最果てより

此見えこ

第1話 かごのとり



 この家には、けして開けてはいけないという部屋があった。



 二階の、暗い廊下のいちばん奥。

 わたしが開けてはいけないと言われている部屋なら、この大きな家の中にたくさんあったけれど、その中でもとりわけ強く、おばさんに釘を刺されている部屋だった。

 一度、こっそりその部屋を覗いてみようとしたことがある。

 すぐにおばさんに見つかってしまったけれど、そのときの彼女の表情は、まぶたの裏に貼りついたみたいにいまだ消えない。

 かすかに青ざめた顔で、わたしの髪の毛を掴む、その力はぎょっとするほど強かった。気づけばわたしの足は床から離れていて、次の瞬間には頭をしたたかに壁に打ちつけられ、視界がぐるりと揺れた。そこで記憶は途切れているけれど、その日から数日、わたしは一切の食事を与えられなかった。それ以来、あの部屋には近づいていない。

 あの部屋になにがあるのかはわからないけれど、きっと、おばさんのとてもとても大切なものがしまってあるのだろうと、そのとき思った。



 ぎりぎりと、締めつけられるように背中が痛む。無理に閉じていたまぶたは、気づけばまた上がっていた。暗闇にも目が慣れて、天井に描かれた不思議な模様がぼんやり見える。

 痛んでいるのは、夕方叩かれた箇所だろう。痣ができているかもしれない。背中は見えないので確かめようがないけれど。

 わたしはゆっくりと身体を起こした。足音をたてないよう注意して、ドアのほうへ歩いていく。

 ドアノブを引くと、蝶番の擦れる音が、静まりかえった廊下にはいやに大きく響いた気がして、どきりとした。誰かが起き出した気配がないのを確認して、そっと部屋を出る。


 氷水で冷やすだけでも少しは違うかもしれない。薬を勝手に使ったりすれば、またこっぴどく叱られるのはわかっているから、それは叶わないけれど、氷と水を少し拝借するくらいなら大丈夫だろう。

 そう考えたわたしは、一階へ降りることにした。足を着くたび、古い床がかすかに軋むものだから、冷や冷やする。夜中におじさんやおばさんを起こしたりしたら、大変だ。できるだけ忍び足で廊下を進む。


 階段を下りようと、右足を踏み出したときだった。

 奥から、物音がした。

 心臓が跳ねる。全身が一気に強張った。どうしよう、誰かを起こしてしまった。部屋に戻ろうと、あわてて廊下を引き返したところで、ふたたび音が聞こえた。今度は、声だった。


 わたしは思わず足を止める。耳を澄ました。

 それは、よく知っているのに聞き覚えのない声だった。わたしに指図をするときの冷たく低い声とも、怒鳴るときの甲高い声とも似つかない、だけど紛れもない、上擦って掠れた、甘えるような――おばさんの声だった。


 声の聞こえる方向へ目をやる。暗い廊下の一番奥。開けてはいけないと厳しく釘を刺されている、あの部屋。

 おばさんがあんなふうに甘い声で語りかけるところなんて、見たことはない。おじさんに対しても、おばさんの態度は冷ややかなほうだった。

 理由はわからない。だけどそのとき、わたしはすでにわかっていた。今、あの部屋でおばさんと一緒にいるのは、おじさんではない。この家にいる、もう一人の娘でもない。わたしの知らない、おばさんの大切な大切なもの、なのだ。きっと。

 氷水のことも、すでに頭からは抜け落ちていた。布団に戻る。目を閉じれば、またあの日の、おばさんの正気を踏み外したような形相が目の前に浮かんだ。



 翌日、おばさんが買い物に出かけた隙を見て、わたしは台所へ向かった。

 水屋の戸を開け、中を覗く。いつも食事のときに使う、茶碗と薄い皿、それから湯飲み。数えてみれば、三つとも、それぞれ五つずつあった。

 この家にいるのは、おじさんとおばさんに、二人の娘。四人しかいないのだから、食器もそれぞれ四つでいいはずだ。それも、その食器はすべて、つい最近使った形跡がある。

 どきどきと心臓が鳴る。わたしの予想が当たっていることを確認するように、何度も食器の数を確かめていたら


「なにしてるの」

 鋭い声が背中に掛かって、びくりと肩が揺れる。しかし、振り向いたそこにいたのは、わたしと背丈の変わらない少女だったので、いくらかほっとした。

 コハルちゃん、と、とりあえずその名前を呟けば、彼女はぎゅっと眉を寄せてこちらを睨んだ。

「勝手に触るなって言われてるでしょう。また叩かれるわよ。あーあ、知らない」

 吐き捨てて、肩にかかる長い髪をかき上げる。

 彼女が踵を返すと、長い髪も動きに合わせてふわりと揺れた。きれいに手入れの行き届いた、色素の薄い髪。ゆるく内巻きのパーマがかかっていて、柔らかく風になびく。わたしの、真っ黒で硬い髪とは似ても似つかない。おじさんの髪はわたしのような真っ直ぐな髪だから、きっとコハルちゃんの髪は、コハルちゃんのお母さんに似たのだろう。


「コハルちゃん」

 台所を出ようとする彼女の背中に声を掛ける。

 彼女はこのあと、わたしが食器を勝手に触っていたとおじさんに言いつけるのだろう。そうしたら、おじさんはきっとわたしを叩く。最近、手で叩くと自分の手が痛むらしいから、もっぱら鞄やティッシュケースを使うようになってきた。使われるのは叩こうとしたときにおじさんの側にある物だけど、昨日はたまたまゴルフクラブが手元にあったものだから、痛みがなかなか引かずに大変だった。

 思い出したら、また少し背中が痛んだけれど、今はそれ以上に気を取られるものがあった。

 振り向いたコハルちゃんは、不機嫌そうに、なに、と聞き返す。心臓は相変わらず、どきどきと高鳴っていた。


「この家にいるのは、おじさんとおばさんとコハルちゃんとわたしの、四人だけなの?」

 さっと強張ったコハルちゃんの表情は、あの日見たおばさんの青ざめた顔と怖いほどに似ていた。コハルちゃんとおばさんの顔を似ていると感じたのは、それが初めてだった。

 見開かれた大きな目が、わたしを見つめる。なにか恐ろしいものを見ているかのような目だった。やがて彼女の唇がゆっくりと動いて、「あんた」と、低い声で紡がれる。

「何か見たの」

 わたしは首を横に振る。それから、「だって」と水屋のほうを指して

「お茶碗もお皿も、五つあるから」

 コハルちゃんはなにも言わなかった。言葉が見つからないみたいだった。

 しばし強張った表情でわたしの顔を見つめたあと、苦し紛れのように右手を振り上げる。その手は勢いよくわたしの頬にぶつかって、同時に乾いた音が耳元で響いた。

 謝ろうと顔を上げたら、彼女はすでに踵を返していて、結局なにも言うことなく、逃げるように台所を出て行った。


 コハルちゃんが、どこまで知っているのかはわからなかった。

 けして開けてはいけないと言われているあの部屋にある、おばさんの大切な大切なもの。コハルちゃんから見たそれは、まるで恐ろしい怪物であるかのようだった。

 その日からわたしは、夜、なかなか寝付けなくなった。

 冬が近づいて、薄い掛け布団一枚では寒くなってきた布団の中、じっと待っていれば、決まった時間に足音が聞こえてくる。それはおじさんの部屋もコハルちゃんの部屋も、当然わたしの部屋も通り抜けて、奥へと向かう。

 いちばん奥の、一日にそのときだけ開く音を聞く、あの部屋。

 その部屋の扉が閉じる音を聞いてから、わたしは布団を出た。そうっとドアを開ける。奥の扉へ近づかなくとも、静まりかえった廊下では、耳を澄ますだけで充分だった。


 かすかに聞こえる、高い声。それはおばさんの声だけど、知らない人の声だった。

 甘ったるい、おんなのひとの、声だった。

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