妻になれなかった母
池田蕉陽
妻になれなかった母
誕生日に買ってもらったお気に入りの自転車に跨って、ぼくは竹田君の家に猛スピードで向かった。ギアチェンジのカチカチッて激しい音が、ぼくの心を一層騒ぎ立てる。別に急いでるわけじゃない。ただ、早く竹田君と遊びたくてしょうがないんだ。
竹田君と友達になったのは一か月前、三年生になった時だ。席が隣同士で、すぐに仲良くなった。竹田君が好きなゲームはぼくもやってたし、好きなカードゲームだって一緒。今日、ぼくは初めて竹田君に家に誘われて、そのゲームやカードを一緒にすることになっている。
だから楽しみで、ついつい早く家を出てしまった。本当は塾が終わる2時まで待って欲しいと言われたけど、ぼくは待ちきれなくて30分も早く家を飛び出してしまった。早く出たってしょうがないことは分かってるけど、体が言うことを聞かなかったんだ。
竹田君の家に着いた。ぼくのおんぼろマンションと違って立派な一軒家が佇んでいる。まえ学校から帰る時に家の前までついて行ってすごいなと思ったけど、やっぱり今目の当たりにしても感想は変わらなかった。すごいや。
ぼくはわくわくドキドキしながらインターホンを押した。すぐに「はーい」とスピーカーから女の人の声がした。
「竹田君の友達なんですけど」
ちょっと背伸びしながらそう言うと、「あら!」と高くなった声が返ってきた。
「待っててね。すぐ開けるわ」
言葉通りに、ものの数秒で門扉の先の玄関扉が開いた。中から綺麗な女の人が出てきた。一瞬年の離れたお姉ちゃんかなと思ったけど、竹田君は一人っ子で弟が欲しいとボヤいていたことを思い出した。ということは母ちゃんになるのだろうけど、かなり若く見える。ぼくの母ちゃんがブスすぎるだけかな。
「こんにちは」
竹田君の母ちゃんはニッコリと笑った。ぼくも「こんにちは」と返したけど、少し緊張して声が小さくなった。
「さあ、上がって上がって。まだあの子塾から帰ってきてないからうちでのんびり待ってるといいわ」
ぼくは頷くと、竹田君の家にお邪魔した。もちろん、「お邪魔します」も忘れずに。
「そこのソファに座ってて」
「うん」
ぼくは促されるままに大きいソファに座った。
「うわっ」
「どうしたの?」
「すごい! このソファふかふかだ。ぼくの家の座布団なんかと比べもんにならないや」
そういうと、ふふふと竹田君の母ちゃんは笑った。でも本当に座り心地がすごい。座ってるのに座ってないみたいな、そんな感じなんだ。お尻が気持ちいい。
「そういえば名前まだ聞いてなかったわね。なんて言うのかしら」
「山本タカシです」
「タカシくんね。よし、覚えた! タカシくん、ジュースあるけど、コーラかオレンジジュースどっちがいい?」
竹田君の母ちゃんは冷蔵庫に目を向けながらいった。
「ぼく炭酸飲めないんで、オレンジジュースでお願いします」
「あ、炭酸飲めないんだ。じゃあこれからはタカシくんも飲めるカルピスとか買っとくようにするね」
「うん」
なんて良い母ちゃんなんだ。ぼくのブスニキビババアとは全然違う。ぼくはお菓子もジュースもゲームも制限されている。竹田君が羨ましいな。
「はいオレンジジュースね」
竹田君の母ちゃんがそれを机に置いた時、カランカランと氷が落ちる音がした。その時、ぼくの喉がこれを欲していると絶叫した。自転車ダッシュでカラカラになった喉を、ぼくはキンキンに冷えたオレンジジュースで潤した。思わず「うまっ」と声が漏れた。
何となくその後の雰囲気に気まづさを感じ、ぼくはゲームをしてそれを誤魔化していた。内容は全く入ってこない。はやく竹田君帰ってこないかな。そう待ち望んでいると、竹田君の母ちゃんがこんなことを言い出した。
「でもおばちゃん、ホッとしたわ」
「え、なんで?」
ぼくはゲームを中断し、竹田君の母ちゃんの方を見る。
「だって初めてなんだもん。マサトがお友達を家に連れてくるなんて」
「え?」
「だってマサトってあんな体してるじゃない? ずっと車椅子で今まではそれが原因でいじめられてばかり、友達どころじゃなかったのよ。それが三年生となった今は友達まで出来て……おばちゃん本当に嬉しいのよ」
竹田君の母ちゃんは涙を流し始めた。そして。
「タカシくん。マサトと友達になってくれて本当にありがとう。これからも色々迷惑や苦労かけるかもしれないけど、マサトと友達でいてくれる?」
「あ、うん。別にいいけど」
一応そう答えておいたけど、ぼくには竹田君の母ちゃんが何を言っているのかさっぱり分からなかった。
マサトって誰だろう。ぼくはそんな子しらない。ぼくは竹田ユウスケくんと遊びに来たのに。竹田君は車椅子なんか使ってないし、体はピンピンしてるはずだ。竹田君の母ちゃんは誰と間違えているんだろう。
「あ、そうだ!」
ぼくがおかしいなと悩んでいると、そんな気も知らずに竹田君の母ちゃんは楽しげに何かを思いついたようだ。
「タカシくん、今日夜ご飯食べてく?」
「え、あ、いいんですか?」
「もちろん! タカシくんのお母さんにはこっちから連絡しとくわ。電話番号わかる?」
「はい」
ぼくは家の電話番号を思い出しながら口にしていった。すぐに伝えた番号にかけて、二言三言話したあとに電話を切った。どうやらOKだったらしく、竹田君の母ちゃんはウインクしてみせた。ぼくの母ちゃんがそれをしたら、たぶんすごいことになると思う。
「じゃあ早速材料買いに行かなくっちゃ。タカシくん嫌いな食べ物ある?」
「にんじん」
「ふふ。マサトと一緒ね」
だからそのマサトって誰なんだ。竹田君はにんじん食べれたはずだよ。
「じゃあ買いに行ってくるからちょっと待っててね。すぐにマサトも帰ってくると思うから」
「あ、はーい」
結局、マサトが誰なのか分からなかった。ぼくはまあいいやとゲームをしていると、5分後くらいに竹田君が塾から帰ってきた。もちろん竹田ユウスケ君だ。やっぱり車椅子なんか使っていない。そして隣には父ちゃんらしき男の人が一緒だった。
まず、竹田君は家に帰ってくると、ぼくがいることに驚いた。
「え、どうしてタカシくんがいるんだよ」
「ごめん。早く来たから竹田君の母ちゃんに家に入れてもらったんだ。ついさっき買い物に行ったよ」
すると、竹田君と隣にいる竹田君の父ちゃんは顔を見合わせて首を傾げた。
「おかしいな。おれの母さん今友達と海外に遊びに行ってて、明後日まで帰ってこないはずなんだけど。ねえ父さん?」
「あ、ああ。タカシくん……だっけ? 本当にその人はユウスケの母親って言ってのかい?」
「あ、えーと……」
ぼくはさっきから気になっている奇妙なことを二人に教えることにした。
「なんかおかしなことがあって。竹田君の母ちゃん、なんか竹田君のことマサトとか言ってたよ。マサトは車椅子に乗ってるんだってさ。誰なんだろうねマサトって。ははっ」
「マサト? 誰だそりゃ」
ぼくと竹田君は事の可笑しさに笑いあった。
でも、そこにいる竹田君の父ちゃんだけは違った。顔全体が青ざめていて口元を手で覆っている。薬指の指輪が自然と目に入ってきた。
その時ぼくは、さっき竹田君の母ちゃんがオレンジジュースを持ってきた時のことを思い出していた。
指輪は、なかったような気がする。
妻になれなかった母 池田蕉陽 @haruya5370
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