B-side

 犯人は現場に戻る。桔平はその言葉の意味を身を持って思い知らされた。車椅子の車輪を回転させ、流れ着いた先はすっかりおなじみJR奈良駅東口駅前広場。抜け殻のようになった桔平は、観光案内所の軒下で道行く人々をぼんやりと眺めていた。


 人生詰んだ――桔平のような境遇に陥った者のことをネットではそう呼ぶ。法律を犯してまで蓄えた一億円は葉山たちに持ち逃げされ、被害者の家族には個人情報を握られてしまった。近いうちに警察官がやってきて、自分を逮捕するだろう。お先真っ暗な未来を想像し、桔平は首をうなだれた。


 少しばかりの期待をこめて、ズボンのポケットをまさぐってみる。当然、財布はない。電車を使わなくても家に帰ることはできるが、今の桔平にそんな元気はなかった。


 こうなったらヤケクソだ。どうせ捕まるのなら、もう一つぐらい罪を重ねても大差ないだろう。破れかぶれな思考の果てに『キセル乗車』という結論に達した桔平は、おもむろに顔をあげた。そして、通りの向こうからやってくる飛永親子の姿を目撃した。


 弾かれたように、建物の柱に隠れる桔平。予想外の事態に、心臓が早鐘を打つ。どうしてあの二人がここにいるんだ? 飛永家は近鉄沿線にあるはずだろ?


 桔平が遠目から様子を伺っていると、飛永親子はエスカレーターに乗って、改札口の方に消えた。電車に乗ってどこかに出かけるつもりなのか。一応の説明はつくが、そんな単純な話ではないような気がする。桔平は嫌な予感を覚えて、その場で待った。


 案の定、飛永親子は戻ってきた。諒子が携えているものを目の当たりにして、桔平は愕然とした。それは、一度目の身代金引き渡しに使用された茶色いトートバッグだった。


 あのカバンは、葉山と渡辺が回収したはずでは? そんな疑問が湧いたのも束の間、さらなる衝撃が桔平に襲いかかった。息子の翔太が、縦長の白い封筒を手に持っていたのだ。


 それを目にした瞬間、桔平は誘拐事件の真の構図に気づいた。葉山と渡辺は最初から、葉山が保管していた一億円だけを狙っていたのだと。


 諒子がトートバッグに詰め、桔平がロッカーへと運んだ一千万円。あの金は回収されることなく、ロッカーの中に放置されていた。葉山は桔平に身代金の回収が済んだと嘘の報告を行ったうえで、諒子に電話を代わるよう指示した。あの時、桔平は何の疑念も抱かなかったが、諒子は一分もの間、相手の話を黙って聞いていた。いくらなんでも不自然だ。


 おそらく、二人は密約を交わしていたのだろう。その内容も今ならわかる。身代金の一千万円は返してやるから、誘拐計画に加担しろ――葉山の提案を受け入れ、諒子は誘拐犯の仲間となった。


 桔平の知らない三人目の人物などいなかった。誘拐事件の被害者が即席の共犯者へと立場を変えたのだ。


 一億円を奪うにあたり、最も危惧すべきなのは諒子の存在だ。桔平が被害者に転じた時点で、諒子を見張る者は誰もいなくなる。ここで警察に通報されては元も子もない。被害者サイドには葉山と渡辺の顔を知っている桔平もいるのだ。警察の介入だけは、絶対に阻止しなければならない。


 葉山は諒子を買収し、仲間に引き入れた。そして、桔平に対し三人目の存在を匂わせることで、身代金の受け渡しをより確実なものにした。『誘拐犯は葉山と渡辺の二人だけ。渡辺が子守りをしているから、身代金を回収するのは葉山の役目だ。つまり、葉山がアタッシュケースを取りに行く間、監視はなくなる』と桔平が気づくより先に、諒子が一芝居打つことで、その可能性を封じこめた。諒子が『ビエラ奈良の飲食店街を見張る』と言い出したのは、葉山の指示だ。筋書き通り、誘拐犯は姿を現さず、桔平は三人目の存在を信じるに至った。葉山たちは身代金回収の現場を抑えられないよう、細心の注意を払ったのだ。


 諒子は息子を人質に取られている。そのうえ、一千万円が返ってくるとなれば、計画に乗らないわけがない。


 だが、諒子はどうしてそんな胡散臭い提案を信用したのだろう。桔平と諒子が近鉄奈良駅に向かっている隙をついて、葉山たちが一千万円を回収するとは考えなかったのか。


 いや待て。要は、諒子の信頼を得られれば済む話だ。葉山が電話でトートバッグが収められたロッカーの番号を彼女に教えていたとしたら? アタッシュケースを運ぶついでに、諒子がそのロッカーに立ち寄り、別のロッカーに移し変えて鍵をかけたとしたら? 葉山も渡辺も一千万円には手を出せなくなる。諒子は安心して、誘拐計画の片棒を担ぐことができる。


 もちろん、身代金が返ってきた瞬間、諒子が裏切る可能性もなくはない。そこで葉山が用意したのが、子供が持っている例の白い封筒だ。あの封筒はトートバッグと一緒にロッカーに入っていたに違いない。中身は確認するまでもない――現金だ。誘拐犯という名の臨時バイトに対して支払われた高額な報酬だ。一千万円プラスアルファのためなら、諒子は喜んで協力を申し出ただろう。


 葉山から諒子に支払われた『お給料』。それにはもう一つ重大な意味がある。計画の都合上、諒子が桔平のプロフィールを知ることは避けられない。何も手を打たなければ、子供の人格が戻ってきたあと、警察に通報されるのは目に見えている。桔平は即座に逮捕され、芋づる式に葉山と渡辺の存在も明るみになってしまう。


 しかし、諒子は今や立派な共犯者だ。誘拐犯から金を受け取った彼女が、警察に連絡するメリットはゼロに等しい。身代金も息子も無事に返ってきたのだから、余計なことをするはずがない。


 葉山と渡辺は身の安全を確保したうえで、まんまと逃げおおせたのだ。


 飛永親子がビエラ奈良に入っていくのを確認後、桔平は車椅子を始動させた。目指すは自宅、安息の場所。カラカラと車輪を動かしながら、桔平は心の中で、キセル乗車をしようと考えていた数分前の自分を笑い飛ばしていた。諒子が警察に通報しないとわかった以上、桔平の人生はまだ詰んでいない。どうやら、自分にも運は残っていたようだ。桔平は晴れやかな気分で、家へと続く三条通りを西に進んだ。


 これから色々忙しくなるだろうが、確実に言えることが一つだけある。


 ――割に合わない人格誘拐なんて、二度とごめんだ。

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ココロ、ウバワレ 沖野唯作 @okinotadatuku

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