俺の部屋に天使が転がり込んできた件について

夏山茂樹

第1話 守護天使という名の少女

「……それで、今も奥さんの夢を見るの?」


 静かなカウンセリングルームの中、年老いた女医が美里準に聞いた。そよ風が春の訪れを告げる季節で、病院を一歩出れば一面青い空が駅前の街の上に広がっている。だがこの男はとある時から世界が灰色に見えるのだ。


「今日は空から降りてきて、私に手を差し伸べるんです。『天国はこの街とは違って花が一面に広がっているわ』って」


 アルコールが体中に廻っているからだろうか。この男は体がフラフラした状態で、その骨と皮しかない腕を伸ばして手を伸ばす。


「先生、天国ってあると思いますか?」


 虚ろな目をした男は伸びっぱなしの髭をたくわえて、その汚い口から天国の有無を女医に確認してきた。元々は自分だって同じ類の人間なのに。


「それを私に尋ねるの?」


 答えはあなたの中にありますよ。そう静かに言って眼鏡を上げた女医のシワを、男は数え続けた。

 この女医ほどではないが、自分の妻にもシワが刻まれ始めた頃。彼女が洗面台の上でケアをしながら年をとっていく彼女自身の顔に文句を言っていたことを。


「ねえ準、私ってまだ二十代に見えるよね?」


 準の妻は看護師だった。地元の市立病院では脳に外傷を負った子供たちの世話をしていた。溌剌としていて、纏めた黒髪と清潔感ある化粧は彼女の評判にも良い影響を及ぼしていたのだ。

 彼女は常に患者たちに対して気を遣い、特に思春期の少年少女たちの唯一夢中になれる話し相手となることができたのだった。


「ねえ、漫画で読んだんだけどさ……」


 その日は二月の下旬で、穏やかな日光が窓越しに入り込んで気持ちいい日だった。日光を浴びることができなかったインデル症候群の患者だった少年が、ある日日光を浴びれるようになったので彼に注目しようと様々なメディアが来ていたのを準は昨日のように思い出せる。

 そんな彼がラテン系の言語で描かれた子供向けの漫画を電子書籍で読みながら、子供らしい屈託のない笑顔でキャラクターを指さしては笑っている。


「この出っ歯がモニカ、この緑の服がセボリーニャ」


「『セボリーニャ』? この病院にも売ってるよな。あれ美味しいよね」


「そのセボリーニャです。ブラジルでは人気あるんですよ」


「へえ。だから緑色のペットボトルで売られているのか」


 白衣を着た準が勝手に納得していると、少年は飛び降りたことが突如フラッシュバックしたようで、カタカタ歯を震えわせて自分の肩を抱いて呟き始めた。


「せんせ、ごめんなさい。真瓜さん、ゆるして。おれもう注射はいやだ。脳味噌をミキサーでかき混ぜられるような感覚がするんだ……」


 エムネとかいうSNSではおもちゃにされていた彼だが、そんな彼にはファッションを参考にする人もいる。右側だけ伸びたサイドヘアを休日になると、友人が結びに来てくれるそうだ。だが彼はそんなヘアスタイルを気に入って、今度は自分で髪を結び始めた。


 自活をする準備ができていてよし。そう準や彼の妻が思い始めた途端、少年のフラッシュバックが始まって自宅での出来事や、彼自身の過去を語り出す。過去との対話という形で。


 だが準はその発作が始まると妻に任せて母親を呼びに電話をかけに行くのだった。そんな日のこと、発作の治った少年が戻ってきた準にさっきの漫画を見せて、金髪の天使を指さした。


“Anjinho”


 そう名前の書かれた天使は青い瞳で少年の瞳をじっと見つめていた。少年はどこか落ち着いた様子でひとこと言った。


「アンジーニョが守ってくれたのかも」


「アンジーニョ?」


「ああ、この天使です。こいつはセボリーニャの守護天使なんですよ。おれもいつも飲んでるから、守ってくれたのかもしれませんね。セボリーニャ」


「ほう……。守護天使かあ……」


「先生の奥さんも、先生にとっては守護天使だと思いますよ?」


「そんなことないよ。ははは……」


 こんな会話を少年としていた日、飲み会の途中にスマホが鳴った。


『美里ももさんの旦那さんですか?』


 よくスマホの画面を見ると一一九番からの電話だった。何か不安を感じた準は酒でフラフラと心地いいなか、電話の相手に答える。


「ええ、そうですが……」


『美里さんの自宅から火災が発生したんですが、その焼け跡から女性の遺体が。損傷が激しいので藤峰病院まで来ていただいても大丈夫ですか?』


 鷺沢にある自宅が。新築の住宅が焼けた。それよりも妻が焼死した。自分が酒を飲んで楽しんでいる間に。そのことを理解すると、準はふと襲われた罪悪感で焦燥し、送迎役の医師に怒鳴りつけた。


「藤峰病院まで送ってくれ!」


「ちょっと待てよ、どうしたんだ?」


「俺の家が焼けたって……。ももさんが死んだかもって……」


 もはやどんな感情が湧いてきたのか、準にさえ分からなかった。そのまま湧き出る涙を手で拭いながら崩れ落ちる。何が起きたかを察した送迎役は準を背負って車に乗せ、自身の職場である病院の遺体安置室へ向かった。


 遺体安置室に連れて行かれると、準は黒焦げになった自身の妻と再会する。そこで準は、彼女が普段使っていた化粧品がうっすらと肌に塗られていたのに気づく。


 守護天使は黒焦げになって翼を焦され、地へ堕ちた。その堕ちた場所は運悪くアスファルトの固い地面で、誰も止めてくれなかった。

 そのまま天使は死に、それが守っていた相手も煉獄へ落とされた。果たして妻の葬儀と警察による実況見分が数日ほど続いたが、ずっと準の心は煉獄の中にあった。


 それから妻の死を忘れようと仕事中毒になったが、毎日眠れずそれが何日も続いた。すると、巡回中に倒れ、そのまま天の川がある天へ魂が昇っていく感覚を覚える。空は次第に暗くなり、星々が輝いてずっと何気なく見つめる。

 すると、黄色い頭にトナカイのようなツノを生やした天使が何か言ってくる。中性的な外見をしたそれは、男とも女とも区別がつかない声で言った。


「キミは死ぬには早すぎるよ。戻りな」


『じゃあ、俺の妻はなんで……?』


「わかんない。でも、ぼくにはわかるよ。生まれた頃からそう定められていたって」


『…………』


 何も言い返せないまま、トナカイに天から突き落とされると体は病院のベッドの上にあった。どうやら過労死寸前だったらしい。そのまま準は退職し、羽黒台という街へ移った。


 評判のいいカウンセラーのもとへ通いながら次の職場を探していたが、精神状態がよろしくないという理由でいずれもお見送りの結果をいただいていた。


 女医の答えを思い出しながら、首を吊るための縄と最後の晩餐用の発泡酒を片手に藤峰駅へ向かう。着いたのは二一時を過ぎた時だった。そのまま階段を上がって酒を飲みながら公園へ足を向けた。

 駐車場から見える藤峰公園は夜桜が咲いていて、桜祭りが開催される時期だった。一足早くライトアップされた夜桜を見ながら、準はそのまま公園の奥へ足を進めた。

 すると、木々から離れた奥に雷が当たったように幹が折れた木があって、その上にはトナカイの角を頭につけた金髪が倒れていた。焼けた木の上にそのまま仰向けに倒れていたトナカイ角は翼が焦げていた。


「ああ……。あの夢のって、え!」


 夢の中の存在だと思っていたトナカイ角の子供が倒れている。翼を焦がしたそれは、木の上で気を失っている。いや、もしかして夢を見ているのか? 準はそれの翼に触れる。すると、トナカイ角が叫びだす。


「イタっ!」


 その大声に驚いた準は腰を抜かし、そのまま地へ尻餅をついた。


「キミは……」


「おい。もしかしてお前は天使か?」


「そ、そうですが……。どうしよう……」


 困惑するトナカイ角に、準は赤い顔で睨みつけて聞く。


「なあ、天国まで連れて行ってくれよ。天使さんヨォ」


「死にたいんですか?」


「ああ。そのためにここに来たんだ」


 困惑する天使は、焦げた自身の翼を守るために起き上がり、暗闇でやっと縄を見つけた。


「ぼくの翼を治してくれるなら……。いいですよ」


「えっ、マジで?」


「ええ」


 だが準は縄と財布以外、何も持ってきていない。そこで仕方なく朝までそばにいてやることしかできなかった。


「なあ、お前。名前は?」


「レノン。ドラグネットです」


 ドラグネット。アメリカの古い番組のことか? それともそのまま英語で『包囲網』? 混乱する準は、そのまま羽黒台の自宅に戻っていることに気づく。


「お前がワープさせたのか?」


「ええ。こう見えてぼく、日本の暦ではあなたより年上ですから」


 白い服からは両性有具の性器がチラリと。やはり天使には性別がないのか。


「お前、人間になれるか?」


「男ですか? 女ですか?」


 いきなりの二択に、女が恋しかった準は即答した。


「女!」


 すると、準が瞬きをしている間にレノンは白いワンピースを着た、金髪のソバカス娘となっていた。だが体は小さいまま。これでは抱けない。


「だいたい十歳くらいだな」


「何ぼくのことを診断してるんですか! 天国に行きたいんですよね。それならまずはぼくの翼が治るまで、一緒に暮らしてくれませんか?」


 準が部屋を見渡す。妻の遺品が置いてある部屋と、自室の二つがある。久しぶりに人肌が恋しくなって、準はそのまま言う。


「じゃあ、俺と寝よう」


「一部屋あるじゃないですか?」


「あそこは聖域。サンクチュアリだ。だからお前には入らせたくない」


「そうですか……」


 準はそのまま、困惑したレノンを抱き上げるとそのまま部屋に入る。ベランダから朝日が心地よい。久々に小さな体を抱いて、人肌を感じる準はそのまま意識を手放した。

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