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宮下ユウヤ
第1幕:紅の星乙女
【序幕:créateur】
「――なんて、屈辱だっ! どうして、どうして誰も気づかないんだっ!」
ガラスケースの中で、鑑賞の目にさらされ鎮座する一つの美術品。
恍惚の表情、眼差し、感嘆の溜息、騒めきの許されない静寂の空間においてなお、小さく交わされるのは称賛の声。
彼には、それが耐えられない。
「それのどこが美術品だ……! どこからどう見ても、できそこないの未完成品ではないかっ!!」
彼にとって、未完の作品を完成品として人々の目にさらされることは、屈辱以外の何ものでもなかった。
だが悲しいかな、彼の音なき叫び声は、その場の誰にも届かない。
否――ただ一人、
***【第1幕】***
<――今宵21時、“紅の星乙女”を頂きに上がります。 怪盗――>
***
南城朱里は、課題のために友人の夏美と共にこの街唯一の美術館を訪れていた。
「うわぁー……やっぱ混んでるね」
人混みにうんざりとした表情を浮かべる夏美に、朱里は苦笑する。
「仕方ないよ。新しい美術品がお披露目されたばかりだし」
先日公開されたばかりのその美術品を見に、美術館には連日多くの人々が訪れている。
かくいう朱里たちも、今日はそれを目当てに足を運んだわけなのだが。
入場券は事前に入手していたものの、中に入るまでに長蛇の列に並び、のろのろとしか進まない列に文句を言う夏美に苦笑しながら、ようやく展示室へ足を踏み入れる。
中に入ったら各々のペースで鑑賞しようと決めていたので、朱里は夏美と一旦別れた。
件の新しい美術品の展示は、展示コーナーの中間あたりで公開されているはずだ。
そこにたどり着くまで、朱里はじっくりと美術品の鑑賞をすることにした。
***
お披露目された新しい美術品は、ブローチだと聞いている。
展示室の中央に設置された例の美術品のガラスケースの周りには、やはりというべきか、人だかりができていた。
背伸びして後方から見るだけでもよかったが、せっかくなので間近で見ようと、朱里は人の流れに身をゆだねつつ、ゆっくりとガラスケースの前へ近づいていく。
偶然にもそこで入り口で別れた夏美と再会したので、ガラスケースの前に二人身を寄せて並び鑑賞する。
ガラスケースの中には、金の台座に紅い宝石が鎮座した手のひらに収まるサイズのブローチが展示されていた。
「…………さすが、“宝石の魔術師”これもまた傑作だね」
右隣に並んだ夏美が小声で呻いた。
うっとりとした表情で眺める夏美を横目に、朱里は同意しようとして、う~んと小さく首を傾げてしまった。
「……そうかな?」
傑作、と言われれば確かにそうかもしれないし、美しいか、と問われれば美しい造形品だと言えるだろう。
しかしだ、朱里はこのブローチにどこか違和感を覚えていた。
どこが、と問われれば具体的に述べることはできないのだが、なんか変だな、という直感みたいな気持ちが朱里の心中にあった。
「…………私には、なんだか作りかけのように、見えるんだけど……」
半ば独り言のような呟きに、まさか返答があるとは思わなかった。
「――君は、良い審美眼を持っているね」
ふいに耳元で囁かれた綺麗な声に、朱里はビクリと肩を跳ね上げる。
さらりとした金色の髪が朱里の頬に触れ、視界の左端にうつったエメラルドグリーンの瞳と目が合った。
ハッと息をのんだ朱里は勢いよく振り向く。
「……え?」
ところが、朱里の真後ろには誰もいなかった。
直前までそこにいたはずの、確かに視界の端にとらえたはずの人物は、どこにも存在しなかった。
辺りを見渡しても、それらしき人影はまったく見当たらない。
見る影もなく一瞬で消え失せてしまった。
後ろで鑑賞しているお客たちが、急に振り返った朱里を不審そうに見やっていた。
「そんなわけないじゃん。作りかけって、朱里何言って……どうかした?」
隣にいた夏美も、辺りを見回す朱里を見て不思議そうな顔をした。
「今、誰かに……」
夏美に言いかけて、朱里は口を閉ざした。
誰かに話しかけられた、はずなのに、振り返ったら誰もいなかった、なんて言えるわけがない。
幻聴? と内心で首を傾げる朱里だが、それにしてはいやにハッキリと、鮮やかな金色とエメラルドグリーンの色彩が瞼の裏に焼き付いていた。
一瞬とはいえ、確かに目が合った、はずだ。
「朱里? 大丈夫? 人混みに酔った?」
心配そうな夏美の声音に、朱里は慌てて首を振った。
「ううん、平気。そろそろ行こうか」
展示品の前であまり長く立ち止まっていると他のお客に迷惑だ。
***
その夜、朱里はニュースで昼間に行った美術館が報道されているのを見ていた。
<――現場からお送りいたします。今朝、こちらの美術館に、怪盗ジンから予告状が届いていたそうです。ついに、この街にも怪盗がやってきたのか>
そんな犯行声明がありながら、普通に開館して大丈夫だったのか、と朱里は他人事のように思った。
<予告状には「今宵21時、“紅の星乙女”を頂きに上がります」と記載されていたそうです。現在、我々は中に入ることはできませんが、美術館の入口の様子からでもわかるように、現場は厳重な警備が敷かれております>
カメラが美術館の周辺を映し出す。
美術館の中へ入る道を全て封鎖するかのように、ずらりと並んだ警官たちが建物を取り囲んでいた。
<果たして今晩、予告通り怪盗は現れるのでしょうか>
紅の星乙女は、昼間朱里が友人と見てきたあのお披露目されたばかりの新しい美術品だ。
泥棒に狙われるような美術品だったというのに、自分ときたら作り物みたいだなんて印象を抱くとは…私の見る目もまだまだだなと朱里は苦笑する。
テーブルの上の端末が震えたので確認すると、夏美から「今から現場に行かないか」とメッセージが届いていた。
興味がないわけではないが、わざわざ現場まで見に行くほどでもない。
きっと翌日の新聞やメディアは、今夜の話題で持ちきりだろう。
やめとく、と返事をして、朱里はニュースをBGM代わりにしながら、提出期限の迫る課題に取り組むことにした。
まさかその怪盗が、翌日朱里の下へやってくるとは、この時夢にも思っていなかった。
***
翌日、新聞の一面が昨夜の怪盗についてだったのは言うまでもない。
「……本当に盗まれたんだ」
郵便受けの前でそのまま立ち読みしながら朱里は思わず呟く。
<怪盗、予告通り美術品を奪い去る! 警察、手も足も出ず>
大きな見出しに、拡大された写真が載って入るが、肝心の怪盗の姿は小さすぎてよく見えない。
朝から報道されている番組でも、美術館に届いた予告状の映像や、何かを追いかけている様子の警官の姿は映っているが、怪盗の姿といえるもの映しているものはまったくなかった。
どこのメディアでも怪盗の姿を捉えることに失敗したのだろう。
これは現場に行ってもきっと何も見えなかったに違いない。
昨夜現場に行ったであろう夏美はさぞがっかりしただろうな、と思った朱里だったが、今朝確認した夏美からのメッセージで「イケメンポリス発見した! 絶対この街のポリスじゃないよ! 派遣されてきたのかな?」とあったのを思い出して、そうでもないかと苦笑した。
「あれ? ……手紙?」
部屋に戻ろうとして朱里は新聞の他に、郵便受けには真っ白い封筒が入っていることに気が付いた。
表面には綺麗な文字で朱里の名前が記されており、誰からだろうと、裏返してみると差出人名は流麗な筆記体で書かれていた。
「……J、I……N……? 外国人?」
朱里に外国人の知り合いはいない。
間違いだろうかと宛名を見直すが、そこに書かれているのはちゃんと朱里の名前だ。
もう一度差出人の名前を眺めて、いや待て、と朱里は引っ掛かりを覚えた。
最近どこかで見たスペルだと、必死に記憶を手繰り寄せ、手にした新聞を見てあっと思わず声を上げた。
昨夜現れた怪盗の名前も、確かJINだった。
新聞に載せられた予告状にその名が書いてあった。
これは偶然か、と首を傾げながらも、その場で開封するわけにもいかず、朱里は一旦部屋へ持ち帰った。
***
封筒の中から出てきたのは一枚のカードだった。
<――今宵21時、“真実の造形美”を貴女の瞳にお届け致します。貴女の部屋の窓辺にて、お待ちいただけると幸いです。怪盗JIN>
カードには、流れるような美しい字でそう書かれていた。
「……いたずら?」
朱里が眉を顰めるのも無理はない。
昨夜の怪盗騒ぎに便乗したいたずらか、はたまた模倣犯の犯行予告か、まさか昨夜の怪盗本人からなわけがない。
それに何より文章の意味が分からない。
“真実の造形美”をお届けする? 自分の部屋の窓辺で待て?
何かを届けに、怪盗が朱里の部屋のバルコニーにやってくるとでもいうのか。
そもそも朱里の部屋は5階である。
玄関ならともかく、窓から侵入できるわけがない。
警察に相談しようかと、朱里は一瞬考えたが、そこまでする必要はないだろうと思い直した。
きっと昨夜の騒ぎにあてられた誰かのいたずらだろうと。
警官だってこんなあからさまに怪しい物、いちいち真に受けてはいられないだろうし。
朱里は、封筒とカードを机の上に置き去りにして、それきり外出して戻ってくるまで、その存在をすっかり忘れてしまった。
***
夜になり帰宅した朱里は、机の上に放置されていた白い封筒を見て、そういえば今朝きてたなこんな手紙と思い出した。
ちらりと時計を見れば、もうすぐ予告された時刻になるところである。
カードの内容を信じたわけではないが、万が一のためにと一応自室へ戻り、不審者がきたらいつでも通報できるように端末を握りしめて、カーテンを全開にした窓の外へ視線を向けた。
月明かりが差し込むバルコニーには、今のところ異常はない。
朱里は息を止めて身構えた。
カチリと時計が21時の時を刻む。
何も起こらない。
物音ひとつしない。
右に左にと素早く視線を巡らせるが、バルコニーに隠れるスペースなど存在しない。
おそるおそる窓に近寄り、外に誰もいないことを確認して、念のため鍵を外してそっと顔をのぞかせる。
勿論誰もいない。
いつの間にか緊張して張りつめていた身体に、夜風が気持ちよかった。
やっぱりただのいたずらだった、と朱里がほっと安堵した刹那――夜空に浮かんだ綺麗な月を背景に、それは、音もなく降り立った。
「こんばんは、お嬢さん」
悲鳴を上げかけた朱里の唇に、静かに、とばかりにスッと白手袋に包まれた指先が差し出される。
悲鳴を飲み込んだ朱里は、腰を抜かしてへたり込んでしまった。
目深にかぶった白いシルクハットの鍔の下から、エメラルドグリーンの瞳がちらりと垣間見えた。
金色の髪が風に吹かれてさらりと揺れる。
朱里の脳裏に、昨日の昼間の一瞬がフラッシュバックする。
この綺麗な声を、朱里は聞いたことがある。
あれは、幻聴ではなかったのだ。
「驚かせてしまったようですね、申し訳ありません。突然の訪問の無礼、お許しください」
白いマントを風になびかせて、シルクハットを手に取った怪盗が恭しく一礼する。
逸る心臓をなだめて、朱里は呆然と声を絞り出す。
「貴方、は……?」
「通りすがりの、怪盗です」
唇に人差し指を添えてそう小さく囁いた怪盗は、静かに微笑んだ。
いたずらでは、なかった。
本当に、来た。
予告通りに、朱里の下に怪盗が現れた。
「本物の、怪盗、ジン? ……昨夜、ニュースでやってた」
朱里の問いに、しかし怪盗は肯定するでも否定するでもなく、さぁ、といたずらっぽく小首をかしげて微笑む。
なんでそんな人がここに。
端末で通報することさえ忘れて、これは夢かと瞬きを繰り返す朱里の心の声を読み取ったのか、怪盗がスッと小さな小箱を差し出した。
「お嬢さんに、どうしてもこれをお見せしたいと、言ってきかない者がおりまして……私はその代理として参上いたしました」
「私に、見せたいもの……?」
目を瞬かせて呟く朱里に、頷いて見せた怪盗が、白手袋に包まれた指で、濃紺の小箱の蓋をそっと開く。
「え、これは……“紅の星乙女”?」
小箱の中におさめられていたのは、昨夜盗まれたと報道されたばかりのブローチだった。
だが、朱里の記憶の中にあるそれとは形が違う。
「いいえ、その名称は偽りの名。本当の名称は“紅薔薇の微笑み”です」
それは、金の台座の上に、見事な造形美を体現した深紅の薔薇が花開いたブローチ。
「素晴らしい審美眼をお持ちのお嬢さんに、是非……この“完成品”を見ていただきたいと」
朱里は、怪盗の手の中の美術品に目を奪われた。
「なんて……綺麗なの」
綺麗、と言ったがそれだけでは表現しがたい、言葉にしがたい美しさを内包していた。
見た目だけを着飾った表面的な美しさではない、美術品そのものが内側から輝きを放っているかのような、造形美。
昨日の昼間に見たものとは完全に別物だった。
「昨日展示されていたのは、偽物だったの……?」
朱里が見たそれは、ただの紅い宝石がついたブローチだったはずで、薔薇の形をしてはいなかった。
瞬きも忘れて見入る朱里を見つめて、怪盗がゆるりと唇を微笑みの形に刻む。
「いいえ、違います。あれは“未完成品”だったんです」
未完成品、と朱里は口の中で呟く。
先ほど怪盗は、これを完成品と言っていた。
「……貴方は、完成品を持っているのに、どうして未完成品を盗ったりしたの?」
本物を所持していたのなら、模造品であるレプリカを盗んだりする意味が分からない。
朱里の問いに、目深に下したシルクハットの下で怪盗がクスリと笑った。
「お嬢さん、貴女は一つ勘違いをしているようです。これは、昨夜まであそこで展示されていた美術品ですよ」
朱里はからかわれているのかと思った。
「嘘よ……昨日見たのと、全然違うもの」
思わず向きになって言いつのった朱里は、シルクハットの下からわずかに覗いた怪盗のエメラルドグリーンの瞳が、優し気に細められたのを見た。
「やはり貴女は、良い眼をお持ちのようだ。……ですが、嘘ではありません、これはあの未完成品を完成させたものなんです」
言葉の意味がすぐには理解できなかった。
あの未完成品を、完成させたもの?
昨夜まで展示されていた未完成を盗んで、わざわざ手を加えて、今夜までに完成品に仕上げたとでも言いたいのか。
原作者ならともかく、そんなことが普通にできるわけがない。
「どうやって……?」
「それは秘密です」
スッと口元に人差し指を当てて怪盗は、いたずらっぽく微笑んだ。
それから、手の中の小箱の蓋をそっと閉じると、小箱を懐にしまい込んだ。
「……さて、あまり長居するわけにもいかない身の上ですので、そろそろ失礼させていただきます」
え、もう行ってしまうのか、と朱里は眉根を下げた。
本当に、朱里にあのブローチを見せに来ただけのようだ。
「どうして貴方は、私にそれを見せに来てくれたの?」
昨日一瞬会っただけの自分に。
「それは貴女が、良い眼をお持ちだったからです」
シルクハットの鍔を持ち上げた怪盗の綺麗なエメラルドグリーンの瞳が、真っすぐに朱里を捉えた。
「その眼を持って“見入る”のは良いことです。しかしながら、見入るあまりに“魅入られる”のは大変危険です。……どうか、この忠告はお忘れなきよう」
愁いを秘めた眼差しに見つめられ、朱里は思わず息をのんで、胸の高鳴りを誤魔化すように言われた言葉を頭の中で何度も反芻した。
見入るのはいい、でも魅入られてはダメ。
シルクハットからこぼれる怪盗の金色の髪が、夜風に吹かれてさらりと揺れる。
「素晴らしい審美眼をお持ちのお嬢さん、お会いできて光栄でした」
バルコニーの手すりに飛び乗った怪盗は、マントの裾を掴んで胸の前まで持ってきて恭しく一礼した。
「ごきげんようお嬢さん、良い夢を」
そう告げると、怪盗はそのまま真っ逆さまに落ちていった。
あっ、と叫んだ朱里が慌てて手すりに駆け寄り、見下ろしたがそこにはもう怪盗の姿はどこにもなかった。
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