B-side

「おい、どういうことだ! 説明しろ!」


 諒子から携帯を奪い取り、桔平は通話口に向かって叫んだ。加工された葉山の声が返ってくる。そこに普段の軽薄な雰囲気はみじんもなかった。


「そのままの意味だ。俺たちが誘拐で稼いだ金が三億円。三等分したから、お前の取り分は一億円。俺が助言した通り、ちゃんと自宅に保管してるんだろ? 肉体が惜しければ、今すぐ取ってこい。お前の私物と金を詰めるカバンはロッカーに入れておいた。まずはそれを回収しろ。その後の指示は女に伝えてある」


 コインロッカーの番号を告げて、葉山は電話を切った。呆然と立ちすくむ桔平。なんだこれは、一体何が起きているのだ。


「いい気味やわ。悪いことしたからバチが当たってんやろな」


 顔を上げると、諒子が蔑むような目でこちらを見ていた。息子をさらわれ、犯人たちの言いなりになっていた健気な母の面影はもはやなく、気にいらないことは気にいらないという強気な関西人がそこにいた。


「なにをボケェーとしとんねん。私はもう一千万払ったんや。はよアンタも身代金払いなさい。せやないと翔太が返ってこーへんやろ」


「待ってくれ。一億円は俺の全財産なんだ。そう簡単に手放すわけには……」


「なんや刃向かう気か? 警察に連絡するで」


 それだけは困る。桔平は自分がのっぴきならない状況に置かれていることに気づいた。諒子がこれまで警察に通報しなかったのは、桔平が近くで見張っていたからだ。だが、今の諒子は誘拐犯が仲間割れを起こしたことを知っている。110番したところで、その事実が犯人側に漏れる恐れはない。


 警察を呼ばれて一番困るのは、葉山でも渡辺でもなく桔平自身だ。子供と人格を入れ替えた現行犯として、有無を言わさず逮捕されてしまう。


「アンタが一億円払うんなら、警察は呼ばんといたるわ。誘拐犯も私たちのこと見張ってるらしいしな。わかったら、さっさと動きなさい。私も暇ちゃうねん。忠告しとくけど、逃げようとか考えんときや。今のアンタは腕っぷしの弱い八歳のガキや。私が本気出したらイチコロやからな」


 促されるまま、桔平は指定されたコインロッカーへと足を向けた。隣には諒子がぴったりと張りついている。いつの間にか、二人の立場は完全に逆転していた。


 ロッカーには、黒いアタッシュケースが二つ入っていた。片方は空っぽで、もう片方には桔平の家の鍵が収められている。車椅子に乗る前に、葉山に預けておいたものだ。


「これに五千万ずつ詰めるんやな」


 諒子がアタッシュケースを持ち上げる。


「さてと、アンタの家行こか。どのへんに住んでるんや?」


「えっ、まさか来る気?」


 自宅の場所を教えるのは、どう考えてもマズイ。


「なにもったいぶってんねん。そんなちっこい体で札束の詰まったカバンを運べるわけないやろ。私も身代金の運搬を手伝うようにって、犯人に脅されてるんや。最寄り駅どこか教えなさい」


「……大和西大寺駅の近くに住んでます」


「ほー、ええとこやな。近鉄百貨店よー行くわ」


 桔平は諒子を連れて、自宅へと向かった。近鉄新大宮駅から電車に乗り、一区間移動。大和西大寺駅で下車し、歩くこと十五分。家に到着すると、桔平は諒子を招き入れた。というより招き入れざるを得なかった。


「男の一人暮らしにしては、結構広い部屋やな。床暖もついてるやん。贅沢やわー」


 諒子から場違いな感想を聞かされながら、桔平はベッドの下から小型の金庫を取り出した。鍵を差しこみ、金庫を開ける。桔平の汗と涙の結晶、一億円が姿を現した。


「今どきタンス預金て。アンタ大正生まれか?」


 大量の一万円札をアタッシュケースに詰め替えながら、諒子が嫌味を言ってくる。


「うっせーな。葉山のクソ野郎に担がれたんだよ」


「騙される方が悪いねん。まあでも、私も誘拐犯を許す気はないからな。絶対に捕まえたる」


「ちょっと待て」桔平は諒子の顔をまじまじと見つめた。「まさかアイツらを罠にかけるつもりか?」


「あったり前やん。このままおとなしく引っこめるわけないやろ。ええか? アンタの話によれば、誘拐犯は残り二人。うち一人が私たちの監視役。もう一人が翔太の子守り役や。さっき犯人に言われてんけど、身代金の受け渡し方法は一回目と同じらしいねん。つまり、アタッシュケースをJR奈良駅のロッカーに入れるわけ。てことはやで、ロッカーに入れた身代金を回収しに来るのは私たちを監視してるヤツや。片一方は翔太から目を離すわけにいかんからな」


「たぶん、そうだと思うけど……」


「つまり、受け渡しの瞬間、私たちを見張るやつはおらんくなる。チャンスはここしかない。アタッシュケースを入れたロッカーの前で、誘拐犯を待ち伏せするんや。顔はアンタが知ってるやろ? 捕まえて警察に突き出したろ」


「そんなにうまくいくか?」桔平は疑わし気な声を出した。「葉山と渡辺に、協力者がいたらどうするんだ? 俺の知らないヤツが一枚噛んでるかもしれない」


「そこまで気が回るとは思えんな。安心し。アイツら天狗になっとるから大丈夫や。アンタの一億も私の一千万も返ってきてウィンウィンや。手伝ってくれるやろな?」


 諒子には名前も住所も知られている。桔平に選択肢はなかった。


「じゃあ奈良駅に戻ろか」


 五千万円が入ったアタッシュケースの蓋を閉じ、諒子は立ち上がった。


「金は絶対に返してもらうからな」


 四十分後、桔平は再びJR奈良駅前の広場に立っていた。隣では、諒子がわざとらしい声で葉山と電話で話している。


「お金は私が運びます。ロッカーに入れ終わったら、場所をお伝えしますので」


 通話を終えると、諒子は両手でアタッシュケースの取っ手を握りしめた。バーゲン帰りの主婦みたいだなと桔平は思った。


「私が戻ってくるまで、ここから一歩も動くなよ。アンタの不手際のせいで息子が死んだらタダじゃおかへんで」


 そう言い残して、諒子は駅の方へと姿を消した。完全にビビりまくっていた桔平は、足を地面に密着させた状態で諒子の帰りを待った。


 旧駅舎の中央に設置されたモニュメントクロックを遠くから眺める。駅の階段から落ちた時のように、時間の流れが異様に遅く感じられた。


 のろのろとした動きで時計の針は進む。一分経過、二分経過……。正直、諒子の作戦がうまくいくとは思えない。人格誘拐を持ちかけた時から、葉山は桔平の取り分を奪うつもりだったのだ。あの狡猾な男が、身代金回収の現場を抑えられるなどという初歩的なミスを犯すはずがない。


 きっと、葉山でも渡辺でもない第三の人物が近くに潜んでいて、俺たちを監視しているのだ――桔平はそう確信した。


「どこ見とんねんアンタ。現実逃避しとるんか」


 ドスのきいた声に、意識を引き戻される。いつの間にか、諒子が背後に立っていた。身代金の運搬作業はすでに完了したらしい。


「今から、身代金が入ったロッカーに誘拐犯をおびき寄せる。覚悟はええか?」


 全然よくなかったが、反抗するわけにもいかない。桔平は首を縦に振った。


 諒子が葉山に電話をかける。


「私です。飛永諒子です。飲食店街の奥にあるコインロッカーに、アタッシュケースを預けました。ロッカーの番号は……」


 てきぱきと用件を伝え、携帯を折り畳む。その後、諒子はいきなり桔平に対して、中指を一本突き立てた。


「ここで一分待機や。犯人が監視を外した頃合いを狙って、私らも移動するで」


 その中指は数字の『1』を示しているのか、もしくは別の意味がこめられているのか。たぶん両方だなと思考を巡らせながら、桔平は時が経つのを待った。


 やがて、時計の長針が一目盛り分進む。


「よし、行こか」


 その言葉が合図であったかのように、二人は行動を開始した。向かう先は、JR奈良駅に併設されたショッピングモール『ビエラ奈良』。レストラン・お土産屋・スーパーマーケット等を擁するこの商業施設は奈良駅と直結しており、あまり知られていないが居酒屋の側にコインロッカーが設置されている。


 そして、そこに行くための通路は一つしかない。桔平と諒子は階段の陰に隠れて、飲食店街の入り口を注視した。アタッシュケースを回収して戻ってきた葉山を捕まえる算段だ。


「葉山のヤツ、もう来てるのかな」桔平が囁く。


「その葉山ってヤツが運び役とは限らんのちゃうか?」諒子が慎重に答える。「誘拐犯はもう一人おるんやろ?」


「渡辺か。たしかに、役割が逆のパターンはありえるな。もしくは俺の知らない三人目の誘拐犯か」


「まあ、誰が来ても一緒や。あんなに目立つアタッシュケース、持ち運んでたら一発でわかるわ」


 ところが、そのアタッシュケースが一向に現れない。金を別のカバンに詰め替えた可能性もあるが、通行人の中にそれらしき人物――リュックを背負った男やキャリーバッグを引きずる女――は一人もいなかった。


「トロい誘拐犯やなあ。なにをチンタラしとんねん。……ん?」


 突然、犯人との連絡に使用している携帯の着信音が鳴った。諒子が電話に出る。


「はい……はい……。す、すいません! 二度としませんから許してください」


 どうもよくないことが起きたらしい。通話の切れた携帯電話に対して、悪態をつく諒子。


「なにが『お前たちの動きは全て把握している』や! かっこつけんなアホ! わかったわかった、素直に要求に従えばいいんでしょ」


 怒りを発散するように、諒子は桔平を睨みつける。


「ほら、行くで。アンタの予想通り、三人目の仲間がおるみたいやな。こうなったらしゃーない。一千万は諦めるわ。だからアンタも一億円ドブに捨てなさい」


 理不尽ではあるが、自分の肉体には代えられない。桔平は観念し、諒子のあとに続いて物陰から離れた。


 広場に戻り、連絡を待つ。しばらくすると、また電話がかかってきた。応対するのは、これまで通り諒子の役目だ。


「無事に回収できたんですね……それで息子は…………はい、はい。近鉄奈良駅前にある噴水ですね。すぐに向かいます」


 いよいよ大詰めだ。桔平は深呼吸をし、心を落ち着かせた。それを見て、諒子が一言、


「他人の体でヨガすんな」


 いちゃもんをつけてくる。もう何をしても虐められるんだなと、桔平はつくづく思った。身から出た錆とはいえ、今の自分は弱者の中の弱者、ワーストオブ底辺。諒子に弱みを握られ、主人の命令に従うしかない哀れな奴隷だ。


 だが、もう少しの辛抱だ。あと二十分もすれば、この悲惨な状況から解放される。


 運命の地、近鉄奈良駅を目指して、桔平は出発した。広場の入り口に差し掛かった時、諒子は灯篭を模したオブジェの脇に例の携帯電話を隠すように置いた。


「犯人にこうしろって言われてん。まあ、証拠の品を被害者に預けとく馬鹿はおらんわな」


 それからは特筆すべき出来事も起こらず、平和な散歩が続いた。三条通りを東進し、よもぎ餅で有名な中谷堂の手前で左折。そこからは道なりに、観光客で賑わう『ひがしむき商店街』を北へと歩いていく。


 アーケードの先端までたどり着くと、視界が開けた。奈良市民なら誰でも知っている、近鉄奈良駅前の噴水が目に飛びこんでくる。その真ん中には行基の像。そして手前には、見覚えのある車椅子。


 桔平は自分自身の肉体と感動の対面を果たした。


「翔太! 翔太なのね!」


 諒子が桔平の体に駆け寄り、身元を確認する。車椅子の男が答える。


「お母さん、来てくれたんだね!」


 三十過ぎたおっさんが『お母さん、来てくれたんだね!』と叫ぶ光景は、想像以上にグロテスクで、桔平は全身に鳥肌が立つのを感じた。半分ぐらいは自分の責任なのだが。


 不快感と戦う桔平に、諒子が命じる。


「ほら、人格を交換や! 早くしなさい!」


 言われなくてもそのつもりだ。自身の肉体に近寄り、その右手を握りしめる。人格を入れ替えることだけに、桔平は意識を集中させた。人格交代、人格交代……。


 気がつくと、目の前に飛永親子の顔があった。【エクスチェンジ】は成功し、桔平は元の体に戻ることができたのだ。


 これでみんなが幸せになり、めでたしめでたし――なんて、ほのぼのとした結末がつくはずもなく。


 凄みをきかせた諒子が、桔平に迫った。


「顔も、名前も、住所も、何もかも覚えたからな。沼藤桔平。アンタ今度ウチの息子に手を出したら、どうなるかわかっとるやろな?」


 怖い、関西人怖い。桔平は車椅子を転回させ、全速力で商店街の反対側へと逃亡した。近鉄ビルを通り抜け、今一番近寄りたくない交番の前を猛烈な勢いで横切る。後方から人々の悲鳴が聞こえてきた。赤信号に足止めをくらった桔平は、時間が惜しいと言わんばかりに、進路を即変更。通称「安らぎの道」と呼ばれる大通りを、全く安らかでない気分で南下していった。

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