第九話 出立

「厄介になりました」

 采女は大刀を手に式台へ降り、りくへ礼を述べた。

 快晴だ。若葉の香りが清々しい朝である。掃き清められた敷石は、打ち水で黒々と濡れていた。

「なにもおもてなしできず、お恥ずかしゅうございます」

 りくは膝をつき、丁寧に頭を下げた。

「馳走になりました。夜分にご迷惑をかけた上、手当てまでして頂き恐縮です」

「具合はいかがでございますか」

「この通り」

 云って、采女は足を踏む真似をした。実際、とても軽かった。痛みもだいぶ薄らいで、これならば当分歩き通しても障りあるまい。

 ちらりと傍らにある桜の屏風に目をやった。

「お内儀は、これからもここで暮すおつもりですか」

「利助がおりますし、夫の側を離れたくはございません。いつか私もあの桜の下で共に休むことができればと、そればかりを念じております」

 そうして、さも愛し気に屏風に指を這わせた。

「ご亭主がうらやましい」

 采女は、心底から云った。

「つまらぬ話を申し上げました」

「では、これにて」

「道中お気をつけて」

 利助が門を開き、昨晩来た道をとって返す。

 桜は散り始めていた。時折風に乗って、花びらが波のようにふき寄せてくる。

 采女は、声なき声を聞いていた。引き止めようとする手を、気づかぬふりをして邪険に振り払う。

 救いを求める声は、なおもまとわりついて離れようとしない。

「失せろ」

 途端、気配は止んだ。無言で追いかけて来る恨めし気なまなざしを黙殺して、道を下った。


 街道はすでに賑わっていた。遠まきに坂上の桜花に感嘆し、なかば崩れかけた土塀の間に覗く、朽ちた館を指してささやき交わす。

 采女はその間をすり抜け、北へと足を向ける。


 最後の花弁を払い落とすと、土の上で恨みくねった。



(了)

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天偏の花 濱口 佳和 @hamakawa

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