第4話 それは絶望に似た、

 わたしがシゲルのもとへ行けるのは、三日に一度ほどだった。

 おじさんが仕事に出ている時間帯、おばさんが家を空ければ、たいていコハルちゃんも友達の家へ出かけるから、そのときの数時間は家にわたしだけになる。

 だけどわたしがシゲルと一緒にいられるのは、その間の、いつも一時間にも満たないほどの時間だった。


 臭いが移るから、と、シゲルは言った。

「この部屋の臭い、ひどいだろ。おれはもう麻痺しちゃって、よくわかんないけど」

 シゲルの目を覆う包帯を外していたとき、へらりと笑って彼が言った。

 シゲルが自分では取ろうとしないその包帯を、この部屋に来るなりわたしが外してしまうのは、一種の儀式のようになりつつあった。包帯の下から現れた目が、まっすぐにわたしを捉えるのを確認して、いつもわたしはようやく安心する。


 わたしは少し迷ったあとで、曖昧に頷いた。

 初めてこの部屋に踏み入れたときは、たしかに強烈に鼻をついたその臭いも、今ではさほど気にならなくなっていた。わたしも感覚が麻痺してきてしまったのかもしれない。

 かびの臭い、埃の臭い、それに混じって微かに漂う体臭。すべてが不潔さを強く押しつけてくるのに、不思議とわたしは、この部屋に足を踏み入れることを躊躇したことはなかった。もっとも不潔さなら、わたしも似たようなものだ。


「お風呂には、入ってるの?」

 何とはなしに尋ねてみると、シゲルは、んー、と少し考えてから

「前に入ったのは、いつだったっけ、四日前かな。だから多分、次に入れるのは三日後だ。七日に一回は入れるんだよ」

「七日に一回」

「そう。なんか知らないけど、その日は、家にユリコさん以外誰もいなくなってるみたいで」

 家におばさん以外誰もいなくなるのは、そう珍しいことではない。おじさんが仕事に行って、コハルちゃんとわたしが学校へ行っている平日の昼間なら、たいていおばさん一人が家に残っているはずだ。シゲルがこの部屋を出ることができるのは、その、おばさん以外皆出かけている間だけらしい。


「……どうして」

 考えていると、ふっと疑問が口をついて出ていた。

「どうしておばさんは、シゲルを隠したがるの」

 シゲルはみじんも表情を動かすことはなく、だからさ、とひどく軽い調子で口を開く。

「おれを、“ヨシオさん”にしておきたいんでしょ。自分だけの」

 彼の口から出たその名前に、思わず握りしめた右手に力がこもるのを感じた。

「だから他の人に見られたら困るんだよ。おれは、本当はヨシオさんじゃないし」

 何の感情も混じらない、どこまでも淡々とした口調だった。

 わたしはなにも言えず、ただシゲルの顔を見つめていた。ふと唇に痛みが走って、そのときにまた、自分が強く唇を噛みしめていたことに気づく。

 シゲルもそれに気づいたのか、少し首を傾げるような仕草をした。しかし、彼もなにも言わなかった。ただ、小さく笑った。ひどく穏やかな笑みだった。


「なあ」

 ふいにシゲルはわたしの手元に目を落とすと、そっと、そこに握られたままだった包帯を抜き取った。それから、さり気なくわたしと距離を置こうとするように、数歩後ろへ動く。

「ハナのお父さんとお母さんって、どうしたの」

 わたしはそのシゲルの動作を少し不思議に思いながら、短く答えを返した。

「四年前に、交通事故で死んだよ」

「なんでこの家に来たの」

 シゲルが離れた分だけ、わたしもさり気なく彼のほうへ歩み寄ってみる。しかし彼はやっぱり後ろへ下がってまたわたしと距離を置いた。諦めて、続いた質問に答えることにする。

「親戚は、おばさんたちしかいなかったから」

「ハナって、ユリコさんたちとはどういう関係なの」

「おばさんが、わたしのお母さんのお姉さん」

 ふうん、と呟いて、シゲルは右手で自分の口元に触れる。癖なのだろう、彼はよくその仕草をした。

 それをぼんやり眺めていたわたしは、ふと彼の指に目を留めた。人差し指の先に、赤い線が一本走っている。


「怪我、してる」

 彼の右手を指して言うと、シゲルも自分の右手に目をやって、ああ、と呟いた。

「紙かなんかで切ったのかな」

 いかにも無頓着にそんなことを言うシゲルを見ていると、ふいに心配になって

「絆創膏、持ってこようか」

 そう提案すると、笑われた。

「駄目だろ。ばれるじゃん、そんなことしたら」

 言われて、ようやく思い出す。わたしはこの部屋に入って、シゲルと顔を合わせることは許されていない人間だった。

 シゲルは改めて指の傷を眺めると

「べつに平気だって。ほっといても治るよ。痛くもないし」

 それはたしかにそうなのだろうけれど、わたしは思わず、でも、と声を上げていた。


 その小さな傷を眺めているうちに、喉の奥が冷たくなるような不思議な感覚が広がる。

 たしかにあれは放っておいても治るほどの小さな傷だけれど、もしあれが大きな傷だったなら。絆創膏では足りないような怪我を負ったとしたら、シゲルはどうなるのだろう。

 おばさんは、わたしたちにすら決してシゲルを見せようとしない。彼をこの部屋から出すことも許さないのなら、この家を出して病院に連れて行くだとか、医者に彼を見せるだとか、そんなことは絶対に許すはずがないではないか。

 だったら、シゲルは。


「大丈夫だよ」

 険しい表情になってしまっていたのか、ふいにシゲルが、ちょっと困ったように笑って言った。

「たいした怪我じゃないよ。ほら」

 そう言って、シゲルはわたしの顔の前に右手を掲げる。

 わたしは、うん、と小さく頷く。それから、ほとんど無意識のうちに、わたしが目の前にある手に触れようと左手を持ち上げたときだった。

 目の前にあった手は、ぱっと引っ込められた。その素早い動きが、わたしの手を避けるためだったことは明らかだった。

 驚いて、シゲルの顔を見る。行き場を失ってしまった左手を意味もなく宙でぶらつかせていると、シゲルはその手を見つめて、大人びた笑みを浮かべた。


「……なんで?」

 傷ついたというより、純粋に不思議に思って尋ねると

「おれには、触らないほうがいいから」

 表情と同じ、どこか大人びた口調で、シゲルは言った。途端に彼が遠くなってしまったように感じて、わたしは早口に「なんで?」ともう一度聞き返す。

「汚いからだよ」

 あっさりと返された答えに、なぜか落ち着かない気分になる。さっきのシゲルのように、わたしは自分の手を彼の顔の前へ掲げてみせた。

「わたしだって汚いよ」

 指先も手のひらも黒く汚れていて、あちこちに霜焼けがある。服だってもう何日もこればかり着ているから当然汚れが目立つ。シゲルみたいに七日に一度しかお風呂に入れないということはないけれど、あまり長い時間入っていると怒られるから、いつも髪なんてろくに洗えていない。


 だけどシゲルは、部屋が暗くてそんなわたしの姿がよく見えていないのか

「ハナはきれいだよ」

 なんて言う。

 そんなのわたしにはあまりに似合わない言葉で、妙にあわてて首を振っていた。

「汚いよ。だって、わたし」

「きれいだって」

 それは、静かなのに有無を言わせない口調だった。

 シゲルの穏やかな目に見つめられると、まるでわたしが小さな子どもになって見下ろされているような気分になって、落ち着かない。

 だけどシゲルはそんなわたしにはかまわず、相変わらず大人びた笑みを浮かべたまま、念を押すように重ねた。

「ハナは、きれい」



 そろそろ出たほうがいいと、そう告げるのはいつもシゲルだった。そしてわたしはいつも、その言葉に素直に従うことにしている。

 次はいつ来られるだろうかと、名残惜しく薄暗い部屋を見渡しながら、ドアのほうへ足を進めたとき

「ハナ」

 ふいに名前を呼ばれ、足を止めた。

 振り返ると、シゲルが無表情にこちらを見ていた。笑みの消えた今の表情のほうが、彼の顔は幼く見える。そんなことを思いながら、なあに、と聞き返せば

「名前、呼んで」

 まっすぐにわたしの目を見つめて、シゲルは言った。わたしはきょとんとして、彼の目を見つめ返す。

「おれの名前」

 呼んで、ともう一度繰り返されて、わたしはよくわからないまま、言われたとおりに彼の名前を口にした。

「……シゲル」

 彼はなにも言わなかった。ただ目を伏せ、小さく笑った。

 さっきの大人びた笑みとは違う、今度はひどく幼く見えたその笑みに、またあの、喉の奥が冷たくなるような感覚が広がる。理由はわからなかった。わたしもそれ以上はなにも言えずに、踵を返す。

 そっとドアを閉めてから、わたしはまた、唇を噛んだ。

 痛みを感じても構わず、強く、噛みしめていた。

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