第5話 不完全な幸せ

 シゲルと出会って、世界の色は変わった。灰色だった世界は、真っ黒になった。

 だけどわたしは、そっちのほうが好きだと思った。妙に心地良かった。なにも見えない、真っ暗闇のほうが。



 明日から三日おばさんの実家へ行くという話を聞いたとき、喜びの感情が湧かなかったのはきっと初めてだ。

 おばさんの実家にいる間は、おじさんもおばさんもわたしを叩くことはない。ご飯も毎日三食食べられるだろうし、おばさんの実家はこの家ほど大きくないから、掃除もあちらのほうが楽だ。いいことずくめなはずなのに、わたしの気分は晴れなかった。


 おばさんの実家へ行くときは、いつも、おばさんだけでなく家族全員で行く。家族で外出するときはたいてい留守番を任せられるわたしも一緒に連れていってもらえる、数少ない行事だった。

 いつも少し不思議に思っていたけれど、今となってはよくわかる。わたしを三日間も家に一人にしておくのは心配だったのだろう。思えば、わたしがおばさんの実家に一緒に連れていってもらえるようになったのは、わたしがシゲルのいる部屋へ近づこうとした、あの日以降のことだった。

 そういうわけで、この三日間は家に誰もいなくなる。――シゲルは、大丈夫なのだろうか。


 家に誰もいなくなったら、シゲルはあの部屋を出て、好きに家の中を歩き回ることができるのだろうか。だけどおばさんが、そんなことを許すとはあまり考えられなかった。むしろシゲルが逃げ出したりすることがないよう、足も手も縛り付けてしまうのではないか。だったら三日もの間、ずっと、シゲルは。

 考えただけで、すうっと胸の奥が冷えた。一度浮かんだ嫌な想像は、なかなか頭から追い出すことができない。

 気づけば、わたしは、あの、と声を上げていた。めったに会話なんてない食卓は当然今日も静まりかえっていて、その中に響いたわたしの声は、自分でも驚くほど大きく響いた。

 一斉にこちらを向いた視線に思わずびくりとしてしまう。

 なに、と短く聞き返してきたおばさんに


「わたし、この家に残っていちゃだめ、かなあ。その、明日から」

 おばさんはわずかに目を見開いて、わたしの顔を見つめた。

 心臓が一気に速度を速めて鳴る。出来るだけ、さり気ないお願いに聞こえるよう努めたつもりだったけれど、お願いをするなんてあまりに久しぶりのことだから、うまくできたかどうかはわからない。

 しばしの間の後、おばさんの顔は無表情に戻った。それから、みじんの隙もない口調で

「だめに決まってるでしょう」

 と答えを返した。直後、彼女の目が冷たい色を帯びたような気がして、わたしは思わず目を伏せる。うるさく鳴っていた心臓が、今度は一気に冷たくなる。

 ――もしかして、なにか、失敗してしまったかもしれない。ふいにそんな考えが過ぎったとき


「なんで残りたいのよ。あんた、おばあちゃんのこと嫌いなの」

 コハルちゃんが不機嫌そうにそんなことを言った。わたしはあわてて首を振る。なにか言い訳をしようとけれど、今下手に口を開けば余計に怪しまれるようなことを言ってしまうそうで、やめた。

 おばさんも、それ以上なにも言わなかった。黙って食事を再開したおばさんの指先は、ひどく丁寧に箸を動かす。

 おばさんはいつも、つまんだおかずを取り落としてしまったりはしないし、口元を汚すこともない。服もいつだって綺麗で、艶のある長い黒髪は少しもほころぶことなく一つに束ねられている。わたしの知っているおばさんは、いつだって綺麗だった。

 だから想像がつかなかった。彼女はどんな顔で、あの部屋に行くのか。どうやってシゲルに触れるのか。

 胸の奥に、ひやりとした冷たさが落ちた。

 そのときふと、わたしよりコハルちゃんのほうが残るおかずの量は少なくなっているのに気づく。わたしの皿の盛られるおかずが一番少ないから、いつも一番に食べ終わるのはわたしだった。今日はいつから箸が止まっていたのだろう。

 わたしはあわてて残ったおかずとご飯を口に運んだ。味なんて少しもわからなかった。



 おばさんの実家に着いてからの流れは、いつもと変わらなかった。

 コハルちゃんとおじさんは二人で近くにあるデパートへ出かけて、おばさんはおばあちゃんや遊びに来た近所の人たちと談笑している。

 わたしもいつものように、この家に一つだけある洋室に向かった。この家に来たとき、わたしははたいていの時間をここで過ごしていた。妙に落ち着く、お気に入りの場所だった。ふかふかのソファに座って、洒落た柄の壁紙や絨毯を眺めているだけで楽しくて、わたしはしばらくそうしていた。

 もう何度見たかもわからない、壁にかけられた、昔おじいちゃんが取ったたくさんの賞状を眺めていたときだった。


 ふと、一つの写真が目に留まる。ピアノの上にはいくつもの写真が並んでいるのに、その小さな写真だけが不思議と目に飛び込んできた。

 わたしは立ち上がると、ピアノのほうへ歩いていく。そしてそっと、その写真を手に取った。

 綺麗な黒髪に、白い肌、一重で切れ長の目。そう昔に撮られたものではないのだろう、今と顔立ちは変わっていない。それなのに、まるで別人のように見えるのが不思議だった。

 そして、ひどく柔らかな笑顔をこちらに向けている彼女の隣に立つ、見知らぬ男性。すぐにわかった。この人が、“ヨシオさん”なのだ。


 ずっとここにあったはずのこの写真が、目についたのは初めてだった。

 おばさんのこんな笑顔は、今まで見たことがない。そしてこれからも、きっと見ることはできないのだろう。

 ヨシオさんのほうへ目を移す。優しそうな人だと思った。笑顔も眼差しも、とても柔らかい。会ったこともないのに、素敵な人なのだろうな、なんて思う。それは、おばさんが今になっても狂おしいほど愛している人だということを、知っているからかもしれない。


 彼は、シゲルとはあまり似ていなかった。並ぶ二人を見て、わたしは、シゲルが圧倒的におばさんのほうの血を強く引いていることを知る。涼しげな目元なんて、本当にそっくりだった。

 しばし眺めたあとで、わたしは写真の上にそっと手をかざした。男性の目元が、隠れるように。

 じわりと、額に汗が滲んだ。唾を飲み込む。

 嫌になるほど似ていた。目元を隠せば、何の問題もない。そこにいたのは、シゲルだった。


「――またここにいたの」

 ふいに聞こえた声に、心臓が跳ね上がる。弾かれたように振り返れば、いつの間にかドアが開いていて、その向こうにおばさんが立っていた。

 おばさんは、微笑っていた。彼女に笑顔を向けられたのなんていつ以来かも思い出せないことで、戸惑うわたしにはかまわず、おばさんは部屋に入ってくる。心臓は相変わらずうるさい。

 それ、とおばさんがわたしの手元を指さして言ったとき、わたしは、冷たい唾が喉を滑り落ちていくのを感じた。

「私の若い頃の写真でしょう」

 おばさんは今たしかに笑顔なのに、やはり写真の中で笑う女性とは別人に見える。髪型が違うだとか、今のほうが少し年を取っているだとか、きっとそんなことは関係ないのだろう。おばさんはもう、この写真のように笑うことはないのだ。

 裸足の足裏に、急に冷たさが染み入ってくる。

 目の前の笑顔を見つめる。歪んだ、感情のこもらない笑顔だった。そこに、おばさんの“ヨシオさん”への愛を見てしまった。同時に、やっぱりわたしは昨日、失敗をしてしまったことを知る。


 早くあの家に帰って、あの部屋に行って、シゲルの目を見て、彼の名前を呼びたい。唐突に、強く思った。

 世界がまた少し、暗くなった気がした。

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