第7話 手をつないで

 おばさんの身体は、思いのほか軽かった。

 全体重をかけて肩を押せば、あっけなくバランスを崩して横へ傾く。背中が壁にぶつかった拍子に、シゲルの腕を掴んでいた手が離れた。左手にあった包丁も、するりと手のひらをすべって、床に落ちた。

 勢いがよかったものだから、反動でシゲルもよろけて、踏ん張ることができずそのまま床に倒れ込む。

 派手な音が、二度続けて響いた。


 おばさんが起き上がるより先に、わたしはシゲルの前に立つ。これ以上、シゲルに触らせる気はなかった。指一本だって許さない。

 おばさんは顔を上げると、目を見開いてこちらを見た。だけどわたしと目は合わなかった。その視線はまっすぐに、わたしの後方を見据えていた。

 彼女の表情は、先ほどと変わらない。焦ったように、あわてて身体を起こそうとする。その間も、彼女はシゲルだけを見ていた。わたしのことなんて、本当に見えていないのかもしれない。今はただ、一つの考えに取り憑かれているのだろう。

 おばさんがまた手を伸ばそうとする。シゲルの腕を掴んで、あの部屋へ押し入れるために。だけどもう、手は届かない。わたしはその手を掴んだ。それでもおばさんは、わたしを見ない。


 ヨシオさん。

 おばさんが、小さく口にしたのが聞こえた。わたしの後ろにいるはずの、シゲルを見つめたまま。

 わたしは強く、彼女の腕を握りしめる。床に転がる包丁を、横目に捉えた。

「違うよ。おばさん」

 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。ようやく彼女の視線が動いて、わたしの視線と絡まる。それを待ってから、続けた。

「“ヨシオさん”じゃない。シゲルだよ。ちゃんと見て」

 おばさんは、しばし黙ってわたしの顔を見ていた。

 やがて、ゆるやかに唇の端を上げる。寸分の狂いもなく作られた石膏像みたいだった。不自然なほどに綺麗なその笑みに、感情なんてどこにも見あたらない。そしてその表情をみじんも崩すことなく、口を開く。

「……シゲルなんて、もういないわよ」

 それは、ただ、ありのままの事実を告げるかのような口調だった。

 わたしは目を伏せた。腰を屈める。床に、そっと手を伸ばす。

「シゲルはあの日、ヨシオさんの代わりに、死んだのよ」

 わたしは彼女の腕から手を離した。代わりに、左手を握りしめる。硬い柄の感触が伝わる。

 おばさんは一歩、こちらへ歩み寄った。貼りつけた笑みはそのままに、わたしの肩を掴む。その手に力が込められるのを感じ、わたしは左手を持ち上げた。もう一度、しっかりと握り直す。


 刃は、思いのほか容易く彼女の身体に沈み込んだ。

 肉の引き裂く音が耳に届く。肩に置かれていた手は途端に重さを失い、わたしの手の上へ落ちてきた。

 かと思うと、次の瞬間には、骨が軋むほどの強さでわたしの手を掴む。爪を立てられ、皮膚の破れる感触がした。ぴりとした痛みが脳に届くと同時に、左手には生暖かな湿っぽさが広がる。あっという間に左手は真っ赤に濡れて、握る柄はぬるりと手のひらを滑りそうになる。

 握り直して、手前に引いた。刃の先から滴った血が床に落ちていくのが、やけにはっきりと見えた。

 わたしの手を掴んでいた手から、一気に力が抜ける。同時に、目の前の身体が崩れ落ちた。低い音と共に、古い廊下の床が軋む。倒れ込んだ身体の下にじわじわと赤色が広がっていくのを見下ろしていたら、唐突に甲高い悲鳴が響いた。


 振り返れば、コハルちゃんが蒼白な顔で立っていた。今し方階段を上ってきたらしい。彼女より一足遅れて、おじさんも階段を駆け上ってくる。

「……ユリコ」

 おじさんがその名前が呼ぶのを聞いたのは、それが初めてだった。

 二人とも、限界まで目を見開いて、こちらを見ている。愕然としていたコハルちゃんが、縋るようにおじさんの腕に触れようとしたのがわかったけれど、触れることはできなかった。

 コハルちゃんの手が届くより先に、おじさんは大股でこちらへ歩いてきた。おじさんは、床に崩れ落ちるおばさんのほうだけを見ていた。

 しばらく痙攣を繰り返していた身体も、おじさんが傍らにしゃがみ込む頃には、動かなくなっていた。


「ユリコ」

 繰り返しその名前を呼びながら、おじさんは、彼女の身体を抱き起こそうとする。おじさんがおばさんの首の後ろに、手を差し入れたときだった。パパ、と悲鳴のような声でコハルちゃんが叫んだ。

「早く逃げようよ! ねえパパ!」

 コハルちゃんはわたしの顔と、わたしの手元、それからおじさんのほうを交互に見ながら、必死の形相で叫ぶ。

 しかしおじさんの耳に、コハルちゃんの声が届いた様子はなかった。おじさんはただ、おばさんだけを見ていた。ユリコ、とこぼれ落ちるように名前を呼ぶ。それに重ねるように、コハルちゃんが叫ぶ。

「そんな女、どうでもいいじゃない。ねえパパ、早く逃げようよ。ほっとけばいいのよ。ずっとパパのことなんか見もしなかった、最低の女でしょう」

 おじさんは、娘の言葉に何の反応も返さなかった。ただ、おばさんの名前を呼び続けていた。コハルちゃんの顔に絶望の色が走るのを見た。見開かれた目から、涙が溢れる。

「ねえ、パパってば!」

 いっそう高い声で叫んで、コハルちゃんはおじさんのもとへ駆け寄った。震える手で、おじさんの腕を掴む。

「パパ、言ったじゃない」

 小さな手で懸命におじさんを引っ張り起こそうとしながら、絞り出すように叫ぶ。

「コハルが一番だって、コハルだけでいいって、コハルさえいてくれれば何もいらないって。パパ、そう言ったでしょう。ねえ」

 コハルちゃんの声は、そこで途切れた。おじさんは、コハルちゃんの顔を見ることもなかった。腕に抱いていたおばさんの身体を床に横たえる。それから、自分の腕を掴むコハルちゃんの手を振り払い、立ち上がった。そのひどく乱暴な仕草に、コハルちゃんの顔がまるで奈落の底にたたき落とされたようなものに変わるのも、おじさんが気づくことはなかったのだろう。


 こちらを振り向いた彼は、わたしの左手に目を落とす。おじさんは無表情だった。しかしその目に激しい怒りが宿るのは、はっきりと見た。

 おじさんの視線が上がり、わたしと目が合う。そう思った次の瞬間には、彼の手がわたしの頭の上にあった。コハルちゃんが、ついに声を上げて泣き出したのがわかった。思考は、そこで途切れた。

 突然強い力で上へ引っ張られたかと思えば、次の瞬間には、おばさんとは比べものにならないほどの力で壁に打ちつけられ、目の前が白くなる。おぼろげになった視界には、最後、おじさんの顔の代わりに、黒い服と白い腕がちらと映った。



 気づけば、おじさんの声もコハルちゃんの声も消えていて、辺りはひどく静かだった。

 髪の毛を掴んでいた力もない。たださっきの痛みの名残だけが、じわりと残っている。

「ハナ」

 目を開ける。柔らかな眼差しが、わたしを見つめていた。

 思い出したのは、写真で見た、“ヨシオさん”の眼差しだった。その切れ長の目は“ヨシオさん”のものとはまったく似ていないはずなのに、不思議なほど重なって見えた。

 二度まばたきをする。目の前にあるのは、シゲルの、初めて見るような穏やかな表情だった。それなのに、なぜだか、懐かしさを感じた。


 手を伸ばす。触れようとすれば、いつもさり気なく避けられていたその手が、初めて、差し出したわたしの手にそっと重ねられる。

 彼の手は、赤く汚れていた。わたしの手も同じように濡れていたから、手のひらがぬるりとすべってしまって握りにくい。離してしまわないよう、力を込めて、強く握った。シゲルも同じように、しっかりとした力で握りかえしてくる。

「ね、ハナ」

 シゲルが笑っているから、気づけばわたしも笑っていた。

 うん、と語尾を上げた調子の相槌を打つ。シゲルはつないだ手を持ち上げて、

「お風呂に入りたい」

 幼い笑顔と口調で、言った。

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