第2幕:白珠の小箱

【幕間:little boy】


「今のご時世、物の価値が分かる人なんてほんの一握りだよ」


 いつの間にか隣に少年が立っていた。

 彼と同じように、吹き抜けになっている階下の様子を手すりに寄りかかって見下ろしていた。

「ここにいる人たちは、全然見る眼がないね。みんな表面的な美しさしか見ていない、ただ周りに合わせて薄っぺらい言葉を並べているだけ」

 ガラスケースの周りに群がる人々を見据えて、少年はつまらなさそうに嘯いた。

「……アレのどこが美しいって? どこからどう見ても、作りかけ途中の代物じゃん」

 少年の言葉に、彼はとても驚いた。

 この少年は、あれが完成品ではないと、見抜いたのだ。

 未完の美、という言葉もあるが、僕はそれを否定したいわけじゃないんだ、と少年は呟く。

「でも、アレは違う。アレは、未完の美なんて言っていいものじゃない」

「少年、君は良い眼を持っているな。君がアレを美しくないと思うのは当然だ。何故ならアレは、未完成品なのだから」

「……さっき僕、そう言ったよね」

「だが、少年。アレが完成した姿を見れば、その評価は覆るだろうよ」

「無理だけどね。真実の姿は、創造主本人にしかわからない。その創造主も、はるか昔に亡くなってる」

 未完の作品の完成した姿なんて、後世の人々にはただ想像することしかできない、と少年が呟く。

 確かにその通りだ、と彼も思う。

 だが、あの未完成品に関してだけは違う。

「――いいや、私はアレを完成させられる」

 少年のエメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれた。

「……お兄さん、頭大丈夫? 人の作品を勝手に作り替えちゃダメなんだよ」

「人の作品ではない。アレは私の作品だ」

 少年は、うわぁどうしようこの人危ない人かも、という胡散臭そうなモノを見るような眼差しで彼を見上げた。





***【第2幕】***



<明後日夜9:00、『白珠の小箱』をいただきに参上します。 怪盗――>



***


 西星真白は、公園の噴水の淵に腰かけてため息をついた。

「編集長も……無茶苦茶言いやがる……」

 昨日この街の美術館に、怪盗から予告状が届いた。

 ついに、この街にも怪盗が、と色めき立つ街の様子に、今なら売れるとばかりに、怪盗特集を掲載しよう、と言い出したのが真白の上司である編集長だ。

 そして雑誌記者である真白に下された指令が、まだどこのメディアも入手に成功していない、怪盗の姿を写真に撮ってこい、という無謀極まりない内容だった。

 怪盗が現れると予告された日には、当然のことながら他のメディアの人々もいるわけで、どこも怪盗の激写を狙っていることは言うまでもない。

 そんな多数大勢のカメラや報道陣、記者などが押し寄せているにも関わらず、これまで、どこの街でも誰一人として怪盗の姿を捉えたものがいないというのだから、この指令がどれだけ困難極まりないモノかわかるだろう。

 しかし、下っ端である真白に逆らう権利などあるわけがなく、大人しく従うしかなかった。

 そして今、下調べにと予告状が届いたという件の美術館の秋森館長へ取材を申し込んだところ、きっぱり拒否されたところであった。

「……あーもうっ! 無理だっつの!!」

 急に叫んだ真白の声に驚いた鳩が一斉に飛び立った。

 ひそひそと遠巻きに公園にいる他の客の視線を感じて、我に返った真白は深くため息をついた。

「…………大手メディアの取材ならともかく、こんな小さな出版会社の取材なんて優先的に受けてくれるわけないよな……」

「…………おい」

「つーか、相手はモデルじゃないんだから、こんな一眼レフカメラで、性能のいい機器備えてるテレビ局ですら撮影できてないヤツの姿なんて撮れるわけないだろうが……」

「――おい」

「え?」

 地の底を這うような低い声音に、真白が顔を上げると、目の前に恐ろしく整った顔立ちの青年が仁王立ちして、アイスブルーの瞳で冷ややかに真白を見下ろしていた。

「……おまえか、公園で突然叫び出す、なんかぶつくさ言ってる危ないヤツは」

 え、誰それ、と目を瞬かせた真白は右を見て左を見て、もう一度右を見て、自分と青年以外に噴水のまわりに誰もいないことに気が付いて、サァッと青ざめた。

 恐る恐る上目に青年を見上げると、それはもう不機嫌極まりない絶対零度のアイスブルーの瞳と目が合った。

「この人だよ、お兄ちゃん」

「ずっと一人でぶつぶつ言ってるヤツ」

「変な人がいたら、大人を呼びなさいって」

「お母さんに言われたもん」

 青年の威圧感に圧倒されて気が付かなかったが、青年の後ろからひょっこりと二人の子どもが顔を出した。

 どうやらこの子どもたちによって近くにいた大人を呼ばれてしまったようだ、と真白は理解する。

 よくよく見れば、青年の腕には腕章があり、手にしているのは警察手帳で、大人どころか運悪く本物の警察官を呼ばれてしまったらしい。

 だが、この街の警察にしてはかなり若い、というか見ない顔だな、と真白は思った。

 全ての警察の顔を知っているわけではないが、街のパトロールをしている警察の顔くらいはだいたい把握している。

 まぁ、近日怪盗が現れるかもしれないのだから、美術館周辺警備増強のために、他の街から応援を呼んでいてもおかしくはないだろう。

「そうだよな、怪盗からの予告状が来てるんだからな、美術館近くで不審な人物を見かけたら警察呼ぶよな……って、うおぉぃいっ!? ちょっ、たんまっ! 待った、話を聞いて! 俺は不審者ではない!」

 思考を巡らせながら子どもたちの行動にうっかり納得しかけた真白は、自分がその不審者扱いされていることを思い出して慌てて否定する。

「言い訳は署で聞こう」

 もう行っていいぞとばかりに、子どもたちを追いやった青年は真白の言葉に聞く耳持たず、問答無用で首根っこを掴んで、引きずるように連行する。

「いやいやいやいや、違う、違うって、俺は、ただの雑誌記者でっ……!!」

「……記者?」

 低く呟いた青年が訝し気に眉をひそめ歩みを止めたのを幸いに、真白は素早く胸ポケットから名刺を取り出して、青年に差し出した。

 昨日の予告状の一件で、今日美術館には多くの記者、報道陣メディアが取材目的で押し寄せている。

 青年が美術館周辺警備の一人だというのなら、真白がそれらの取材陣の一員だと理解してくれるはずだ。

「…………取材目的か」

 チラリと名刺を一瞥した青年は、あっさりそれを捨てる。

「そ、そうです! ……断られましたけど」

 ひでぇなゴミ扱いか、と真白は慌てて名刺を拾う。

 そこで、ふと真白は閃いた。

 美術館には取材を断られた、だが待てよ、取材すべき対象は美術館側だけではないだろう。

 この青年は警察官だ、しかも美術館周辺警備をまかされているっぽい、つまりは怪盗対策として駆り出された警察、ということは何か怪盗に関する情報を持っているはずだ。

 真白は意を決して青年の前に歩み出た。

「あのっ、すみません! 良ければ取材させて……」

「断る」

 言い切る前に切り捨てられた。


***


 街人に迷惑をかけるなとアイスブルーの瞳に睨まれながら厳重注意され、連行されることなく解放された真白は、公園から再び美術館の前へと戻ってきていた。

 ここでまた警備中のあの青年に出会ったら気まずいなぁと思いつつ、戻ってきたものの取材拒否されたしどうしようかなと考える。

 せめて怪盗が盗むと予告した美術品だけでも見れないかなーと考えて、真白ははたと思いつく。

 記者という立場と仕事中だという意識から取材交渉しなければと頭の中がいっぱいになっていて、展示品を見るのにも美術館側と交渉しないといけないと思い込んでいた。

「そうだよ、普通に客として入館すればいいんじゃん」

 怪盗から狙われているにも関わらず美術館は、普通に開館しているし、特に展示中止にするでもなく、展示品も全て通常通り鑑賞できるとか。

 犯行予告前だからって危機感足りないんじゃないかと思わなくもないが、見れるのなら今のうちに見ておきたい。

 かくして真白は、一般客に混ざって少し高めの入館チケットを買い列に並び、それほど待たずして展示室へと足を踏み入れた。

 目的の美術品は、展示室の中央に堂々と飾られていた。

 “白珠の小箱”という名称の、白い陶磁器のような質感のジュエリーケース。

 蓋を開いた小箱の中には、大粒の真珠が鎮座している。

 これが、件の狙われている美術品だと知って鑑賞しているお客たちは、うんうんと物知り顔で頷いたりしていた。

 さすがに写真を撮るわけにはいかないので、真白はガラスケースの中を目に焼き付けるように観察する。

「……怪盗に狙われるってことは、それほど価値のあるすごい美術品なんだろうなー……俺には、ただのモノにしか見えないけどな」

 これのどこがいいのかさっぱりわからない、と首を傾げた真白のすぐ横で声が響いた。


「――貴方の眼は正しい」


 声の近さにギョッとして振り向くと、いつの間にか隣に立っていた緑のフレーム眼鏡をかけた女性が、真白と同じようにガラスケースを凝視していた。

「うわっ、びっくりした!? なんだ、君は!?」

「通りすがりの、ただの学生です」

 声を上げた真白に、小声で答えた女性が静かに、と唇に人差し指を当てて注意する。

 すみません、と周囲の人に頭を下げて、一旦展示品の前から離れた。

 真白の後を何故か女性もついてくる。

「……ねぇ、俺の眼が正しい、ってどういう意味?」

 なんとなく気になったので真白は、さっき言われた言葉の意味を聞いてみた。

 キョトンと眼鏡の奥の瞳を丸くした女性が、どう答えたものかと考え込むように小首を傾げた。

「……貴方は、ここの展示品をどう思いますか?」

 聞いたのはこっちなのに逆に問い返され、真白は顔をしかめた。

「どうって言われてもなぁ……俺、美術品とか詳しくないし。これ、そんなすごいもんなんだーぐらいにしか思わないなぁ」

 美術品についてあれこれ語れるような教養は残念ながらないので、真白は正直な感想を答えた。

 真白の言葉に頷いた女性は、緑のフレーム眼鏡を指先で押し上げならじっと真白を見据えてきた。

「……貴方は先ほど、あの展示品を、“怪盗に狙われるほど価値のある美術品”とおっしゃいましたよね」

「言ったけど……」

「ですがそのあと、“俺にはただのモノにしか見えない”ともおっしゃいましたね。私は、その言葉に対して、“貴方の眼は正しい”と言ったのです」

 真っすぐな眼差しを向けてくる女性の眼光の力強さに、真白はわずかに気圧されながら、頭の中で言われた言葉を反芻した。

「えっと……つまり、それは……どういうことだ?」

「アレは“怪盗に狙われるほど価値のある美術品”ではなく、“ただのモノ”だということです」

 美術館の人が聞いたら激怒しそうな事柄を妙にきっぱりと断言する女性に、真白は驚いて目を瞬かせる。

「君、美術品に詳しいの?」

「学生ですから」

 答えになっているような、いないような。

 つまり彼女は、美術大学にでも通っている学生で、普通の人よりは美術品を見る目が鍛えられている、といったところだろうか。

「ところで貴方は、見たところ……カメラマン、ではなさそうですね。記者さんとかですか?」

 訊ねられて真白は、思わず自分の首から下げた一眼レフカメラを見つめた。

 そうかカメラマンには見えないか、と何故かちょっとだけがっかりする。

 ついでに入館する時、カメラでの撮影は禁止ですよと館員に注意されたのを思い出した。

「どうして、そう思う?」

 カメラを持っているがカメラマンではないから、記者、という発想に至った彼女の思考に疑問を感じて、真白があえて肯定せずに問い返すと、女性はクスリといたずらっぽく笑った。

「だって、今日ここを訪れてる人たちって、だいたい取材目的のメディアの人々ばかりですよ」

 ほら、首から名札下げてる人とか、腕に腕章つけてる人たちばかりだし、と言われて振り返ってお客さんを眺めた真白は初めて気が付いた。

「それに、普通の一般人だったら、まず首からカメラを下げたまま撮影禁止の美術館には入らないでしょう。せめてカバンの中にしまうかと」

 万が一カメラがガラスケースにぶつかったりしてヒビを入れたりしたら大変ですからね、という彼女の言葉を聞いた真白は、それはやばいなとカメラをショルダーバッグにしまった。

「なるほど、君はよく見てるなぁ……まぁ、隠すことでもないけど。君の言う通り、俺は雑誌記者だよ」

 ただし売れない小規模会社のだけどな、と心の中で付け足す。

「貴方も、件の怪盗に関する取材目的でこの美術館に?」

「……美術館側には取材断られたけどね」

 ははは、と真白は乾いた笑いをこぼした。

「……なるほど。それで、せめて狙われている美術品だけでも見ておこう、的な考えでこちらに」

 図星を指されて言葉に詰まった真白に、女性はニコリと微笑むと、こんな提案をしてきた。

「もしお時間があるのでしたら、それ以外の展示品も見て回りませんか? せっかくですから、美術品に詳しい私が無料で解説してさしあげますよ?」


***


 かくして、女性にガイドされながら真白は美術館内を見て回った。

 なるほど美術品に詳しいと自分で言うだけのことはあり、女性の解説は丁寧で素人の真白にもわかりやすかった。

「はい、これ。案内してくれてありがとう」

 見学終わりに立ち寄った休憩スペースで、ガイドのお礼代わりにと、真白は自販機で買ってきたお茶を手渡す。

 ありがとうございます、とペコリと頭を下げ、缶を受け取った女性は、すぐには開けずに手の中でもてあそびながら、ふと真白に視線をやった。

「……一つ、気になっていることがあるのですが」

「何だい?」

 冷たいお茶でのどを潤しながら真白が訊ねると、女性が指先で眼鏡を押し上げながら問いかけてきた。

「最初に私が問いかけたこと、覚えていますか?」

 最初、っていつだ、と真白は慌てて記憶を探った。

 解説してもらいながら一緒に美術館を見て回ったりしたせいか、まるで以前から知り合いだったかのような錯覚に陥っていたが、彼女とは今日ここで出会ったばかりなのだ。

「……ここの展示品をどう思うか? だったっけ」

「そうです。それに対して貴方は、美術品に詳しくはないと言っておきながら、ここの展示品に対して、そんなすごいものなんだーくらいにしか思わない、とおっしゃいましたよね。そう思った理由は何ですか?」

 彼女の問いかけの意味が分からなくて、真白は首を傾げた。

「何って言われても……だって、ここは美術館だろ? てことは、なんかよくわからないけど、すごい価値のある美術品が展示されてるんじゃないのか?」

 君みたいな美術品を見る目がある人にとっては、ここは素晴らしい場所なんじゃないのか、と真白が告げると、女性は眼鏡の奥の瞳に鋭い眼光を宿してきっぱりと断言した。

「その前提が大間違いです」

 彼女の言葉を聞いた刹那、何故だか真白はガツンと頭を殴られたかのような衝撃を覚えた。

 なんだろう、頭の中で今、何かを閃きかけた。

 だが、あと一歩のところで浮かんでこない。

 もうひと押し、何かその鍵となるモノが彼女の言葉にある気がする。

 そう思った真白は、どういう意味かと記者の顔になって彼女に訊ね返す。

「美術館だから、価値のある美術品が展示されている、貴方のその前提が間違っていると言っているのです」

 またもや美術館の人が聞いたら激怒しそうな事柄をハッキリと言い切った女性に、真白は驚くしかない。

 しかし同時に、頭の中でバラバラだったパズルのピースが、やっと形になろうとしている感覚がする。

 前提が大間違い、ならば、前提から見直す必要がある、初歩中の初歩、与えられた情報の事実確認。

 思考の波に没頭しかけた真白に耳に、女性の静かな声が届く。

「……貴方は、“本物の美術品”を見たことがないでしょう?」

 心なしか寂しそうな眼差しで呟いた女性に、戸惑いつつも真白は正直に答える。

「そりゃあ……仕事でなけりゃ、こんなとこ来ないしなぁ。そもそもこの美術館だって、できたばかりだし……」

 できたばかり…、と呟いた女性が何か考え込むように黙り込んだ。

 この街は、良くも悪くものんきな街人が多い集まりというか、田舎町というほどでもないが、正直なところ芸術とはあまり縁がない。

 芸術に疎いと言ってもいいかもしれないが、そんな街に美術館なんてものができたものだから、最初の頃は面白がって芸術なんてよくわからないながらも足を運んだ人が多くいたとか。

 そこへ今回新しく舞い込んできた、怪盗出現のニュース。

 真白のように記者などが押しかけ、ターゲットの美術品を一目見ようという一般客も現れ、再び客足は増加している。

「……あ、れ?」

 思わず声が出た。

 どうしました、と小首をかしげる女性に返事をするのももどかしく、真白は今思いついたとんでもない考えを頭の中で確認する。

 そんなバカな、でも確認するにこしたことはないよな、ないならないで良いことだし、と口の中で一人呟き、真白は勢いよく顔を上げた。

「ごめん、俺、ちょっと用ができたから、そろそろ行くよ」

「あ、いえ、こちらこそお仕事中に長々とお引き留めしてしまい、申し訳ありませんでした」

 律儀に頭を下げた女性に、真白は慌てて首を横に振る。

「そんなことないよ! 勉強になったし、君のおかげで、ちょっと思いついたことがあってね」

 もしかしたら、もしかすると、これは大スクープになる予感がする、と真白は笑った。

「本当にありがとう! ……あっ、ごめん。なんか、今更だけど……君の名前、聞いてなかったな。俺は、西星真白」

 本当に今更すぎて恥ずかしくなったが、このまま名前も知らずに別れるには惜しい気がして、真白は自分の名刺を手渡した。

 名刺を受け取った女性は、眼鏡の奥の瞳を細めて静かに微笑んだ。

「私は、内藤華乃といいます」

「ありがとう、内藤さん! 君に会えてよかった!」

 また会えたら、と手を振って彼女と別れた真白は、そのまま美術館を後にした。

 怪盗が現れる日までに、確認しなければならないことがある。


***


 そして訪れた怪盗の犯行予告当日。

 閉館時間をとっくに過ぎた美術館内には、当然ながら人の姿はなく、また計画なのか不用心なのか、ターゲットである美術品の傍に警備すらない。

 昼間に詰めかけていたマスコミ報道陣は、怪盗の出現を今か今かと美術館外で待機しており、それを押しとどめるように美術館周りをぐるりと警備のために配置された警察が取り囲んでいた。

 外には大勢の人、対して中は無人――否、明かりの消えた館内を、懐中電灯を片手に歩く人影が一つ。

 ガラス窓から差し込む月明かりの下、影は怪盗のターゲットである美術品の傍まで来ると、懐中電灯を足元に置き、鍵を取り出しそっとガラスケースを取り除く。

 手袋をした手で、“白珠の小箱”をそっと持ち上げた刹那――パッと館内の明かりが一斉に点灯した。

「……その美術品を、どうするおつもりですか? ……秋森館長」

 努めて冷静な声を装いながら、柱の陰から、西星真白は姿を現した。

 彼の姿を見て、驚愕したのは名指しされた人影――いや、この美術館の館長である秋森が、声を荒げた。

「……なっ、き、君は誰だね!?」

「…………取材を断られた身ですが、まぁそんな相手の顔なんて、お忘れでしょうね。俺はただの記者の一人ですよ」

 名刺でも渡してやろうかと思ったが、これから自分がやろうとしていることを考えて、真白は自重した。

 案の定、真白がメディア関係の者だとわかると、秋森館長が血相を変えたように喚いた。

「記者だと!? 館内での取材は断ったはずだ! ただの記者が、誰の許可を経て忍び込んでいる!? 不法侵入だぞ!!」

 自分のことは棚に上げて不法侵入、ハッと真白は内心で笑う。

「許可は得ています。……それより、俺の質問に答えてください」

 その手にした美術品をどうするつもりですか、と真白は再度問いかけた。

 指摘された秋森館長は、慌てたように手を放すと、必死に動揺を抑えているかのように、歯切れの悪い弁明を始める。

「わ、私はただ、館内の見回りをしていてだな……こ、これは、その、あれだ、怪盗に盗まれたらいけないと思って、私の手元で保管しようと……」


「――怪盗なんて現れませんよ」


 秋森館長の言い訳を遮るように真白は言い切ってやった。

「それは貴方が、一番よく分かっているはずでしょう?」

「な、なんだって?」

 一瞬、ギョッとしたような表情をした秋森館長が真白に問い返す。

 真白は、何で俺こんな役回りしてんだろうなぁと内心でぼやきながらも、虚勢を張っておのれの役目を遂行する。

「今回、この美術館へ送られてきたという予告状は、偽物だったんですよ。……つまり結論から言わせて頂きますと、今回のこの怪盗騒ぎは、秋森館長、貴方の自作自演です」

「何なんだ、君はっ! 失礼だぞ! 何を証拠に、そんなでたらめをっ!」

「証拠ならありますから。これをご覧ください」

 真白は深呼吸すると、持ってきていたカバンから、次々に紙の資料を取り出した。

 広げられるテーブルも何もないので、一枚一枚手にして見せながら、順番に説明していく。

「この街の人々は、怪盗が現れるということに浮かれすぎて、こんな簡単な事実に気が付かなかった」

 新しいこと、すなわち今巷で世間を騒がせている怪盗の出現という、目の前の刺激に高揚しすぎて、その情報を鵜呑みにし、誰もが大切な事実確認を怠った。

 前提が大間違い、内藤に言われた言葉が脳裏をよぎる。

 今回の件に関していうならば、予告状が来たから怪盗が現れる、その情報事態が嘘だったのだ。

「これは、他の街に現れた怪盗の予告状が載った記事を取り寄せて集めたんです。わかりますか? 今回の予告状と決定的な違いがあることを」


<今宵21時、“緋色の涙”を頂きに上がります。 怪盗――>

<明後日夜9:00、『白珠の小箱』をいただきに参上します。 怪盗――>


 秋森館長が奥歯を噛みしめ、苦々しい表情になる。

 真白は、そんな館長の様子を注意深く伺いながらも、内心で呟く。

 そう、貴方は舐めていた、高をくくり、のんきなこの街の人々を侮っていた、誰も気が付くわけがないと、だから、こんな些細なミスを犯した。

「記事の写真などではわかりにくいかもしれませんが、本物の怪盗の予告状は、手書きなんですよ。しかし、ご覧ください。今回の予告状はどこからどうみても印刷したモノです。細かい文面の違いは、この際省略しますが……さらに決定的なのは、名前です」

「名前だと?」

 眉間にしわを寄せた秋森館長に、真白は頷いてみせる。

「怪盗は“ジン”という名前を名乗っています。ニュースでは発音だけですし、字幕や新聞や雑誌などの紙媒体でも、“ジン”とカタカナ表記されているのが多いので、間違うのも無理はありません。予告状の文字は流麗な筆記体ですし。……実際、俺も最初はお酒の名前だと思ってました」

 注意深く入念に調べることもなく、ただ“怪盗ジン”という名前だけを噂で覚えているだけだったとしたら、誰もが思い込む勘違い。

「でも違うんですよ……本物の怪盗の予告状は、筆記体でこう書かれています。j・i・nと。……しかし、こちらはどうでしょう? g・i・nです」

 お酒の名称だとしたらGINが正しい表記である。

 しかし、怪盗の名前はJINが正しいのだ。

「仮にも自分の名前を書き間違えるなんて真似、怪盗がしますかね?」

 黙り込む秋森館長を前に、真白はさらに追い打ちをかける。

「それに、秋森館長、どうして貴方は館内の警備を断ったんですか? 外だけの警備で、肝心の狙われている美術品の周囲には、まったく警備をつけなかったのも不思議です」

「…………そ、それは、万が一中で騒動にでもなって、他の美術品に傷でもついたらどうする! 警察が弁償してくれるのか? 外の警備が万全なら、中に入ってこられるわけがないのだから、中の警備など不要だろう!」

 それらしいことを言っているつもりだろうが、もはや何を言われても、今の真白には嘘にしか聞こえない。

「……まぁ、そういうことにしておきましょう」

 引きつった表情でまくしたてる秋森館長の言葉を真白はさらりと流した。

「証拠は、まだあります。今回の怪盗のターゲットである“白珠の小箱”の“本当の所在場所”についてですが……それはこちらになります。鑑定書もありますよ。ちゃんと所有者から確認しました。――つまりですね、ここにあるそれは、レプリカもしくは贋作ということになります。……そんなものを怪盗が狙うでしょうか?」

 展示品をレプリカもしくは贋作呼ばわりされた美術館長が、たまらず声を荒げた。

「でたらめだっ! 何もかも大嘘だっ! たかが記者の分際で私を陥れようというのか!?」

 ギリリと奥歯を噛みしめた秋森館長の顔が、怒りのあまりか真っ赤になった。

「嘘ではありません。ちゃんとした筋からの事実確認です。それに鑑定家を呼べば、その小箱が本物かどうかなんて、すぐにわかりますよ」

 真白はゆっくりと息を吐いた。

 言いたいことは言い切った。

 美術館で内藤と別れたあと、すぐに気になる事項の事実確認をし、これだけの情報を集めるのに予告日前日までかかった。

 この事実を知った真白は、すぐに警察へ話しにいき、例の公園で出会ったアイスブルーの瞳の青年を掴まえて、持参した資料をもとに確認した事実をすべて話した。

 探偵も何も必要ない、こんなのは推理でも何でもない、ただの事実確認だ。

 今回の件には隠された謎も巧妙な仕掛けも罠も何もない、ただ一時の熱に侵されて油断し、誰もが盲目になり生まれてしまった隙を悪人に利用されただけなのだ。

「……あ、言い忘れていましたが、これ、街中に生中継されてますから」

 あっけらかんと言い放った真白に、秋森館長は言葉を失った。

 ちなみに真白の言葉はハッタリである。

 事前に秋森館長が切っていたであろう、この場所を映す監視カメラはちゃんと作動しているし、真白がポケットに忍ばせている録音機で声の録音もしているので、すべてが嘘というわけではないが、街中に生中継はされていない。

 この事実が明るみに出るのは、早くて明朝のテレビだ。

 さてこの後の段取りはと、真白が頭の中で計画の流れを思い返していた時、ふいにカチリと聞きなれない音が響いた。

「……余計なことをぺらぺらと……大人しく騙されていればいいものを」

 真白の目の前に突き付けられていたのは、黒光りする鉄の塊――拳銃だった。

 懐に忍ばせていたのであろう拳銃を真白に向けた秋森館長は、皮肉な笑みを浮かべた。

「こうなるとは考えなかったのかね、若造よ」

 考えなかったわけないではないか、と即座に真白は心の内で突っ込んだ。

 初めはこんな真似するつもりもなかったし、素人の自分が探偵の真似事をするなんて嫌だと断ったのだ。

 それをアイスブルーの瞳の青年に、なんだかんだと言いくるめられ、あらゆる事態を想定してそれに対する対応をきっちり説明してもらった上で、絶対に身の安全を保障してくれることを条件に、真白は仕方なく引き受けたのだ。

 だが最後はやっぱりこうなるのか、と真白は内心冷や汗どころではない。

 大丈夫、自分には味方がいる、いざという時は助けてくれると言ってくれたし、まだ大丈夫のはずだ、と必死に言い聞かせる。

「……今ここで、発砲したら、外にいる警備の人たちがすぐに駆け付けてきますよ」

 さすがに声が震えてきた。

 自分の生死がかかった状況で冷静でいられる人間なんていないだろう。

 それでも真白は、本当なら泣きたいくらい怖いが、最後の勇気を振り絞ってこの場に立ち続ける。

「問題ない。これも怪盗のせいにしてしまえばいい。美術品を盗みに来た怪盗を止めようとした勇敢な青年は不幸にも返り討ちにあったと」

 勇敢どころか間抜けすぎるだろと突っ込む心の余裕はない。

 真白は、生唾を飲み込んでカラカラの唇で渇いた声を絞り出す。

「……勉強不足ですね。怪盗JINは、人殺しなんてしませんよ」

「いかなる場合でも、例外というものは存在するさ」

 そろそろ来てくれてもいいんじゃないですか、ねぇ、と真白は心の中で必死にアイスブルーの瞳の主に呼びかける。

 しかし、何故だろう応援がやってくる気配がないのは。

 計画では、この後すぐに警備の人たちがやってきて、秋森館長に事情聴取をすることになっていたはずなのだが。

 まだかまだかと、チラリと後ろへ視線をやりたくなるのをこらえる。

 監視カメラでこの状況は把握されているはずだ、なのに何故誰もやってこない?

 まさか秋森館長に先手を打たれたのか、無線の応答もないのは電波妨害でもされているのか、それとも警察内部に敵がいたとか、考え出すときりがなく、ついに手足が震えてきた。

「何を待っているのか知らないが、残念だったな」

 秋森館長の指が引き金にかかっていくのがスローモーションのように見える。

 弾丸って避けられるものかな、と一瞬現実逃避しかけた真白は、嘘だろ、と叫びたくなった。

 万事休す、どうしてこうなった?

 話が違うじゃないか、とアイスブルーの瞳の主を真白が恨みかけた刹那――館内の明かりが落ちた。

「なっ……!?」

 これには秋森館長だけでなく真白も驚いた。

 こんな作戦聞いていないが、今のうちに逃げられる、と震える足を叱咤して距離を取ろうとした真白の耳に、静かな声が響いた。


「やれやれ……姿を見せるつもりはなかったんですけどね」


 声の響いたあたりを見上げると、吹き抜けの二階の手すりの上に、窓から差し込む月明かりを背景に腰かける人影が一つ。

 緑のリボンが巻かれた白いシルクハットに、白いマント。


「――初めまして。この度はお呼びいただきまして、非常に迷惑しております」


 手すりの上に器用に立ち上がった人影は、階下にいる真白と秋森館長を見下ろすと、白いマントを翻して恭しく一礼して見せた。

 シルクハットからこぼれた金色の髪がさらりと揺れる。

「ま、さか……本物の、怪盗か……!?」

 驚愕する秋森館長を見下ろして、怪盗が目深にかぶったシルクハットの下で不敵に笑う。

「何を驚いているんです? 私を呼んだのは、貴方でしょう?」

「なっ、……ほ、本当に、これを盗みに来たというのか!?」

 秋森館長が言った直後、真白は急激に周囲の温度が下がったかのような感覚がして、ぞくりと背筋を震わせた。

 シルクハットの鍔を持ち上げた怪盗が、エメラルドグリーンの瞳で冷ややかに秋森館長を見下ろしている。


「――ご冗談を。この建物内に、私の眼にかなうモノなど存在しません」


 静かだがハッキリと告げる綺麗な声に滲む冷たい響きに、真白は息をのむ。

 次の瞬間、怪盗の姿がフッと掻き消えたかと思うと、真白のすぐ後ろで声がした。

「……さて、せっかくですから、彼の話に補足させて頂きましょう。しばし、探偵の真似事にお付き合いください」

 ハッとして振り向いた真白の目の前で、誰が操作したのかパッと点いたスポットライトに照らされて怪盗が優雅にクルリと回って見せた。

 それから鋭利な眼差しで真白と館長を見据えると、凛とした声音でキッパリと言い放つ。


「まず――ここにあるものは、全て贋作です」


「えっ、全て!?」

 驚いたのは真白だ。

 しかもレプリカではなく贋作、と怪盗は断言した。

 チラリと真白が視線をやると、秋森館長は顔面蒼白だ。

「貴方はここで贋作美術館を開きながら、さらに裏では贋作を美術品と偽り高額で売りつけたりもしていた」

 証拠はこちらに、とまるで手品師のように怪盗が翻したマントの裾から、バサバサと請求書やら取引現場の写真やらが床にばらまかれた。

 真白は、屈みこんで証拠品の一枚を手に取り確認する。

「こんな偽りだらけの美術館、見る者が見れば一発で気が付きます。しかしながら、ここの街の人々は少し芸術に疎かった。貴方の行為が露見し咎められることもなければ、ここの美術品が贋作であることに気が付く者もいなかった。……そこで貴方は、欲を出した。そう、さらなる客寄せに私の名前を使ったんです」

 声のトーンを落として呟いた怪盗が、眼前に翳した手の中から、次々と白いカードを生み出し床に零れ落としていく。

 それは偽物の予告状だった。

「あとは、そこの記者さんが語った通りです」

 偽の予告状を出し、メディアで美術館を宣伝し、増加した客から入館料得て、さらには、盗まれた品だと偽り方々で売りさばくだけでなく、警察にも不手際として賠償金等をふんだくるつもりだったのであろう、と怪盗は締めくくった。

 白手袋をはめた手を払って、床に紙や写真、カードをばらまくだけばらまいた怪盗は、シルクハットの鍔を下げて表情を隠すと、わずかに覗く口元に皮肉な笑みを浮かべながら小首をかしげる。

「――さて、私の名前を騙ったからには、それ相応の覚悟がおありと思ってよろしいんですよね……?」

 怪盗を照らしていたスポットライトが消え、一瞬怪盗の姿を見失う。

 明かりの消えた館内に、よく通る怪盗の声だけが響く。

「偽りだらけのこの展示館へ、私からささやかなプレゼントです」

 真白は二階へ上がる階段の手すりに、優雅に腰かける怪盗の姿を見つけた。

 怪盗は白手袋に包まれた指先を頭上に掲げるとパチンと指を鳴らす。

 静かな空間に音が響いた次の瞬間、全ての展示品に一斉にスポットライトの明かりがあたった。

「勉強不足の館長さんにもわかるように、私から懇切丁寧な解説文を贈らせていただきましょう」

 展示品のガラスケース一つ一つに、いつの間にか白いカードが貼り付けられていた。

 真白が一つに近づいてよく見ると、ご丁寧にどこがどう違くてこういう理由だからつまりこれは贋作である、といったような解説文が流麗な字で書き連ねられていた。

「こ、こんな、馬鹿な……ふざけるなあああああああああああああっ!!」

 怪盗の登場に呆然自失としていた秋森館長が、癇癪を起こしたように叫ぶと、手すりに腰かける怪盗へ銃口を向け引き金を引く。

 直後、ポンッと間の抜けた音がした。

「……へ?」

 本来弾丸が放たれるべきであろう銃口から、可愛らしい花束が咲き誇っていたのを見て真白は目を丸くした。

「――それが本物だったら、銃刀法違反で現行犯逮捕ですね」

 くるくると指先で拳銃を弄びながら呟いたのは怪盗だった。

 いつの間にすり替えていたのか、と真白は驚愕する。

「くそっ、くそおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」

 花の咲いた拳銃を投げ捨て、脱兎のごとく逃亡する秋森館長の背中へ怪盗が声をかける。

「何故館内に、警備の方々がいないのかお忘れですか?」

 怪盗に言われて思い出した真白も、秋森館長の背中へ叫んだ。

「外は警察が包囲している! あんたに逃げ場はない!」

 真白の言葉と同時に、タイミングよくパッと館内の明かりが灯ると、ようやく待機していた警官たちが一斉になだれ込んできた。

 遅いだろもうこっちは冷や汗ものだったんだぞ、と真白は内心で盛大に突っ込んでおく。

 この様子なら、秋森館長はすぐにお縄につくだろう。


「――それは、貴様も同じだ怪盗JIN」


 ふいに、冷たい声とともに、カシャンと聞きなれない音がして、真白は怪盗の方を見上げた。

 二階へ続く階段の踊り場には、両手を上げて手すりに腰かけた怪盗と、怪盗の手から館長の拳銃を取り上げ、その右手に手錠をかけたアイスブルーの瞳の青年の姿があった。

「おや、一般人を囮に使って高みの見物とは、いいご身分ですね」

 手錠をかけられたにも関わらず怪盗が動じる様子はなく、シルクハットの下から覗く口元は笑みの形に刻まれていた。

 その背に、青年は取り上げた銃を突きつける。

「黙れ。その一般人に館長の悪事を暴くように誘導したのは、貴様だろう」

 青年の言葉に、怪盗は答えることなくただ笑みを深くした。

 シルクハットの下から覗いた怪盗のエメラルドグリーンの瞳が、チラリと真白を見据えた。

「素晴らしい捜査報告でしたよ、若き雑誌記者さん」

「え、あ、どうも……」

 まさかここで自分にお声がかかるとは、と真白はしどろもどろな返事をする。

「まぁ、少々詰めが甘いようですがね…………貴方も」

 最後は後ろにいる青年へ向けた言葉だったようで、え? と真白が目を見張る中、流れるようなしぐさでクルリと青年を振り返った怪盗が、青年の眼前に手錠のかけられていない左手の拳を突き出す。

 反射的にのけぞった青年の目の前で寸止めした拳をパッと開いて見せ、一瞬だけ視界を奪う。

 その白い手のひらには当然何もなく、表情を歪めた青年が手にした拳銃を怪盗へ向け引き金を引く。

 刹那、怪盗のエメラルドグリーンの瞳と青年のアイスブルーの瞳が交錯した、ように真白には見えた。

 直後、張りつめた空気を緩めるように、ポンッとまた、あの間の抜けた音が響いた。

 本来弾丸が放たれるべき銃口から発射されたのは、いくつも連なった旗と細かな紙吹雪だ。

 怪盗が手にしていた拳銃も玩具だったのだ。


「それでは、ごきげんよう」


 忌々し気に玩具を投げ捨てた青年の目の前で、両手を広げた怪盗がそのまま後ろへ倒れこむように階下へ身を投げた。

 ハッとして青年が手にした手錠の先を見ると、輪っかはいつの間にかもぬけの殻だった。

 真白は階下へ落ちてきた怪盗を目で追おうとしたが、ふわりと広がった白いマントに一斉に下で待ち構えていた警官たちが飛びかかった。

 そこへ、外で待機していたはずのマスコミ報道陣たちがいっせいに中に押しかけてきた。

「今、匿名で入った情報は本当ですか!?」

「怪盗は、現れなかったんですか!?」

「今回の件は、秋森館長の自作自演だったって本当なんですか!?」

 まるで狙ったようなタイミングで、俄かに階下が騒がしくなってきたことに真白は気が付いた。

「おい、誰だ! マスコミを中に入れたのはっ!?」

「怪盗はどこ行った!?」

「マントだけです! 中身がいません!」

 慌ただしい足音と怒声、報道陣のカメラのフラッシュとシャッター音、報道陣と警官とでごった返す階下に、真白は慌てて壁際へ避難する。

 ふと踊り場を見上げると、すでにそこに青年の姿はなかった。

 この人混みに紛れられたら、怪盗を見つけるのは難しいだろうな、とぼんやり考えていた真白は、ふいに肩を叩かれてビクリと飛び上がった。

「――これは、君のカバンかい?」

 問われて目を向けると、警官の一人が真白のカバンを手にしていた。

 目まぐるしい展開に忘れかけていたが、大事な商売道具が入ったカバンだ。

 床にばらまかれたままの資料類は後で回収してもらうことにして、とりあえずカバンが雑踏に紛れていなくて助かった、と安堵する。

「あ、そうです。ありがとうございます」

 礼を言って受け取ると、カバンを届けてくれた警官はすぐに踵を返して去って行った。

 真白もそれに倣い、混雑するこの場から逃げるようにそそくさと離れることにした。

 そういえば、あのアイスブルーの瞳の青年の名前を聞きそびれていたな、と今更ながらに気が付く真白であった。


***


 美術館の外に出ても、中には入らず外で待機し続けている報道陣組と怪盗の姿を一目見ようと集まっていた野次馬で大変混雑していることに変わりはなかった。

 しょうがないと呟いた真白は、近くの噴水のある公園まで移動した。

 公園にもマスコミらしき人や野次馬がいたが、美術館周辺ほど混み合ってはいなかったので、真白は一息つくために空いていたベンチに腰を下ろした。

 そうだカバンの中身、と一応中身が無事か確認しようと、開いたカバンの中を見て――真白は絶句した。

 おかしい。

 中には、真白が集めた証拠資料だけでなく、まったく見覚えのない、いや待て。

 そうだこれは、怪盗が提示した証拠資料と写真だと真白は気が付く。

 床にばらまかれていたはずの資料が、綺麗にそろって入っていたのだ。

「いつの間に……」

 驚きすぎてそろそろ思考回路がついてこない。

 他に何かないかとカバンを漁っていた真白は、前ポケットに入れられていた一枚の白いカードを発見した。


<貴方が暴いた真実を書く際の材料としてお使いください。 怪盗――>


 紛れもない怪盗からのメッセージには、流麗な手書きでそう書いてあった。

 ははは、と笑いがこみ上げてきた。

 もう一周回って、いろいろなことが笑えてくる。

 さてと、言われたからには、やらなくては、と真白はカバンを肩に下げ夜空を仰ぐ。

 朝まで時間がないぞ、と気合を入れた真白はまず報告のため自社へと連絡を入れた。



 翌朝、一番にどこよりも早く売りに出された真白の記事が載った号外が、大いに売れたのは言うまでもない。

 また、真白が所持していた録音テープを再生したところ、おかしなことに真白と館長の声しか入っていなかったという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る