第3話 歪み
その日に交わしたのは、名前の交換が最後となった。
直後にコハルちゃんが帰ってくる気配がして、わたしは急いで一階へ下りた。
友達が不在だった、と不満げに漏らしたコハルちゃんは、まだ掃除のされていない部屋に気づいて、眉をつり上げる。寝てしまっていた、と咄嗟に口をついた言い訳に、コハルちゃんが罵倒の言葉を並べただけで、すぐに自分の部屋へ向かったことにほっとして、わたしは息を吐く。
掃除しなくちゃ。誰に向けるでもなく呟いて、雑巾を取りに台所へ向かった。
蛇口を捻れば、冷たい水が溢れ、手の甲に落ちてくる。
いつもなら、痛いほどのその冷たさが、今日はよくわからなかった。それ以上に、さっき触れた彼の手の感触が、未だ強く残っていた。
そちらにばかり気を取られて、いつの間にか手の中の雑巾が水を吸って重たくなっているのに気づく。我に返って水を止め、強く雑巾を絞った。
静かな部屋で、どきどきと鳴る心臓の音がいやにうるさい。それは収まる気配がなくて、くわえて身体の奥には熱いなにかが広がっていく。
やがて喉もとまでせり上がってきたその熱さに堪えきれず、開いた唇の端からこぼれたのは、笑みだった。
雑巾を握ったまま、そっと階段の下へ向かう。
見上げても、当然あの部屋の扉すら見えないけれど、わたしはしばらくその場から動けなかった。
次はいつ会えるのだろう。ぼんやり考えて、わたしはまた一人でこっそり笑う。じわりと広がった熱さは、いつの間にか指先にまで届いていて、握っている雑巾の冷たさも打ち消してしまっていた。
だけど、その“次”はなかなかやってこなかった。
同じ家の中に住む彼がいるのは、ひどく遠い場所だった。辿り着くのは、容易ではなかった。
ようやく機会が訪れたのは、おじさんがコハルちゃんに買い物へ行こうと提案した日曜日。
コハルちゃんは、ぱっと顔を輝かせて、すぐにおじさんの腕に抱きついていた。うれしそうに頷くコハルちゃんの頭を、おじさんはひどく優しい手つきで撫でる。うれしい、と無邪気に声を上げるコハルちゃんの表情は、いつもより数段幼く見えた。
「今日はおばさんもいないし、外でご飯食べようよ。ね、パパ」
コハルちゃんのお願いにおじさんが首を振るわけもなく、おじさんはすぐに笑顔で頷くと、「早く準備をしておいで」と優しくコハルちゃんの背を押した。
はあい、と明るく返事をして、二階へ駆けていくコハルちゃんの背中を眺めながら、わたしはさっきのコハルちゃんの言葉を思い出す。
おばさん。パパ。コハルちゃんは昔から、そう二人を呼び分けている。
おばさんのことを、彼女が親しみをこめて「ママ」と呼んだことは一度もない。それだけでなく、コハルちゃんのおばさんへの態度の節々に、徹底したよそよそしさと明らかな嫌悪がにじんでいるのは隠しようがなかった。
それは、おばさんがコハルちゃんの本当の母親ではないからだろうと思っていたけれど、それにしたってコハルちゃんの態度は辛辣すぎた。
もしかしたら、彼女は知っているのかもしれない。あの部屋に隠されているものも、おばさんがいつもあの部屋で何をしているのかも。
妹。彼はコハルちゃんのことを、そう言っていた。
だけどあの日見た、彼の一重で切れ長の目も真っ黒な髪も、コハルちゃんのものともおじさんのものとも似つかない。どちらかというと、あの眼差しは、おばさんの、
「お前は掃除でもしていろ」
そんなことを考えていたら、いつの間にかおじさんのほうを見つめてしまっていたらしい。
気づいたおじさんは、わたしも買い物につれていってもらえることを期待していると思ったのか、うっとうしそうにそう言った。
短く返事をしてから、あわてて目を逸らす。そのとき、二階から支度を済ませたコハルちゃんが下りてきた。ワンピースの裾をひらひらと揺らして、おじさんに駆け寄り腕を掴む。
早く行こう、とコハルちゃんに促されるまま二人が玄関から外へ出て行くのを、わたしは廊下で見送った。
そっと、ドアをノックする。それから、「わたし、ハナだよ」と小さな声を投げてみれば、ドアの向こうから物音がして、少しして鍵の外れる音が響いた。
戸を開けてくれた彼は、やはり目の上を包帯で覆われていた。
小さく笑って、わたしを招き入れる。この部屋の構造はすべて熟知しているように、迷うことなくドアノブを引いて戸を閉めた彼に
「どうして包帯、取らないの」
ふと浮かんだ疑問を投げかける。
彼は今日も、あの日と同じ服を着ていた。薄汚れて、綻びも目立つのは、暗くても十分にわかる。
「取ってもしょうがないじゃん」
彼は笑ったまま、淡々と言った。
「なにも見るものなんてないし」
見渡して、初めて気づいた。暗いのは窓がないからではなく、窓が雨戸で覆われ、光を遮断しているせいだった。
広い部屋なのに、置かれているのはベッドにソファ、それと小さな本棚だけで、ひどく殺風景だ。埃っぽさはあの日と変わらない。綺麗好きで、家具に少しでも埃が積もるのを嫌がるおばさんが、毎日のように訪れている部屋だなんて信じられない。
「なあ、なんで全然来なかったの」
恨めしげというより、ただ純粋に不思議がっている調子で、シゲルが問いかける。
「……だって、おばさんやおじさんが家にいると、来られないから」
「なんで?」
「この部屋には近づいちゃだめだって、言われてるから」
「近づいたら、どうなるの」
「叩かれる」
ふうん、とシゲルは呟いて、
「かわいそうなんだね、おまえ」
まるでそれだけで全て理解したかのように、言った。
わたしはなにを言えばいいのかわからなくて、黙って彼のほうに向き直った。やっぱり彼は、顔を伏せている。気づけば、わたしはまた、手を伸ばしていた。
わたしが包帯を外す間、シゲルはなにも言わずじっとしていた。
「ねえ」
シゲルの目がわたしを捉えるのを待ってから、口を開く。
今は、包帯はわたしの手の中にあった。この包帯をシゲルに渡したのは、おばさんなのだろう。目を隠すように言ったのも。
ヨシオさん。あの日シゲルが口にした、その名前を思い出す。
「ユリコさんって、誰なの?」
わたしの聞きたいことは、理解したらしい。シゲルはみじんも表情を動かすことなく
「おれを生んだ人」
短く、答えた。
「……どうして、ユリコさんって呼ぶの」
「そう呼べって言われたんだよ。ヨシオさんはそう呼んでたんだと」
「ヨシオさんって」
「ああ、ヨシオさんってのは、ユリコさんの前の夫で」
もう、だいぶ前に死んだけどね。
見ず知らずの赤の他人のことを語るような調子で、シゲルは続けた。これからわたしは、おばさんの顔をまっすぐに見ることができるだろうか。そんなことを思いながら、黙って相槌を打つ。
わたしはこの家に来てからの四年間しか知らないけれど、その間おばさんのおじさんへの態度はずっと変わらない。冷ややかで、どこかよそよそしい。夫婦と呼ぶには、あまりに溝がある。
とくにおばさんのほうは、おじさんに対してあまり興味を持っていないように見えた。おばさんの関心がいつだって別のところへ向けられているのは、嫌でも感じられた。
当然おじさんも、コハルちゃんも気づいていたのだろう。コハルちゃんは呼び方から徹底して、おばさんに歩み寄ろうとはしないし、おじさんはおばさんの分の愛情もすべてコハルちゃんへ注ぐように、彼女を溺愛していた。
「狂ってるんだよ。あの人」
おばさんのことをそう評してみせたシゲルの声はひどく平淡で、まるで、なにもかも諦めてしまっているかのように響いた。
わたしは黙って頷いた。彼女については、嫌悪感すら覚えなかった。ただ、四年間怯え続けてきたその人を、痛烈に、哀れだと思った。
真っ暗な廊下、足裏を擦るように歩いて、ドアの前まで辿り着く。
おばさんの足音も、ドアの閉まる音も、すべて聞き届けている。彼女がいるはずのこの部屋の扉に、わたしは両手を添え、耳を押し当てた。
今までは、音として捉えるしかできていなかった、彼女の声。初めて、その紡ぐ言葉を耳にする。
会話を交わしている気配はなかった。彼女の甘く掠れる声は、ただ一つの名前を繰り返すばかりだった。狂ってるんだよ、そう言ったシゲルの静かな声が、頭の奥に響く。
ヨシオさん。
甘えるように何度も繰り返されるその名前を聞いているうち、ちりと唇に痛みが走った。
いつの間にか、自分が、強く唇を噛みしめていたことに、そのとき気づいた。
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