A-side

「警察には知らせるな。もしも知らせたら、人質の精神を破壊するからな」


 諒子は息子の命令に、いや誘拐犯の命令に従うしかなかった。これが普通の誘拐事件なら、犯人の言葉など当然のように無視して、警察に助けを求めていただろう。


 しかし、それは不可能だ。誘拐犯が直々に自分を監視している。


「翔太は無事なんですか! 声を聞かせてください!」


「はあ? 今まさに聞いてるじゃねえか」


 息子に鼻で笑われ、諒子は軽くショックを受けた。犯人は続けて言う。


「そう騒ぐなって。金さえ払ってくれれば、人質に手荒なことはしない。一千万円ぐらい、預金をおろせば簡単に用意できるだろ?」


 犯人は持参したトートバッグを開くと、時代遅れのガラケーを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。相手はおそらく、誘拐犯の一味だ。


「もしもし、俺だ。ついさっき、人質の家に到着した。これから母親を連れて、銀行のATMに向かう。十分ごとに電話を入れるから、もしも連絡が途絶えた時は、遠慮なく人質の心をぶっ壊してやれ」


 ポケットに携帯をしまい、犯人は諒子に顔を向けた。


「すぐに支度を始めろ。子供の心が惜しければな」


 諒子は大急ぎで行動に移った。階段を上り、二階の寝室へ。押し入れの天板をスライドさせ、天井裏に隠してある金庫を引っ張り出した。ダイヤルを合わして、錠を開け、メガバンクの預金通帳をお出かけ用のポーチに移し変える。諒子が準備をしている間、犯人はぴたりと彼女の背後についてきた。一秒たりとも目を離さないつもりらしい。


「用意できたか? それじゃ、出かけるとしよう」


 諒子は犯人を連れて、駅前の銀行へと向かった。誰かが異変に気づいて、警察に通報してくれないか。そんな諒子の願いは、あっけなく砕け散った。周りの人間には、母親と息子が仲良く歩いているようにしか見えないのだ。近所の知り合いとすれ違った時も、犯人は息子の体で元気よく挨拶を返した。まったく隙がない。


 家を出て十分後、銀行に着いた。個室のATMで金を引き出し、トートバッグに詰める。その作業が終わると、犯人から次の指示が出た。


「これから身代金の受け渡し場所に移動してもらう。まずは電車に乗り、近鉄奈良駅まで行け。ほら、さっさと切符を買ってこい。俺はもちろんだ」


 券売機で切符を二枚購入し、改札をくぐってホームに立つ。奈良行きの快速急行はまもなく到着した。ドアから離れた位置に並んで立つ、諒子と犯人。


 移り行く車窓風景を上の空で眺めていた諒子は、ふと強い視線を感じた。隣を見ると、息子がいやらしい目つきで、自分の胸や尻のあたりをじろじろと観察している。


 気持ち悪い。諒子は心の底からそう思った。翔太のことも心配だが、どこの誰かもわからない男に密着されている不愉快な現状から、早く逃れたい。


 おそるおそる諒子が呟く。


「お金さえ払えば、翔太の人格を返してくれるんですよね?」


 犯人が答える。


「当然だろ。俺だって、早く自分の体に戻りたいんだ。人質を返さなかった場合、一番困るのは俺なんだよ」


 言われてみれば、その通りだ。諒子は奇妙な安心感を覚えた。


 平城宮跡を横切り、電車はやがて地下のトンネルへ。近鉄奈良駅に降り立つと、犯人は言った。


「西改札口から出て、地上にあがれ。小西さくら通りを南下し、三条通りに着いたらJR奈良駅の方へと進む。駅前に広場があるのを知ってるか? そこが次の目的地だ」


 同じ『奈良駅』といっても、二つの駅は一キロ近く離れている。十五分ほど歩いた末に、ようやくJR奈良駅の東口駅前広場へとたどり着くことができた。


 犯人が携帯を取り出す。ここに来るまでにも、男は定期的に何度か連絡を取っていた。


「今からロッカーに金を入れる。五分後に回収してくれ」


 犯人は諒子からトートバッグを奪い取ると、高圧的な口調で言った。


「俺が帰ってくるまで、ここから一歩も動くなよ。仲間が見張っているからな」


 諒子は辺りを見渡した。通勤ラッシュは終わっているため、人の数は少ない。広場は見通しがよく、周囲には高いビルもある。どこかに誘拐犯の一味が隠れていても、不思議ではない。


「もちろんです。じっとしています」


「それでいい。おとなしくしておけ」


 身代金が入ったトートバッグを持って、犯人は改札口へと続くエスカレーターの方へと歩き始めた。JR奈良駅には、改札内に一ヵ所、改札の外に三ヵ所、コインロッカーが設置されている。犯人の口ぶりからすると、そのどこかに金を放りこむつもりらしい。


 それにしても。自ら手口を漏らすとは、ずいぶん不用意な犯人だ。諒子が些末なことを考えていると、二分も経たないうちに犯人が戻ってきた。もちろん、手ぶらだ。


「金の受け渡しが終わったら、お前の子供は解放する。まあ、もう少しの辛抱だ。気楽に待ちな」


 しばらくすると、電話が鳴った。犯人は携帯を耳に当て、しきりに頷いている。


「うん……うん……わかった。そこに行けばいいんだな。……えっ? 携帯を母親に渡せ? どうしてそんな…………わかった、渡せばいいんだな」


 諒子の前に、携帯電話が差し出される。


「俺の仲間が話したいことがあるらしい。一体なんだろうな」


 諒子は携帯を受け取った。電話に出ると、ボイスチェンジャーで加工された、男とも女ともつかない声が聞こえてきた。


「いいか。そのまま黙って聞け」


 諒子は誘拐犯らしき人物と一分近く会話した。相手の言葉が終わった時、諒子は全身を大きく震わせて、喘ぐような声を出した。


「そ、そんな……息子を返してくれる約束だったじゃないですか!」


 翔太の体に入っている犯人も、何かがおかしいことに気づいたらしい。戸惑うような表情を、諒子に向けている。


「お、おい。どうなってんだよ。身代金は受け取ったんだ。人質の人格を返して、それで終わりのはずだろ」


 諒子は携帯電話をスピーカーモードに切り替えて、息子の体の前に突き出した。電話の向こうにいる誘拐犯は、はっきりとした発音で言った。


沼藤ぬまふじ桔平きっぺい、お前の肉体を誘拐した。返して欲しければ、一億円用意しろ」

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