第6話 狂気
わたしが久しぶりにおばさんに名前を呼ばれたのは、おばさんの実家から帰ってきた翌日のことだった。
一階の廊下が終わったら、次は階段、最後に二階の廊下。それが雑巾がけをするときのいつもの流れだった。
今日も変わらず、わたしは一階の廊下から雑巾をかけて、拭き終わったところで汚れた雑巾を洗い直しにいく。その途中で、おばさんの声が背中にかかった。
「ハナ」
振り返ると、いつもと同じ、みじんの隙もない格好のおばさんが立っていた。綺麗な服に、綺麗にまとめられた髪。
おばさんは、雑巾がけより先に庭の草取りしてくるように言った。頷いて、雑巾を洗い場に置いてから外に出る。
まだそんなに遅い時間ではないけれど、今日は雲が多くて薄暗い。そのせいで昼も気温が上がらなかった。冷たい風が吹き付けて、耳がじんと痛む。
庭に行ってみれば、たしかに雑草が目立つようになっていた。ざっと見渡して、まずは奥の方から取っていこうと足を進める。
さっきまで濡れた雑巾を持っていたせいで、右手がひどく冷たい。思わず両手を擦り合わせて、息を吹きかけた。
あの部屋も寒かったな、なんて、ふいに思い出す。今日は天気が悪くてとても寒い日だったけれど、シゲルは大丈夫だったろうか。今日だけでなく、わたしたちがおばさんの実家へ行っていた三日間も、厳しい寒さが続いていた。
わたしは足を止めて、後ろを向いた。二階の一番奥。あの部屋の窓を見上げる。
わかりやすい位置にあるその窓が一瞬わからなかったのは、雨戸がなかったからだ。前に部屋に入ったときはいつも、あの部屋の窓は雨戸が閉められていた。そのせいで、いつも光の差し込まない暗い部屋の中で、シゲルと会っていたのだ。
だけど今、シゲルがいるはずのあの部屋の窓は、何にも覆われることなく、透明なガラスを晒している。
途端に、心臓から熱を絞り取られるような感覚がした。
最後にわたしがシゲルに会ったのはいつだっただろうと考える。今日と、その前の三日間は間違いなく会っていない。そのさらに前も、少なくとも三日は会えなかったはず。およそ一週間前だ。
一週間なんて、さほど長い期間ではない。おばさんの実家へ行かなかったとしても、もともとシゲルと会うのは難しいことだったのだ。それなのに、今はどうしようもなく、この一週間の空白を恐ろしく感じた。
縛り付けられたように突っ立って、一番の端にある窓を見つめる。膨らんだ恐怖に、一瞬頭が真っ白になる。次の瞬間には、わたしは地面を蹴っていた。
ただ、一気に胸を満たした、恐怖と焦燥に押されて走る。乱暴に玄関のドアを開ければ、反動で勢いよく閉まったドアが大きな音を立てた。
ああ、これでまた怒られる、なんて、頭のどこか遠いところで考える。かなり勢いがよかったから、もしかしたらドアが壊れてしまったかもしれない。そうしたら叩かれるどころでは済まないだろう。しばらく食事抜きか。いつだったか、一晩家に入れてもらえなかったこともあったけれど、寒くなってきたこの時期にそれは辛いな。他人事のように思う。四年間怯え続けてきたその恐怖も、今はちっとも染み入ってこなかった。
靴も脱ぎ捨てて、廊下を走った。階段を駆け上がる。ぎしぎしと派手に床が軋む。
二階の廊下、奥にある暗闇に向けて足を進めるにつれ、こみ上げてきたのは甘さの混じる感情だった。
それはあっという間に、恐怖も焦燥も打ち消した。ただ会いたいと思った。もう少しで会える。近くにいる。それだけで頭の中が満たされる。目眩がした。
やっぱり一週間は長かった。途方もなく長かった。わたしはどうしようもなく、シゲルに会いたかったのだ。できるならずっと、片時も離れずに傍にいたかった。そんな単純なことを、今頃になって強く思う。
二階の廊下も速度をゆるめることなく走って、ドアの前まで辿り着く。ひどく遠かったそのドアに、ようやく手を伸ばす。冷たい金属が指先に触れた。けれどその冷たさが脳まで伝わる暇もないほど、それは一瞬のことだった。
ぐらり、視界が揺れる。
後頭部への鋭い痛みは、一拍遅れて届いた。頭を強く後方へ引っ張られ、視線は強制的に天井を向く。一瞬だったはずなのに、汚れて灰色になった天井は、いやに鮮明に見えた。足が床を離れる。
知っている。覚えのある感覚だった。
「――殺しちゃおうかって、思ったのよ」
ぞっとするほど静かな声が、鼓膜に突き刺さる。
天井と同じように、灰色に汚れた壁。すぐに視界は切り替わって、次はおばさんの顔。表情はつかめなかった。つかむより早く、おばさんの顔は視界から消えてしまった。代わって眼前に迫ってきたのは、ふたたび、灰色の壁。
「あの日。あんたがあの部屋に行こうとしてたのを見つけたとき。あの部屋には近寄るなってあれだけ言ったのに、それでも聞かなかったんだもの」
視界が真っ暗になったかと思えば、大きな音が耳元で響いた。爆発したように、目の奥が熱くなる。その熱は耳にも走って、すぐに頭全体を覆った。
「大体ねえ、あんたのこと引き取ること自体、本当に嫌だったのよ。あんたの両親だって好きじゃなかったし、親戚っていったって、年に一回や二回しか顔合わせないような人間よ? そんな子どもの世話いきなり押しつけられたって、こっちはたまんないわよ。あんた一人養うのに、いくらかかると思ってんだか」
ふたたび後頭部が引っ張られ、視界が反転する。目の前に、おばさんの顔。まくし立てられる言葉の調子と同じ、ひどく静かで、温度のない表情だった。
「それでもちゃあんと、世話してやってたっていうのに」
おばさんの唇が、ゆるやかに弧を描く。直後、頭皮に痛みが走った。ぐいっと後ろへ引かれた頭は、そのままの勢いで壁にぶつかる。耳元で大きな音がふたたび響く。
「これだけ言うこと聞かないんだもの。もう、仕方ないわよね。ねえ」
わたしの髪を掴むおばさんの手に、よりいっそう力が込められるのがわかった。髪の毛が何本か抜ける音がした。視界はぐらぐらと絶え間なく揺れている。そのせいで、目の前にあるはずのおばさんの顔がよくわからない。
「べつにあんたが死んだって、たいした騒ぎにはならないし。あんたの顔と名前知ってる人間なんて、今この世界に何人いるんだか。ねえ、だから、何の問題もないのよ」
言葉を切るたび、おばさんはわたしの頭を壁に打ち付ける。激しく揺れる視界の中で、おばさんの左手に握られた包丁がちらと映った。
「四年間も面倒見てやったのよ。もう充分でしょう。どうせ生きてたってしょうがないじゃない。あんたなんか」
おばさんは、今までに見たことがないくらい、綺麗に笑ってみせた。
何度目か、頭が引っ張られる。直後、視界が暗くなる。しかし、同時にやって来るはずの痛みが、今度はなかなか訪れなかった。
おばさんの、息を呑む音がした。
突然に、わたしの髪を掴んでいた手から力が抜ける。いつの間にか閉じていたらしい目を開けてみれば、目の前にあるはずだったおばさんの顔の代わりに、黒い布が見えた。ゆっくりと視線をずらす。おばさんの腕を掴む、不健康に白い手。見慣れた黒い服。
おばさんの喉から、不格好な息が漏れた。一拍置いて、甲高い叫び声が響く。
「なにしてるのよ!」
ぐらぐらと揺れていた視界が、途端に鮮明になる。作り物のような綺麗さで笑っていたおばさんの顔は、今は醜く歪んでいる。
目にした途端、あの日のおばさんの表情がまぶたの裏に弾けた。目を見開いた、青ざめた顔。正気を踏み外したかのような、その恐ろしい形相で、彼女は今、目の前に立つ少年のほうへ手を伸ばしている。
ぞっとした。心臓から熱を絞り取られるあの感覚が、もう一度押し寄せる。
「出てきたら駄目でしょう! 戻りなさい! 早く!」
必死に叫ぶおばさんの声も、どこか遠くで響いている。
あの部屋より明るい光の下にいる彼に、感じる違和感が怖かった。光は彼の不健康さを強烈に照らしていて、まるで、今にも死んでしまいそうに見えた。
わたしはただ、彼女の手を見ていた。伸びたその手は、シゲルの腕をつかむ。捻れば、それだけであっけなく折れてしまいそうに細い腕を、まったく容赦のない力で握りしめる。
呼吸が苦しくなる。嫌な汗が滲む。おばさんの金切り声も、もう聞こえない。
ああ、嫌だ。ぎゅっと拳を握りしめた。唇を噛む。あの手は駄目だ。あの手が触れた場所から、シゲルが腐っていく。
おばさんはシゲルを引っ張って、あの部屋へ連れて行こうとする。強く腕を掴んで、引っ張る。わたしはただ、その彼女の手だけを見ていた。吐き気がするほどの嫌悪感がこみ上げる。最初にわたしを突き動かした、恐怖と焦燥が戻ってくる。ああ嫌だ。触るな。触るな。
ゆっくりと手を伸ばす。
胸の奥で、なにかが落ちる音がした。
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