らえる必要はありません」
その間にも無線に向かって指示を飛ばす声がして、我に返った北都が身を起こした時には、深雪の姿は怪盗を追って特別展示室から遠ざかっていくところだった。
北都が脱ぎ捨てた暗視ゴーグルのレンズには、黒いインクのようなものがべっとりと付着していた。
おそらく館長――ではなくて、館長に扮していた怪盗に一瞬のうちにやられたのだろう、それで突然視界が真っ黒に染まったのか、と北都はようやく理解する。
目まぐるしいどころではない、瞬く間に起こった出来事を前に、北都の頭は許容範囲を超えて軽く混乱状態にあったが、それでも刑事としてのプライドが深雪の後を追うようにと北都の足を突き動かした。
***
特別展示室を出た北都は、無線で部下たちからの報告を聞きながら館内を駆け抜け、なんとか深雪の姿を見つけた。
北都からはもう怪盗の姿はどこにも見えなかったが、怪盗を追う深雪の足取りはまったく迷いがなかった。
展示室で、深雪が館内の封鎖を指示していたのを覚えていた北都は、てっきりここで怪盗を追い詰めるものだと思っていたのだが、深雪は館内の警備には目もくれず美術館の外へと出て行ってしまう。
怪盗はすでに美術館内から脱出してしまったのか、今一体どういう状況なのか何が起こっているのか、いやもう理屈はいいどうにでもなれ、と考えるのを放棄した北都は、数人の部下についてくるよう指示を飛ばしながら、深雪を追いかけ街中へと繰り出した。
数日前にこの街にやってきたばかりの深雪よりも、北都の方がよく知っている街のはずなのに、途中何度も深雪の姿を見失いかけながらも、北都は根気強く後を追い続けた。
深雪の頭の中にはこの街の詳細地図でも入っているのか、ただ闇雲に怪盗の姿を探して街中を走り回っているわけではないようで、まるでどこか目指す場所があるかのように、彼の足取りには迷う素振りがなかった。
やがて、目的地に到着したからか、ついに深雪が足を止めた。
そして確信を持った眼差しで上を――家々が連なった屋根の上を見据えると拳銃を構えた。
「止まれ」
深雪の静かな声音が、夜の街中に響く。
「……やれやれ、やはり貴方を巻くのが一番難しい」
観念したのか、溜息と共に呆れたような声が降ってきたかと思うと、月が見降ろす屋根の上、白いマントをなびかせながら両手を上げた怪盗がその姿を現した。
「……わかっているなら、大人しく捕まってくれ」
抑揚のない声音で告げた、深雪のアイスブルーの瞳が油断なく怪盗を見据える。
「それは御免です」
その時何故そうしたのか自分でもわからないが、怪盗が目と鼻の先に現れたというのに、北都は深雪に加勢するでもなく、とっさに建物の陰に身を隠していた。
怪盗専任捜査官、ふいに北都の脳裏に深雪の肩書がよぎった。
怪盗の変装を見抜いた観察眼、怪盗の動きにいち早く反応した俊敏さ、逃走した怪盗を追う迷いのない足取り、この街の警察の誰よりも怪盗のことを理解し、把握している者。
深雪は、怪盗の逃走ルートを推理し先回りして待ち伏せしたのだ、と気が付いた北都は戦慄した。
風に乗って二人の声が北都の耳に届く。
「盗んだ美術品を返してもらおう」
「それもお断りします。私と同じ、審美眼を持つ貴方にも分かるでしょう? これは“未完成品”です」
審美眼? 未完成品? と北都は内心で首を傾げた。
「だから、盗んでもいいと? 展示する価値のない代物だとでも言いたいのか?」
深雪の声が冷たい響きを持って怪盗に放たれる。
「どんな言葉を並べようと、貴様が“黒影の結晶”を盗んでいい理由にはならない」
沈黙が落ちた。
それでも二人の間に漂う緊迫した空気は変わらない。
固唾をのんで会話に耳を傾けていた北都の鼓膜に、ぽつりと愁いを帯びた静かな声音が届いた。
「…………これは、“そんな名前”じゃないよ」
一瞬、誰の声か北都はわからなかった。
深雪と怪盗以外に第三者が現れたのかと思ったが、そうではない。
ハッと息をのんだような吐息は深雪か、ならばこの声は。
「――……ねぇ、“奏人”」
慇懃無礼な丁寧語ではない、まるで親しい友人と話すかのようなくだけた口調と穏やかな声音で怪盗が言葉を紡ぎ始める。
「――“僕”と話をしないかい?」
「…………ッ、“おまえ”は、――」
深雪の声に感情が滲んだのを北都が感じ取った時。
「――北都警部っ!!」
「――深雪捜査官っ!」
追いついた部下たちの声が、怪盗と深雪の間にあった第三者が踏み込みにくい空間を壊した。
「あっ、あそこに怪盗がっ!!」
「と、捕らえろっ!!」
俄かに騒がしくなった一帯に、北都も建物の陰から飛び出して部下たちと合流し、屋根の上にいる怪盗を取り囲むように配置につく。
そこで北都は、屋根の上に月明かりを背負って静かに佇む怪盗の姿を見上げた。
風に煽られて、怪盗の白いマントと白のシルクハットから零れ落ちた金色の髪がさらりと揺れる。
逃げ道を警官たちに包囲されているにも関わらず、緑のリボンが巻かれたシルクハットを目深に下した怪盗の口元は、笑みの形を刻んでいた。
「――おやおや、夜分遅くまで、お勤めご苦労様です」
じりじりと包囲網を縮める警官たちを見渡した怪盗は、白手袋に包まれた手を胸の前に添えて恭しく一礼する。
そのよく通る声音に、焦りや動揺などはみじんも感じられなかった。
続々と追いついてきた警官たちを、苦々し気に横目に見た深雪の意識が怪盗からそれたのは一瞬。
しかしその一瞬の隙を逃さず、怪盗はさっと白いマントをひるがえした。
「それでは皆さん、ごきげんよう」
ポンッという軽い破裂音と同時に屋根の上に白い煙が立ち込め、怪盗の姿を覆い隠す。
その直前、煙幕の向こうで、シルクハットの下から覗いたエメラルドグリーンの瞳が、チラリと北都を一瞥したような気がした。
「――……逃げられましたね」
視線を落としながら淡々と呟いた深雪の言葉通り、警官たちが屋根の上に上りついた時には、もうすでに怪盗の姿はどこにもなかった。
***
後日になってわかったことだが、怪盗が変装していた間、本物の館長は自宅でぐっすり眠っていたという。
そして美術館の周囲で警官たちに目撃された怪盗らしき人影の正体は、柊木冬華と佐藤界だった。
深雪と北都が怪盗を街中へ追っていった後に、館内に残った警備たちに二人は捕獲されていたのだ。
夜が明けて、捜査をかく乱した二人を北都が厳しく説教した後、署に戻って事情聴取をした結果、頭の痛い事実が明らかになった。
何故こんな紛らわしい行動をしたのか、という問いに対して二人は“北都からの指示だった”と答えたのだ。
佐藤界は“北都から直接指示された”と言い、柊木冬華は“佐藤から北都の指示を聞いた”と言うのだ。
勿論北都はそんな指示など出していないし、さらに佐藤は当日、一度も柊木冬華とは接触していないと言う。
もう何が何だか、わからないことだらけだ。
「これも怪盗の仕業、ってことなのか……?」
たった一夜の間に起こった出来事は、正直なところ軽く北都の理解の範疇を超えていた。
夢かとさえ思いたくもなったが、美術品が盗まれたという事実が、昨夜の出来事が全て現実であったことだと証明している。
そして怪盗と深雪の関係性、二人が交わしていた会話の内容も気になったのだが、肝心の深雪本人はというと、次に怪盗が狙う標的がある街へ向かったとのことで、すでにこの街から姿を消していた。
昨日の今日で移動するなんて、怪盗専任捜査官って大変なんですね、とのんきに部下が呟いていたのを聞いた。
苛立たし気に舌打ちをした北都は、まったく筆の進まない報告書をぐしゃりと握りつぶした。
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