春風ひとつ、想いを揺らして

いいの すけこ

春色のリボン

 幼い頃に住んでいた、小さなアパートは無くなっていた。

 

 小学三年生に進級する直前で引っ越した私は、実に十年ぶりに懐かしの地を訪れた。

 両親はこの地ではそもそも余所者で、当時の仕事以外にこの地に住む事情などなかった。なので私も、引っ越し先から一時間以上かかるこの土地を今日まで再訪することはなかった。

 今回の訪問だって、さして深い事情などない。

 ただ、大学の春休みはすごく長くて、遠出のしがいがあったから。


「なくなっちゃったんだあ……」

 かつて住んでいた場所はコンビニになっていた。一瞬、道を間違えたかと思うほど旧アパート周辺は様変わりしている。

 ごちゃごちゃと古い家があった辺りは道路になり、かろうじて残ったのであろう家々も、いくつか新しく建て替わっていた。区画整理が進んだのだろう。どうせアパートもなくなるだろうしねと、引っ越しの準備をしながら母がよく口にしていたものだ。道路脇にきちんと残されていた小さなお不動さんが目に入らなければ、本当に迷っていたかもしれない。

(お花屋さんも、なくなってたな)

 駅からかつての通学路を通ってきてみたら、途中にあった花屋もなくなっていた。確か、クラスメイトの実家だったはず。


(ソウちゃん、今何してるんだろ)

 けれど私が思い出していたのは、花屋の家の子のことではなくて、別の男の子のことだった。


 アパートのお隣に住んでいた、ソウちゃん。

 同い年で、小学校に上がる前からしょっちゅう一緒に遊んでいた。母親同士がおしゃべりしてる横でおままごとをしたり、補助輪つき自転車を乗り回したり。

 小学校に上ると学校内で一緒にいることは減ったが、それでも時々揃って帰ったり、放課後二人で宿題をしたりした。

 同学年にはたくさんの男子たちがいたけれど、その中でも特に優しい男の子だったんじゃないだろうか。

 

 彼を優しいと思ったのは、引っ越しの直前。

 その時、私は彼を傷つけてしまった。


 転校前最後の帰りの会で、私はクラスメイトから花束をもらった。

 淡いピンクのスイートピーが二本、透明のフィルムにくるまれて、黄色いリボンで結んである。

 どうやらこれは、例の花屋の子がクラスにいたから実現したらしい。花を贈られたのは、これが人生初だったように思う。

 寂しさはあったけれど、まだ幼い私は『別れ』というものを切実なものとはとらえていなくて、涙一つ見せず学校を去ったのだった。

 その日はタイミングが合わなくて、ソウちゃんと一緒に帰ることもなかった。 


 傷めないように丁寧に持ち帰った花を、私は自慢げに母に掲げて見せる。

 良かったねえ、と笑った母はしかし、次には眉根を寄せてこう言った。

「でも、今お花もらっても困っちゃうなあ。引っ越しの時に折れたりしおれたりしても悲しいでしょ?」

 要するに邪魔だということを母は言った。

「私がちゃんと持っていくもん」

沙耶さやにも引っ越しの日はいっぱいお手伝いしてもらうんだから、花のことなんかいちいち気にしてられないよ」

 軽くてかさも取らない花束一つが、引っ越しの荷物になるのかどうかは今でも疑問だが、私は母に対抗する言葉も有効な手段も持っていなかった。

「それ、大家さんちにあげてきたら?」

「でも」

「そうしなさい」

 提案からはっきりとした言いつけに変わって、私はなすすべもなく家を出た。一階に住む大家さんは可愛がってくれたから、私の事情を分かってくれるだろう。けれど、薄情な人間だと思われるのは嫌だった。もう顔を合わせることがなくったって、クラスメイトにも後ろめたい。


「沙耶ちゃん?」

 下ろうとしていた階段の下から、声をかけられる。

「ソウちゃん」

 私より遅く学校を出たらしいソウちゃんが帰って来た。私は花束をぎゅっと握る。

「あ、その花」

「この花、ね。お母さんが引っ越しに持ってけないから、大家さんにあげて来なさいって」

 どうしてこの時、適当にごまかせなかったのか。

 幼かったから。

 咄嗟だったから。

 何よりも、後ろめたかったから。

「そうなんだ……」

 ソウちゃんの目線がそれる。

 何か言ってほしいような、欲しくないような。ソウちゃんが口を開いた。

「沙耶ちゃんに花束送ろうって言ったの、俺なんだ」

 その言葉に、私の頭が真っ白になる。

「沙耶ちゃん、遠くに行っちゃうって言うから。先生と、家が花屋の柏木かしわぎさんに頼んで、花束用意したの。そっか、いらなかったんだ」

 残念だな。

 ソウちゃんの言葉が胸に刺さる。

 違うの、とか。お母さんが、とか、いっぱい言い訳したかった。

 でも、何を言ったってソウちゃんを傷つけた事実は変えようがないだろう。

「いらないなら、俺が持ってくよ。ちょうだい」

 握りしめたせいで、フィルムが歪んだ花束。それをソウちゃんの伸ばされた手に載せようとして。

「沙耶ちゃん?」

 やっぱり、できなかった。

「やっぱり、いらなくない」

 自分の胸に引き寄せて、細い細い花束を抱きしめる。

「でも、持って帰ったらおばさんが捨てちゃうかもよ」

「そうかも。どうしよう」

 半べそで言う私の胸元にある花束を、ソウちゃんが見つめる。


「……リボン」

「え?」

「そうだ、リボン。リボンなら枯れないし、沙耶ちゃん、黄色好きだからそのリボン選んだんだ。だからそれだけでも、持って行って。それで充分だから」

 ソウちゃんは、花束に結ばれた黄色いリボンを指さした。

 ソウちゃん、私の好きな色をわざわざ覚えてくれていたんだ。

 私はソウちゃんの好きな色なんて、知らないのに。

 私はリボンをほどいた。フィルム包みだけになった花束をソウちゃんが受け取る。

「沙耶ちゃん、遠くに行っちゃうだろ。そしたら、大人になるまでもう会えないかもしれない」

「うん」

「大人になったら、顔とか変わって、もし会っても沙耶ちゃんだってわからないかもしれない。だから、そのリボンが目印な。またこっちに来ることがあったら、そのリボンを髪とか腕とかに、結んどいてよ」

 見つけるからさ!

 ソウちゃんは笑顔で言った。

「うん!」

 菜の花と同じ色をした春色のリボンは、約束の印になる。


「なっつかしいなあ……」

 人気のない元通学路を、駅に向かって引き返す。

 アパートに来たからと言ってソウちゃんに会えるとは思っていなかった。そもそもあのアパートの部屋数や間取りから言って、ファミリー層が長く住む場所ではなかったのだ。

 それに。

 大人になったら。

 そうは言ったけれど、実際は年を重ねれば会えるというものでもない。ソウちゃんが言った通り、顔つきとか雰囲気とかが変わってわからなくなってしまうからだけじゃなくて。

 幼い子どもが大人になるまで、人と人とのつながりを保ち続けるのがいかに難しいか。

 心の片隅に残っている大切な思い出も、約束も。

 目印のリボンも。

 結局、現実的には私とソウちゃんを繋ぎ続けはしなかった。

「リボンは、とっておいてあるけどさ」

 鞄のポケットからリボンを取り出す。

 鮮やかな黄色のリボン。

 約束のリボンがあって。いつか会えると、根拠もなしに信じていたから。

 だから手紙とか、電話とか、現実的な手段が私とソウちゃんの間からは抜け落ちてしまっていた。

「いい思い出だよね」

 わざわざ口に出していった。

 街中を歩いていて知人に偶然会うということが、そう頻繁に起こらないように。

 今日も何も起こらずに、このままここを離れるのだろう。

 

 それでもなんとなく、私はリボンを髪に結んだ。

「……ないわ」

 手鏡で確認する。

 光沢のある綺麗なリボンだが、そもそも包装用のリボンだ。薄っぺらくて、端はほつれかかっている。ヘアリボンにするにはあまりにも貧相なのに、それでいて鮮やかな色が目立つ。そもそも今どき、バレッタでもヘアゴムでもない帯状のリボンを、そのまま髪飾りにするのが珍しい。

 ほどいてしまおう。

 一度結んだリボンに、手を伸ばそうとして。


 薄くひらひら風になびくリボンは、とても目立っていた。

 菜の花と同じ色をした、春色のリボン。


「沙耶ちゃん?」

「え?」


 暖かな風が吹く。約束のリボンが風に揺れた。



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