美雨のナイフ

木谷日向子

美雨に濡れた蝉の羽

 黒を白い絵の具で徐々に徐々にぼかしていったような灰色に染まった街に、透明な雨が降っている。六月はいつだってこんな天気だ。雨がない時はジメジメとした嫌な暑さが肌を濡らす。からりと晴れた真夏へ近づいていこうとしているのはわかってはいるのだが。いや、梅雨も真夏も、どちらも嫌いだ。暑さは私の思考を鈍らせる。5月や9月の穏やかな気候ならば、冷静に考えられる場面でも、冷静じゃいられなくなる。

 顔を上げる。少しでも雲間から差し込む太陽の金色の光を浴びたかった。だがそこに広がっているのは、更紗のように折り重なった幾重もの雲ばかりである。

 ざあざあとコンクリートの床に跳ね返り、オレンジのタイルの上に立った、私の革製の黒い靴を濡らしていた。

 玄関先で私と向かい合っているのは、私の勤め先の高校の生徒・蓮村美雨(はすでらみさめ)の母親・蓮村美冬(みふゆ)である。

 つむじから耳の裏を流れ、うなじで一つ結びにしている美冬の髪は、少し艶を失い、幾筋か白髪が混じっている。

 美冬は眉を歪ませて私を見つめていたが、ふっと、俯き、苦悶の表情を浮かべると、瞳に涙を溜め、右手で目頭を抑えた。

「榎本(えのもと)先生……、あの子昨日の夕方から家に帰ってきてないんです。もう先生しか頼れる人がいなくて……どうかあの子を見つけてやってください。お願い致します」

 弱弱しく体をくの字に曲げ、聖一に頭を下げると彼女の耳にかけていた髪がゆっくりと解け、頬に流れた。

 私はその流れを目で追ったが、短く息を吐いた。

 空気の冷たさと相まって、息は一瞬白く濁り、やがて溶けていった。

 うなじに手を置いてしばらく考え込むような表情をした後、美冬に向かい薄く微笑みを返す。

「わかりました。お母さん。どうか心配せずに。私が目ぼしいところを当たって何とか捜し出してみせますので、必ず」

 優しく微笑み、腰を屈めて美冬の顔を覗き込む。

――この偽りの笑顔が自分の処世術なのだと思っている。

 口元だけをうっすら歪ませて、美冬が顔を上げる寸前に、その酷薄な笑みを消した。

「先生……。ありがとうございます」

 美冬は眸を震わせ、微笑むと仏に祈るようにまた頭を深く下げた。

 私はその顔をしばらく見つめた後、意を決したように空を見た。

 鈍い光を宿した今の眼ならば、この曇天の、空の奥までも射抜けるのではないか。そう感じながら、額の上を揺れる前髪をそっと押さえる。


 川崎市にある東高根森林公園は、その名前の通り様々な種の木々が中を覆い、草いきれが濃く漂っていた。「都会のオアシス」としてテレビで取り上げられるほど、自然に溢れており、かつその自然は人の手が入った人工の物ではない。珍しく貴重な公園であった。縄文時代から続く白樺の林や蛍が生命を輝かせ、化学の発展に邪魔されることなく静かに生息し続けている。

 深緑の木々の葉を伝う雨の雫の音がぽつ、ぽつ、と静かに地に響く。

 濡れた土の上を歩く私のスニーカーは泥で一筆一筆汚されていった。両拳を強く握りしめ、物怖じせずに険しい顔で森の中を歩く私の姿は、普段穏やかに森を散歩している近隣の人々が見かけたら、怒っている怖い大人の男として映っていただろう。

右手につけていたオメガの鋼の時計のケースが鈍く光る。黒い円盤の上を、適切な速度で動く銀の分針と時針は、夏の夜の流星群のようだ。

頬を、頭上を覆う木々の葉から落ちてくる濁りない雨粒が時々濡らす。

 私はそれをズボンのポケットに入れていた紺色のハンカチで拭うこともせず、歩き続ける。

(まったくあいつは本当に勝手な奴だ。いつもそうだ。いつも。いつも物事から逃げ続ける。いつも、いつも私から逃げるんだ)

 ふと、葉が重なっているある木陰の前で足を止める。焦れたように足を少し左右に広げ、爪先でどろどろになっている地を緩く掻いた。

「……見つけた」

 私の低い声に呼応するように木陰は揺れる。

 茂みの間から小さな背が見えたかと思うと、徐々に姿を現す小柄なその姿は、毎日教室で見慣れた少女のものであった。 

「蓮村美雨」

 朝のホームルームで一人一人の生徒の名前を点呼するときのようなテンションで彼女の名前を呼んだ。だがその声には静かな埋火のような怒りを込めていた。

 美雨は額に張り付いた細い前髪を鬱陶しそうに右手で掻き分けると、私を認めて睨みつけた。

 彼女の眸は雨の雫を反射させ、きらきらと輝いている。その眸を、彼女はきっ、と敵に飛び掛かる前の猫のように鋭くさせた。

肩先で揃えた緩やかな波を描く髪が、一瞬毛羽立ったように見えた。雨に濡れ、きらきらとした光を纏っている。

「何しに来やがった。なんであんたがここにいる」

 ああ、そうだ。この娘は、こういうものの言い方をする。私は美雨と初めて会った日のことを思い出した。努めて丁寧な物言いをしようとする私に対して、まるで野良猫のように噛み付いた物言いしかできない。こんな口調の少女と出会ったのは初めてだったので、私は戸惑った。その姿は、他の女子生徒からとても浮いており、常に一匹狼のように一人でいた。だが勉強に対する熱意はあるようで、廊下で彼女がいつも図書館から借りた本を読んでいることを知っていた。そして、授業終わりにわからないことがあると、私に恐る恐る、だが怒ったような顔と声で尋ねてくるのだ。そこには、学ぶ悦びに対する純粋な好奇心の色が、アーモンド形の瞳の膜を覆っていた。

 私は瞳だけ憂えたまま黙って美雨を見つめた。眸の表面は凪いでいて、ただ目の前を流れ続ける雨の雫を映し続けている。その雨が一粒睫毛に当たったと同時に、私は凪の水面に漣が立ったような声を漏らした。

「こっちのセリフだ。何をしているんだ君は」

 互いにきつい視線を送り合う。仁王立ちになり、一歩も譲らなかった。

「あんたには関係ねえだろ」

「関係あるだろうが。私は君の担任だ」

「学校は学校。プライベートはプライベート。プライベートまであんたに口出し

される筋合いはないね」

 美雨はひねくれた笑顔を浮かべて私の胸を押し返すように声を出した。私はそれに動揺する様子もなく、ただ静かに低い声を返す。

「今日学校にも来ていなかったくせに。生意気な口を叩くな」

「あぁ?」

 美雨は顔を歪ませ、あからさまに不機嫌な顔になった。

「君のお母さんが心配していたぞ。親を心配させて、君の社会生活の居場所である学校の者も心配させて、一丁前のセリフを吐くな。このクソガキが」

「……」

 美雨は一瞬、私の勢いに押され、たじろいだ。だが、噛んだ唇の間から牙を出すと、呻くような声を出した。

「あんたに何がわかる……」

「……」

 私と美雨の鼻の頭に雫が落ち、鼻孔にそって流れていく。私はポーカーフェイスのままで美雨を見ていた。その表情に苛立ったのか、美雨は右足を一歩踏み出し、吠える。

「あんたにあたしの何がわかるってんだよ! あぁ!?」

 美雨の白い頬に雨の水滴が当たり、跳ね、私ブルーグレイのネクタイにかかる。

 私は黙ったまま、彼女の怒りに反応を見せず、自分の頬を触った後に唇を触り、手に付着した水滴を黙って見つめてた。

――やがてぽつりと呟いた。

「何もわからない。君のことは何一つわからないね」

「だったら教師面すんじゃねえって言ってんだよ!」

 私の人差し指に付着した水滴が雲間から木漏れ日の陽に当たり、一瞬煌めいた。

「確かにわからない、今は。でもわかろうと努力することはできる。だからここに来た」

 一つ一つの言葉を自分で発音するごとに、感情を確かめるように胸に浸透させていった。話している間は自分の指の水滴を静かに眺めていたが、終わる頃に顔を上げて美雨の方を見る。

「……」

 美雨は私の言葉が終わると、あっけに取られたような表情で私を見た。

「わかっていないのは君の方だ。周囲の人間のことを何も考えていない。自分の

中で完結している」

「……」

 私の方を見つめていた後、そのままの表情で足元に視線を落とす。

「何から逃げているんだ。勉強か。家か。……それとも私からか」

「……」

 俯いた美雨の顔に濡れた前髪がかかり、表情が見れなくなる。線の細い前髪から落ちた雫が鼻にかかり、唇にかかり、彼女の白い首を流れ、制服の襟を湿らせていく。雫が鎖骨に触れ、胸元に添って谷間に流れ落ちた瞬間、美雨は短く息を吸い、小声で呟いた。

「……あんただ。逃げているのはあんただ。あんたから逃げているんだ」

「……」

 私は美雨の方を怜悧な眼差しでずっと見つめ続けていた。

 美雨は私から目を逸らし、足元に顔を俯けたままである。

 二人とも何も言葉を発しない時間が続く。私は美雨の前髪から透明な雫が落ち、彼女の整った富士額からくっきりとした二重の瞼の上を、そして長いまつ毛の上に震えて止まり、落ちて彼女の白い鎖骨に流れていくのを追っていた。

 雨音だけが流れている。ふいに沈黙を破るように私が低く小さな声を出した。

「私が好きなのか」

「……」

「それは男としてか」

「……」

「私が好きだから、私から逃げ続けるのか」

「……」

「そうなんだな」

「……自分から気障なこと言って恥ずかしくないのかよ」

 美雨は顔を伏せたまま皮肉に口元を歪めた。そして乾いた笑い声のような声を漏らす。

「そうだよ」

 薄暗い雨が、彼女の柔らかな輪郭をゆっくりと撫でていく。眸は虚ろで無表情のままであったが、私の瞳は一瞬濡れるように揺れた。

「……」

「そうだよ。あんたが好きなんだ。だからもう学校にはいられない。家にも」

「……」

「消えるしかねえだろうが。この感情ごと」

「……」

 雨音がより大きくなっていく。地を打ち、ぬかるんだ穴を抉るように鋭くなっていく。2人の間に起きた長い沈黙を埋めるBGMのようであった。

 美雨は足元に顔を俯けたまま、上着の懐に手を入れた。

 振り切るように懐から手を出すと、彼女の白く細い手に握られていたのはベージュの皮で包まれた細長く小さな物であった。

 ナイフのカバーを外すと、剥けた刃をゆっくりと私に向けた。

「近づくな」

「……」

「それ以上近づいたら刺す」

 私は無表情で美雨の向ける刃を見つめ、少しも表情を動かすことなく一歩足を前に踏み出した。

「…おい!」

 はっと瞠目する美雨の怯えに目もくれず、徐々に速度を上げながら美雨に近づいていく。

「来るな……。来るんじゃねえ!」

「君はいつもそうだ。いつも私から逃げ続けるのだ」

 言葉と同時に足を彼女のつま先に当たるほどに近付けると、躊躇いを一瞬も見せずに美雨のナイフの刃を右手で握った。

「……!!」

 私の右手から血が流れ落ちる。

「あんた……!」

 目を極限まで見開くと、瞳を大きく震わせ、視線を下げると私の右手の流れる血をじっと見つめた。

「血が……」

 美雨は震え声で呟いた。

 その声を平手で叩くように私は怒鳴った。

「……ふざけんじゃねえってんだ、おい!」

「……!」

 ぐっと前屈みに美雨に迫ると顔を鼻先が触れるほどに近付ける。美雨が怯えた表情を見せたが、それにも構わず牙を剥きだした。

「君は何もわかっていない! こんなナイフを私に向けて私がどうなるかとでも思ったのか? 凶器を自分の感情の発露として理解してもらおうと考えるなど、ただの逃げだ! こんな物で自分を守ろうとしなくても、誰かを傷つけようとしなくても、君は……君は……」

 ナイフから右手を離すと血が2、3筋か光の橋を作って青白く光る刃と私の間を流れた。その血塗られた掌で美雨を柔らかく抱きしめる。

 美雨は一瞬何が起きたかわからずに茫然とし、濡れたシャツ越しに感じる私の厚い胸板を頬に感じていた。

 美雨の目の前にぼやけた視界が広がっていき、頬に熱い涙が一つ零れた。私の血塗られた手が、美雨の背に回され、美雨の制服が血塗られていく。

 互いに何も言葉を発することは無かった。雨音だけがぬかるんだ地面を濡らし続ける。

 美雨の細い肩は、気づけば小刻みに震えていた。

 私はそれに気づくと更にきつく美雨を抱きしめる。

 雨に濡れる二人。

 雨音だけがただ流れ続け、私たちの頬を濡らし続けた。

   

 淡いオレンジ色の明かりが灯る私の玄関に、暗い2人の影が立っていた。

黙ったまま俯いている美雨は、雨に濡れた前髪が幾筋が額に張り付き、そこから流れる雫で頬や瞼を濡らしていた。

 私は背を向けたまま一度視線だけをちらりと美雨に向けたが、ふっ、と前に戻し、静かに玄関の上がり框を上がった。

彼女の着ている白藍の夏服が透けて、サックスブルーのブラジャーが透けていたからだ。

「今タオルを取ってくる、そこで待っていたまえ」

 私が家の中へ消えていく足音だけが響く。


 美雨はただ俯き、少し右下を見たまま黙ったままであったが、ゆっくりと顔を上げた。切なげな眼差しを震わせて、榎本が消えていった暗闇を見つめる。

「……」

(あの人、さっきは何だってあんなこと……)

 背中に手をまわし、ゆっくりと擦る。

 雨の雫とは違ったまだ温もりの微かに残るそれは、榎本の血液だ。手を前に戻し、じっと真っ赤に染まった掌を見つめる。ふいに瞳が揺れると、新しい涙の膜で濡れていった。涙が両の瞳から零れる。その涙をぬぐおうともせずはらはらと落とし続けた。

 榎本が、玄関先に戻ってきた。右手には自分で手当てをしたのか、白い包帯が丁寧に巻かれている。凪の表情で少し俯いていたが、上がり框の際まで足先を進めると、肩を震わせ、嗚咽を漏らして泣いている美雨に気付き、はっと目を見開いた。

「蓮村……」

「あんた……何で」

 最後の一粒の涙を流しきると目線だけを上げ、榎本を見る。眸の膜は玄関の曇りガラスに映る淡い光に照らされ、きらきらと煌めいている。

「あたしにこんなに優しくしてくれるの?」

「……教師だからだ」

「嘘」

「教師だという以外に君との関わりはない」

「……」

 美雨は悲し気に目線を下に逸らす。

「あんたも……」

 消え入るような声で呟く。

「あんたもあたしのこと想ってくれてるんじゃないの?」

 榎本は美雨を見つめた後、視線を逸らす。窓から漏れる光が彼の頬を淡いオレンジに撫でて染めている。

「……」

 何かを戸惑うように唇を引き結び、一度目を閉じて下を向いた。やがてゆっくりと動き出すと手に持っていたタオルを美雨の頭にかけた。不意を突かれ、俯いたまま瞠目した美雨の眸にさっと白い光が差した。彼女のその光はタオルに隠された暗い影によって榎本には見えなかった。

「拭いてやる」

 榎本は、節くれだった長い指を持つ手で、美雨の頭を柔らかくタオルで擦るように拭いていった。

「……」

 タオルで隠れる美雨の口元だけが隙間から覗いている。

「拭き終わったら車で君の家まで送っていくよ。ご両親も心配している。明日は

休んでもいいから、気持ちが落ち着いて整理できたら学校に来るように。いいな」

 優しく労わるように美雨の頭を拭っていく榎本の掌や指の感触を頭に感じながら、美雨は冷たかった頬に熱が戻っていくのを感じていた。

(この夜のことも、いつかは過ぎ去って思い出の一つになってしまうんだろうか。この人のことを好きだった気持ちも、卒業して働いていく中で忘れていってしまうんだろうか。こうやってタオルで頭を拭いてくれたことも、雨の中でナイフを握ってくれたことも……)

 柔らかな白いタオルの下で、美雨はきつく瞳を閉じる。ただ、今はこの人の固い手のぬくもりを感じていたかった。この拭いが終われば、もう二度と自分に触れることはないかもしれないこの大きな手を、今この刹那だけは留めていたかった。

――榎本の手の動きが、雨が止むように止まった。

 美雨はそれを感じて、はっと目を見開いた。急にタオルを拭く手を止め、美雨の顔をじっと見つめると、悲しい瞳を浮かべる。

「好きだ」

 榎本の声が、つむじの上に零れ落ちる。

 美雨はタオルの中ではっと目を見開いた。

「私も好きだ……君のことが」

 榎本の低く掠れた声に導かれるように美雨はゆっくりと顔を上げた。タオルの隙間から彼女の白く滑らかな頬と汚れのない透き通った眸が覗き、榎本を真っ直ぐに見つめた。

榎本は美雨の顔を包んでいたタオルを勢いよく取り払うと、美雨の背中に腕を回した。固く逞しい腕が、細く柔らかな美雨の体を強い力で抱きしめる。

 冷たく湿った雨の空気に纏われていた2人の間を、榎本が急に詰め、美雨の顔の前に榎本の顔が重なった。瞠目したまま伏し目がちの榎本の瞳を、網膜に映したかと思うと、熱い吐息を唇に感じ、次いで薄いが弾力のある大人の男の唇が触れた。

 桜色の潤った美雨の唇を包み込むように長い間口づけを交わし、ふいに美雨を突き放すと視線を逸らした。

「……先生!」

「すまない……どうかしていたようだ」

「やめないで……」

「……蓮村……」

 気付けば榎本は無意識に切ない泣き顔を浮かべる美雨を抱き寄せていた。

 そして美雨との体の空間を少し開けると、美雨の鼻先と自分の鼻先を極限まで近づける。

 彼女の凛と光る眸は、榎本の心を温かく濡らした。じっとその虹彩を見つめていたいと思った。微塵も動かずに。やがてゆっくりと唇を開くと、艶めいた吐息を吐くように呟いた。

「愛している」

 一瞬雷光が窓から煌めき、美雨を射抜く榎本の端正な顔を白く照らした。美雨の頭を乱暴に引き寄せ、噛むように口付ける。

榎本の苦し気に眉をしかめながら目を閉じている顔は暗闇の中うっすらと視界に映った。

一瞬その榎本の表情を見つめた後、美雨は瞼を震わせ、ゆっくり目を閉じる。外では雨音が激しくなっていく。雷光もまた落ちたのだろう。彼女の瞼の裏で赤く弾ける光が見えた。

榎本が一度唇を離すと、もう一度どこかで落ちた雷光が閃き二人を照らす。目を開き、その光の中で白く浮き上がった互いの姿を認め合った。

――もうこの愛の深みへと落ちていく覚悟は決まっていた。

 吐息が淡い白さを抱きながら光り、やがて黒い闇へ溶けていった。


 鋼のような逞しい背中を外から漏れる淡い月光が撫でる。浮き上がる汗が艶めかしく彼を彩っていた。普段教壇で瞳を伏せながら、静かに教科書を開いて授業を進める紳士然とした男からは想像もできないほど逞しい肉体だった。

 制服姿のまま榎本に組み敷かれた美雨は、火のように熱い彼の唇を瞳を固く閉じて受け止め続けていた。

 布団もかけずに絡み合う2人を部屋の暗闇が包み込む。

 榎本は言葉も発さず、美雨の唇を貪るように求め続けていた。口づけたあとに糸を引くように粘着力を持ちながら唇と唇が離れていく。互いに蒸れた熱い息を吐き合う。荒い呼吸のまま相手を見つめる。窓から溢れる月光の白い光が、美雨の澄んだ瞳に光を宿す。

 榎本は呼吸を落ち着かせると、美雨の額にかかった汗で濡れた前髪を包帯を巻いた右手でかきあげる。

「……美雨」

 掠れた声で、彼女の名前を呼んだ。普段苗字でしか自分のことを呼ばない男の声から、艶を含んで自分の名前を呼ばれ、美雨は泣き笑いのような顔をする。

「……先生……やっと、あたしのこと名前で呼んでくれたね。ずっとそう呼んでほしかった。美雨って」

 榎本は瞳を細め、緩く震わせる。

 そして、右手を美雨の前髪に置いたまま、ゆっくりと鼻先と鼻先が触れ合う距離まで美雨に近づく。

 2人は見つめ合う。湿った互いの吐息を肌に感じながら。

 美雨の黒曜石のような瞳の膜が盛り上がり、涙がひとしずく、流星のように彼女の滑らかな頬を伝う。

 糸を切ったように榎本が顔を近づけ、彼女の唇を食んだ。口づけながら美雨の胸に右手を置く。初めはゆっくりと、やがて激しく揉みしだいていく。

「ん……く……」

 目を閉じながら苦悶の表情を浮かべる美雨の表情を、榎本は静かに見つめていた。彼の額に浮かんだ汗が、彫りの深い彼の瞳の横を通り、高い鼻筋のてっぺんで止まると、雫となって美雨の瞼に落ちた。

 美雨はそれを感じたのか、僅かに眉を寄せた。

 榎本は薄く瞼を開き、その動きを見ると、己の体の温度が上がるのを感じた。そして暴力的な衝動に襲われる自分の理性を、遠いところから眺めていた。自然と右手が動き、美雨の制服の鮮やかなスカーレットのリボンに手をかける。

 身を硬くする美雨を感じながら、彼女の性格と反して意外と丁寧に結われていた蝶結びの端を摘むと、息をつかせぬ速度で解いた。しゅるり、と音を立ててリボンが彼女の体を通り過ぎ、ベッドの上へと落ちていく。そして、透けたシャツの色と同じ色をしたボタンを、両手で外していく。包帯を巻いた片手は、添えるように動かしていた。半分までボタンを外すと、右手で右半身のシャツをずらした。

彼女の滑らかな白い腹の上に、盛り上がる2つの双丘の上に被せられたブラジャーが現れた。アントワネットピンク色のそれは、彼女の肌の色にとても似合っており、教室で見せる凶暴性からは見えなかった彼女の神秘性を引き摺り出す。


「……」

 

 美雨は片手を両の瞼の上に乗せて顔を隠す。彼女の頬は羞恥からであろう、夜目でもわかるほど薔薇色に染まっていた。

(かわいい)

 榎本は美雨の体に覆い被さったまま、素直にそう思った。彼の湿った体と反して乾いている長くふしくれだった指先で、そっと彼女の柔らかな頬に触れると、彼女は片腕を瞼から額へ上げる。濡れた瞳を揺らして榎本をまっすぐに見つめ、薄く唇を開いた。

「先生……あたし初めてなの」

 榎本は美雨を見下ろす。彼の体は、湿っていることも手伝って、窓から差し込んでいる月光を受けて、淡く光を放っていた。

(先生、蛍みたい)

 美雨は、茫とした頭でそんなことを思った。

 やがてどこかへ雷が落ちたのか、刹那に、白い光がカッと部屋全体を眩しくし、彼らの体が燃えて煤のように真っ黒な影となり、やがてまた夜の青に溶けていく。

 榎本は片手を美雨の体の横から離すと、ズボンのベルトを外した。


 美雨はその夜、目の前に赤や青の色鮮やかな花火が散るのを見た。


 ベッドの上で、美雨は仰向けに横たわっていた。何かを悟ったような静かな水面のような表情で、天を仰ぐその白い姿は、神々しさを纏っていた。朝の柔らかな青い光が、彼女の瞳の膜に、同じ色の凛とした灯火を与えている。

 夏の蝉が、窓の外から鳴いている声が聞こえる。蛹から羽化した最初の一匹だろう。この夏限りの命を懸命に揺らし、愛を交わす相手を探すのだ。彼にとって生涯たった一人の相手を。

 蝉が蛹から羽化する時に見せる薄青い美しい羽の色が、私の脳裏に浮かんだ。

 美雨は不意に上半身を起こすと、傍に落ちていた彼女のシャツを肩に羽織った。シャツは一晩で乾いたのか、彼女の裸体を不透明に隠した。昨日好きなように撫でていた美雨の陶器のように滑らかな白い太ももが、むきだしになってベッドに置かれている。その下を、美しい適度な肉を持った細い脚と、彼女が内側に潜める骨を浮かせた足首が、百合の茎のようにすらりと伸びている。

 瞼を伏せ、長いまつ毛の影を頬に宿している彼女は、抱いた前よりも艶を帯び、美しくなっていた。

(蛹から羽化した蝉だ)

 私はくだらないことを考えを浮かべ、瞳を伏せ、皮肉な笑みを浮かべると彼女から目を逸らした。味わった彼女の体は桃のように瑞々しく甘かった。今まで抱いたどんな大人の女よりも。

 私は彼女よりも幾分か先に起き、服を着ていた。だが、朝の爽やかな空気を感じたいと思い、上に着たシャツは前だけはだけていた。趣味のテニスで鍛えていた胸筋と腹筋が窓から吹く、夏の乾いたそよ風に揺れ、覗いている。美雨はそれを見ているのだろう。彼女の視線を気配で感じた。

「……晴れたな」

 私は静かに声を漏らした。

 昨夜の激しい雨は嘘のように、天気は晴れ上がり、太陽の周りは日暈(ひがさ)が出来ている。暑い雲は薄れ、間から紺碧の空が見える。今までに目にしたどんな空よりも美しいと感じた。この空の景色を、私は生涯忘れないだろう。

「……やっぱ血って出るんだね」

 美雨の気怠げな声が背後に聞こえ、私は体を向ける。

 彼女が見ている視線を追うと、ベッドのシーツの上に乾いた血の跡が、てんてんと線香花火のように散っていた。

 美雨は私が見ていることに気づき、顔を上げると、聖母のように微笑んだ。

「ありがとね」

 私は朝の光に朧に浮かび上がる彼女の晴れやかな顔を見つめていた。なぜか驚き、しばらく瞳を揺らして瞠目していたらしい。そして、糸が切れたように彼女に近寄ると、ベッドに上がり、抱き寄せてその細く白い首筋にキスを落とした。           

(了)


 

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美雨のナイフ 木谷日向子 @komobota705

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