第2話 過ちを拾った日
わたしが、この家にいるもう一人の存在に気づいてから、三日が経った日だった。
その日はおばさんが、昼から家を空けていた。遠くに住む友人と久しぶりに会う約束をしたらしい。夕食もその友人と一緒に食べるので、夜まで帰ってこないだろうと言っていた。
こういう日はめずらしくない。おじさんは仕事に行っているので、おばさんが出かければ、当然家に残るのはわたしとコハルちゃんの二人だけになる。
いつものように言いつけられた家の掃除を済まそうと、わたしが雑巾を取りに行ったとき
「遊びに行ってくる」
ぶっきらぼうに言う声がして、振り返った。コハルちゃんはすでにわたしに背中を向けて、靴を履いているところだった。
これもめずらしいことではない。わたしと二人で家に残っていても楽しくないのだろう、コハルちゃんはたいていどこかの友達の家へ出かける。
「ちゃんと掃除しといてよ」
うん、と返したわたしの声が届いたかどうかはわからない。それだけ言うと、コハルちゃんはすぐにドアを開け、外へ出て行った。
わたしはあらためて雑巾を取りに行こうと、台所へ向かう。その途中、ふと階段の前で足を止めた。見上げる。心臓が、一度大きく拍を打った。
一度好奇心に負けてあの部屋の扉を開けようとしたあの日以来、やはりわたしがあの部屋に近づいたことはなかった。好奇心は変わらずわたしの中で燻っていたし、五つある食器に気づいたあの日から、もう抱えきれないほど大きく膨らんでいたけれど、それでもむやみに近づくことはできなかった。
まぶたの裏に焼きつくおばさんの顔と、わたしの髪を掴む強い力。もう一度同じことがあったなら、きっとおばさんはわたしを殺すだろう。そう、はっきりとした確信が持てるほどに、あのときの彼女は恐ろしかった。
唾を飲み込む。先ほど聞いた、おばさんの言葉を思い出す。
古い友人と会ってくる。夕ご飯も、彼女と一緒に食べるから、お父さんが帰ってきたら先に食べていて。帰りは夜になると思う。
コハルちゃんは友達の家に遊びに行ったら、まず夕方まで帰ってこない。おじさんの仕事が終わる時間は、どんなに早くても五時を過ぎるだろう。今はまだ、空は明るい。
心臓が、ゆるやかに鼓動を速める。
わたしは息を吐いた。それからそっと、階段に足を踏み出す。ぎしりと木の軋む音に、また少し心臓が跳ねた。
外は明るくても、窓のない廊下の奥はいつでも薄暗い。もし玄関のドアが開く音が聞こえたら、真っ先に自分の部屋に駆け込もう。そんなことを考えながら、奥の扉へ向かって足を進める。
近づくにつれ、心臓はますます速度を速めて拍を打ち始めた。
恐怖もたしかにあったけれど、それを圧倒的に打ち消す好奇心が胸を満たしていた。
コハルちゃんはあの部屋にいる“何か”をひどく怖がっているようだったけれど、もし本当に恐ろしい怪物がいたならどうしよう。ふと、そんな不安が頭の隅に浮かぶ。けれど、足は止まらなかった。止めようとも思わなかった。恐ろしい怪物でもかまわないと、べつのところでは思っていた。
この家に、おじさんとおばさん、それにコハルちゃん以外の誰かがいるのなら、どうしても会いたいと思った。まだ目にしたこともない、正体の掴めないその“誰か”が、どうしようもないほど恋しかったのだ。
ついにわたしは、その部屋に辿り着いた。
目の前にドアがある。他の部屋のドアと作りは変わらないはずなのに、陽の届かない場所にあるからか、そのドアだけはひどく陰気くさく見えた。どこか、禍々しくも。
もう一度息を吐く。そして、ドアノブに手を伸ばした。
手のひらに、冷たい金属が触れる。しかし、握りしめて回そうとしたそれは、途中で、がしゃんと鈍い音を立てて止まった。
突き放すように返ってきた金属音に、最高潮まで高鳴っていた気持ちが一気に萎む。
もう一度手首を捻ってみても、ノブはその動きについてこなかった。
ああ、そうか、と、熱の引いた頭には冷静な考えが浮かぶ。おばさんがあんなにも大切にしているものなのだ。家を空けるときは、鍵くらい掛けていくに決まっている。そうでなければ、あまりに不用心だ。気持ちが高ぶるあまりすっかり頭から抜け落ちていた可能性に、わたしは肩を落とした。
そうだ、掃除しなくちゃ。おばさんが帰ってきたとき、きれいにしていなかったら怒られてしまう。無理矢理に気持ちを切り替えるように心の中で呟いて、踵を返そうとした、そのときだった。
物音がした。続いて、声。
「――ユリコさん?」
小さな声だったのに、その声は奇妙にはっきりと耳に響いた。
全身が強張る。なにも返せずにいるうちに、その声はもう一度繰り返す。
「ユリコさん?」
今度は、さっきより少し大きな声だった。おかげで、今度は声質を捉えることができた。男の子の声だった。声変わりは済ませているけれど、それほど低くはない、幼さの残る声。
わたしは、なにも言えずその場に立ちつくしていた。
声はまた、ユリコさん、と呼ぶ。少し考えてから、思い出す。ユリコさんというのは、おばさんの名前だった。
三度目の「ユリコさん」のあとに、ふいに声が途切れる。
どきりとして、指先から熱が引いた。ドアの向こうにいるのが、「ユリコさん」ではないと気づいたのかもしれない。
しばらく間が空いた。沈黙に包まれているうち、にわかに恐怖がこみ上げてきた。しかし、わたしは動くことができなかった。
奇妙に長く感じられた沈黙のあと、次に聞こえたのは、短い金属音だった。
がちゃりと、静まりかえっていた廊下に響いたそれは、目の前にあるドアの鍵を外す音であることを理解する。続いて、蝶番の擦れる音。同時に、目の前のドアがゆっくりと開く。わたしは夢を見ているような心地で、それを見つめていた。
開いたドアの向こう、いたのは、わたしと同じくらいの背丈の男の子だった。
目は合わなかった。彼は顔を伏せ、足下を見ていた。そうでなくても、彼と目が合うことはなかっただろう。
彼は目の上に包帯を巻いていた。
「おまえ、だれ?」
抑揚のない調子で、彼はそう聞いてきた。
「わた、しは――」
答えようとしても、うまく声を出せなかった。ひどく掠れた声だけが、喉から漏れた。
彼はやはりうつむいたままなので、目の前に見えるのは、彼の真っ黒な髪の毛だった。油に汚れ、埃が付着しているのが薄暗い中でもぼんやりと見える。
わたしが声の出し方を思いだそうとしている間、彼はそっと右腕を持ち上げ、わたしの腕に触れた。形を辿るように、上から下へ撫でる。わたしが質問に答えることも忘れ、彼の手を眺めていると、唐突にその手が強くわたしの腕を掴んだ。
びっくりして顔を上げる。彼の顔は、眉の下から鼻の上まで包帯に覆われているせいで、表情がよくつかめない。それでもその口元に、かすかに笑みが浮かんでいるのは見えた。
「入って」
言うより早く、彼はわたしの腕を引いた。
引っ張られるままに踏み入れたその部屋は、昼にもかかわらずひどく暗かった。埃っぽく、かび臭い匂いもした。陰気さを閉じ込めたような部屋だと思った。
「なあ、おまえ、だれなの」
ドアを閉めてから、彼はもう一度その質問をした。こちらに向き直ったが、やはり顔は下を向いている。
答えようとして、ふいに彼の顔に巻かれた包帯が目に飛び込む。
「……目」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「目が、見えないの?」
尋ねると、彼は口元を笑みに歪めた。そのときに、わたしは初めて彼をまっすぐに見た。上下とも黒のくたびれた服をまとった身体は、服の上からでもわかるほどに細い。加えて異様に白い肌が、不健康さを強烈に主張していた。髪の毛にこびりつく汚れは暗がりの中でも目立って、なにか鼻につく臭いがした。
「見えるよ」
彼はそう答えて、顔を上げた。包帯に覆われている目が、しっかりとわたしを捉えたような気がした。
「じゃあ、どうして」
わたしの尋ねようとしたことは、それだけで察したらしい。彼は口元でだけ笑ったまま
「目隠してたほうが、似てるんだってさ。ヨシオさんに」
彼の言葉の意味は、よくわからなかった。ヨシオさんって誰、と尋ねようとした声は、彼に「でさ」と遮られる。
「おまえ、だれなの。コハルじゃないんだろ」
「……コハルちゃんのこと、知ってるの」
ちょっと驚いて聞き返すと、彼は「妹だよ」と短く答えた。
「いいから、おまえの名前なに」
わたしは答えようとして、ふと思い直した。一歩、彼のほうへ歩み寄る。手を伸ばした。
元は真っ白だったのだろう、汚れて変色したその包帯に触れる。頭の後ろで結ばれていた端をほどけば、それはふわりと手のひらに落ちてきた。握ったまま、そっと手を引く。目元を覆っていた布が剥がれていくのを、彼はじっとしたまま待っていた。
包帯の下から現れた目が、まっすぐにわたしを見据える。
それは、ひどく濁った目だった。まるで、今まで一度として、きれいな光を見たことがないような目だった。
それでもわたしは気にせず、彼の目を見つめ返す。こんなにもまっすぐに誰かと視線を絡めたのは、ずいぶんと久しぶりのような気がした。
「ハナ」
彼は少しも視線を揺らすことなく、わたしを見ていた。まるで、人との目の合わせ方をよく知らないみたいだった。もっとも、それはわたしも同じだった。久しぶり過ぎて、忘れてしまっていた。わたしも彼の目から視線を動かせずにいた。
ハナ、と彼は反芻するようにわたしの名前を繰り返す。頷くと、彼は小さく笑った。そして、おれはね、と覗き込むようにわたしの目を見つめたまま、言った。
この家にやって来て四年目の冬。
その日初めて出会った彼の名前は、シゲルといった。
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