最終話 たぶんここが最果て
シゲルは、きれいだった。真っ白な部屋の中で、初めてそう思った。
明るい光に下にシゲルがいることの違和感は、もう消えていた。代わりに、今の彼は、風呂場の白い壁と立ちこめる白い湯気の中に、溶け込んでしまいそうだった。彼の手のひらを汚していた赤色を洗い流してしまえば、よりこの白い空間と一体化してしまったように見える。
わたしがシゲルの手を洗い終わると、今度はシゲルが、黙ってわたしの手をとった。お湯の溢れる蛇口の下へ導き、手の甲を撫でるようにして、赤色を落としていく。手の甲が終わったら、次は手のひら。指の間まで丹念にシゲルの指が行き来する。
くすぐったくて笑ったら、熱心にわたしの手を眺めていたシゲルが、ふいに顔を上げた。目が合う。シゲルも笑っていた。
思えば、彼の顔をしっかりと見るのは、これが初めてだった。あの部屋では、暗さに塗りつぶされていたかもしれない細かな表情も、今は全部、はっきりと見える。
おばさんにそっくりだと思っていた目元も、今見れば、さほど似ていないと感じた。笑みに細められたその眼差しは幼い。無邪気な子どものように、彼は笑っていた。目の奥に凝っていたなにかも今はもう見えなくて、すべてが邪気のない、美しいものに見えた。
「ねえ、シゲル」
薄く色づいた赤い水が、排水溝へ流れ落ちていく。
「髪、洗ってあげよっか」
シゲルはよりいっそう目を細めて、うん、と頷いた。
わたしの手もシゲルの手もきれいになった頃には、代わりに、真っ白だった洗面台が赤く汚れていた。
シャンプーを泡立てて、彼の髪に指を潜らせる。くすぐったかったのか、彼は小さく身じろぎをした。それから、ふふ、と声を立てて笑う。その声がとても子どもっぽかったから、なあに、と聞き返すわたしの声も自然と柔らかなものになる。
「いいきもち」
目の前の鏡の中にあるシゲルの顔を見れてみれば、彼も鏡に映るわたしの姿を見ていて、鏡越しに目が合った。彼はやっぱり、楽しそうに笑っていた。つられるように、わたしも笑う。
シゲルの髪は癖がなくて、何の抵抗もなく指の間を滑り抜ける。それが気持ちよくて、彼の髪を指に巻いたりして遊んでいたら
「次はおれが、ハナの髪洗ってあげる」
ふいにシゲルが、こちらを振り向いて言った。彼の目がやたら輝いているから、そんなに髪を洗うことが楽しいのだろうか、とちょっと不思議に思いながらも、いいよ、と首を振る。
「自分で洗うよ」
言うと、シゲルは不満げに「なんで」と、間髪入れず聞き返す。
「自分で洗えるもん」
「おれはハナに洗わせてやってるのに」
唇をとがらせてわたしを睨むシゲルを、はいはい、とあしらって、前を向かせようと肩に手を置く。けれどシゲルは頑なに、こちらへ向けた身体を戻そうとしない。
駄々をこねるようなその仕草に、わたしはなんだか、弟か息子を相手にしているような、不思議な気分になる。シゲルの歳は知らないけれど、彼にはどことなく大人びた雰囲気があったから、なんとなくわたしより年上なのだろうと思っていた。だけど今の彼は、本当に幼く見える。
ふいに、お母さんの笑顔を思い出す。駄々をこねるわたしをなだめるときの、ちょっと困ったような、でも本当に優しい笑顔。どうしようもなく大好きだったはずなのに、思い出すのは久しぶりのことだった。
わたしはその笑顔を、頭に思い浮かべる。そして、真似するように笑ってみた。うまくできたかはわからないけれど、笑みを向けたとたん、シゲルの表情も柔らかなものになる。その彼の表情が、今わたしの頭に浮かぶお母さんの表情と、驚くほど重なって見えた。
シゲルはおもむろに、わたしの首筋に顔を埋めた。ふわり、小さな泡がシャンプーの香りと一緒に顔の前を漂う。シゲルの体温が、一気に全身を巡った。
こんなことしてたら、髪流せないよ。
そう言おうと口を開きかけたとき、彼の手が背中にまわったから、言いかけた言葉はそのまま呑み込んでしまった。
ふふ、と笑う声がすぐ傍で聞こえた。暖かな息が首筋を撫でる。わたしは、肩に置いたままだった手をそっと持ち上げ、彼の濡れた髪に触れた。そのままの体勢でふたたび彼の髪を泡立て始めたら、もたれかかる彼の頭が少し重くなった。
彼の体温も、まっすぐな髪の毛の感触もとても気持ちがよくて、いつまでもこうしていたいと思った。だけど浴室の空気はひんやりと冷たくて、触れているシゲルの肌もだんだんと熱を失っていくのを感じ、そろそろ洗い流そうとわたしはシャワーヘッドを手に取り、蛇口を捻る。
「目、閉じててね」
声をかけると、うん、と小さな子どものような声が返ってくる。わたしはそれに笑って、蓮口から溢れる水の下に手をかざした。温かなお湯に変わったことを確認してから、シャワーを彼のほうへ向ける。シゲルは目を閉じたまま、じっとわたしの肩に頭を預けていた。
シゲルの髪を洗い終わったあとは、結局シゲルがわたしの髪を洗った。慣れない手つきで、しかし楽しそうな笑みは絶やすことなく、時間をかけて彼がわたしの髪を洗い終えた頃には、二人ともすっかり身体が冷え切っていたから、すぐに湯船に浸かることにする。
この家の浴槽は大きい。二人くらいなら、悠々と並んで浸かることができる。それなのに、シゲルはわざわざ折り重なるようにして入ろうとする。
「ハナ、ここ来て」
言われるまま、膝を折って座る彼の前まで移動すれば、すぐに彼の腕が身体にまわって、思い切り抱き寄せられた。満足そうに笑う声が聞こえる。吐息が耳にかかって、くすぐったい。だけどわたしもこうしていたいと思ったから、なにも言わずに彼のほうへ身体を寄せた。
視線を下ろせば、シゲルの真っ白い腕が見える。長らく陽に当たっていないであろうその肌は、白いというより青白いと形容したほうが正しい。
あの暗い部屋で見るとは、強烈な不健康さしか感じていなかったその色。だけど今は、ひどく、きれいだと思った。
「あったかい」
耳元で呟く声がして、わたしも、あったかいね、と同じ言葉を返した。
目を閉じる。この心地よさに溺れてしまいそうだ。身体を包むお湯も、シゲルの体温も、すべてが怖いほどに温かい。
いつもは、こんなに長い時間湯船に浸かっていられることなんてなかった。わたしに与えられているお風呂の時間は五分間だけだから、髪を洗ったりすれば、湯船にはまったく浸かれないことも多い。時間を過ぎれば、コハルちゃんが怒って呼びに来てしまうのだ。
もうとっくに五分は過ぎたはずだけれど、今日は誰も来ることはない。身動きをするたびにお湯が跳ねる音だけが、耳に届く。辺りはひどく静かだった。コハルちゃんはどこに行ってしまったのだろう。
「これからどうしようか」
ふいにシゲルが、ぽつんと呟いた。
どうしようか。わたしはまた、同じ言葉を繰り返す。
身体がぽかぽかするから、自然と口元がゆるむ。シゲルは一度呟いたきり、それ以上はなにも言わなかった。ただ黙って、わたしの身体にまわした腕に少し力を込めた。頬に、彼の髪が触れる。同時に、温かな唇の感触が肩に落ちてきた。
わたしは目を閉じたまま、彼の言葉を頭の中で繰り返す。
これから。お風呂を出た、そのあと。
「ねえ、シゲル」
「うん」
声を発するたび彼の吐息が首筋を撫でるから、くすくすと笑いが漏れてしまう。つられるように、シゲルも笑う。その笑い声さえも心地いい。
「お風呂出たらね」
考えることもなく、答えは決まっていた。それを伝えるために後ろを向く。
シゲルがこの言葉に首を横には振らないことはわかっていた。シゲルは穏やかな目で、わたしを見ている。その眼差しも心地よくて、わたしはにっこりと笑った。
お風呂を出たら、身体が温かいうちにベッドに入って、布団にくるまって、二人で抱き合って眠りましょう。
なにも見えない、真っ暗な部屋の中で。
最果てより 此見えこ @ekoko
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