第8話 庭と旅人
ワグステンの首都、トゴーは曇天が多い。だが、その日は雲も薄く暖かな天気だった。
ランダルト家の次男、アルナは帰宅するなり来客があると聞かされ、庭に出た。庭師によって手入れされた生け垣や花壇の向こうに、着古されたコートをまとった男がいた。
「──おう、アルナ。またでかくなったな」
片手を上げて笑ったのは、アルナの従兄であり、ルヴィの兄であるワイズ・ランダルトだった。薄く髭を生やし、髪は短く刈られ、肌は日に焼けていた。およそ貴族の名門らしからぬ見目であったが、アルナはこの従兄が好きだった。
「ワイズ従兄さん。今日はどうしたの」
「何、ただの帰り道さ。たまにはお偉方にも挨拶をしとかんといかんし、お前やルヴィの様子も気になってな」
「ああ、でもルヴィは……」
「ちょうど俺が来たときに出ていったよ。元気そうだった」
ワイズは笑って、アルナの腕を叩いた。
「お前は大丈夫か? 大変だろう、あんなのに居候されちゃ」
アルナは苦笑する。もともとルヴィが暮らしていたのは、トゴーより内陸に位置する地方都市、エイデスだった。しかし、首都の学院に入学することが決まり、アルナの暮らす本家へと移ってきたのだ。
「まあ、知らない仲じゃないし、どうってこともないよ」
口うるさいけど、と言うと、ワイズは声を上げて笑った。
「そうだろうな。あれがおとなしくなった日には天変地異の前触れだ」
「従兄さんは? またどこか旅に?」
ワイズも本来エイデスで暮らす身であるはずだったが、彼は一年の半分も地元にとどまっていたためしがなかった。ワグステンの各地を渡り歩き、一族からは放浪癖があると言われて、半ばさじを投げられていた。
「ああ、南の港市をいくつか巡ってきた。デンゼンから戻ってきたところだ」
「デンゼンに行ったの?」
アルナが問い返すと、ワイズは見通したように口角を上げた。
「行っただけだ。連絡鉄道は遠目に見たがな」
そう言って、ワイズは傍らのベンチに腰を下ろした。見上げてくる目が見透かすようで、アルナは決まりが悪くなる。
デンゼンはユフス湾の入り口に面した都市で、そこから海上を横断する鉄道橋が伸び、その行きつく先はユタ半島の南端サースエスト──通称うたかた晴れの街だった。
「何度も言うが──サースエストにはそう簡単には入れん。ランダルトの名前を出してもダメなんじゃあ、旅のついでに行けるようなところじゃない。北回りでビレ山脈を越えた方がまだ簡単かもな」
「それは……いくら何でも危険だ」
ユフス湾の西岸から東岸──ユタ半島への陸路は、ビレ山脈と呼ばれる険しい山々によって、事実上寸断されていた。雪と氷と岩峰に阻まれたその道のりは、素人がおいそれと立ち入れる場所ではなかった。
「ご先祖様は山脈越えで往復したそうじゃないか」
「不可能じゃないことと、危険かどうかは別だ」
「その通りだな」
言って、ワイズは顎を撫でた。
「お前も、俺の話を期待するばかりじゃなく、自分で見て回ったらいい」
「……ワイズ従兄さんのようになるのは、俺には難しいよ」
「そうだな」
あっさりと肯定して、ワイズはアルナを見た。
「でも、簡単なことなんて何もないだろ。こんな家に生まれちゃあ」
「……」
「食うに困らず、着るものにも困らず、いいベッドで眠れるだけで満足できれば世話ないんだがな。そんなやつは、この家にはいないだろ」
「……うん。近頃、父上が俺を跡継ぎにしたいようなことを言い出して、うるさいんだ」
「贅沢な話だなぁ。ヴィラルト従兄さんほどできた長男もいねぇだろうに」
ワイズはそう言ったが、分家とはいえ、彼もランダルトの長子である。
「その点うちは、末っ子が一番出来がいいからな。親父も長男にこだわる気は失せたらしい」
「……ルヴィに跡を継がせる気なの?」
「まだわからんが、それが現実的な選択肢になりつつあるんじゃないのか。あれをどこぞの貴族の嫁にやって、よその跡継ぎを産ませるだけじゃつまらんと、ジジイ連中も考え始めたらしい」
アルナはそっと屋敷の方を見た。いないとわかっていても、この会話をルヴィに聞かせたくはなかった。
二人が沈黙すると、庭は遠くの鳥の声を聞くのみとなった。明るく、品のある花々も、伸びやかな草木も、アルナの目にはむなしく映った。
「──で、どうするんだ、お前は」
ワイズに問われて、アルナは唇を噛んだ。
「伯父上の言うように家を継いで、何かしらの大臣の椅子に座るとしても、上に行くほどランダルトを引きずり降ろそうって連中が増える。そういう奴らを出し抜いて、ずる賢くならなきゃ何も守れん。ヴィラルト従兄は、あれでよく人を見てるし、隙を見せるほど間抜けじゃねえから、出し抜かんまでもうまくやるような気がするが……」
「……」
「お前は、そんなことのために生まれたんじゃねえ気がするんだがな」
ワイズの言葉が胸に刺さった。アルナは、喉のつかえの正体を見た思いだった。
「……俺は、……仮に父上の跡を継がなきゃいけなくなったとしても、なんでランダルトがこんな立場になったのか、理由が知りたい」
「……ほう?」
「大昔に国を支配していたからって、今生きてる誰もそれを覚えてなんかいやしないし、どうして国を失ったのかも、実際のところは何もわかりゃしない。因縁だけが残って、意味もわからずにそれを押し付けられるのは納得がいかない」
ワイズは笑った。アルナの少年らしい憤りには覚えがあった。
ランダルトの屋敷を見やると、その高い屋根の向こうに、鈍色の雲が広がりつつあった。
うたかた晴れの街 三木有理 @miki0101
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