atonement
月ヶ瀬樹
そんな君がただ愛しかった
[優しい嘘なら許されますか?]
財布の中に大切にしまった一枚の名刺。その裏に手書きで書かれた文字。温かみと冷たさが同居する不思議な文字だった。その文字を指でなぞりながら、私はこの文字を書いた貴方の元へ向かう。
貴方が私の前に現れたのは、クリスマスイブの夜だった。私が失恋の悲しみで一人泣いていたとき、貴方は現れた。今思えば、私のサンタクロースだったのかもしれない。不思議な不思議なサンタクロース。
「こんばんは。聖なる夜に一人涙に暮れる君は、よほど悲しいことがあったんでしょうね。もし良かったら、僕にお相手をさせてくれませんか?」
私はその突拍子もない提案に、涙が止まり声の主をポカンとした顔で見つめていた。
「ふふふ、まぁそう言うリアクションになりますよね。でも、安心してください。あなたに危害は加えませんよ」
そう言って、ハンカチを私に差し出した。私はそれを受け取り、涙を拭いた。貴方はその様子を眺めたあと、笑みを浮かべつつ隣に座った。
それからのことはよく覚えていない。貴方はただ笑顔で、私の話に耳を傾けていた。一方、私はとりとめのない話を、ただひたすらにした。話が止まると、貴方が居なくなる気がして。話していれば、この時間が永遠になる気がして。
どれくらい時間が経っただろう。私の言葉が一瞬止まったその時、貴方は口を開いた。
「君に見て欲しいものがあるんだ。今度の日曜日の午後、ここのアトリエに来てほしい」
その言葉と共に、差し出された一枚の小さな名刺。そこには住所が書かれていた。私はどう言うリアクションをしたらいいか分からず、困ったまま顔を上げる。
「もちろん、来るか来ないかは君次第。どちらでも構わないよ」
そう言って貴方は私の横から立ち上がった。
「では、またお目にかかる日を」
そう言って貴方は、頭を下げた。そして、私の前から姿を消した。
名刺を握ったまま、貴方が消えた町をいつまでも見ていた。ふと我に返り、改めて名刺を眺める。その場所は隣町の外れを示していた。
「日曜日の午後……かぁ」
ぼんやりと予定を思い返す。幸い、年末で予定はないと記憶していた。
「行って……みようかな」
そう口にしつつ、三たび名刺に目を落とす。ふと裏を見ると、そこにはこう書かれていた。
[優しい嘘なら許されますか?]
私の町から隣町へ行くバスを下りる。名刺の示す場所はすぐそこだ。住所を改めて頭に焼き付けて、名刺を財布にしまう。見知らぬ町を一人歩く。
「ここ……だよね」
程なくして、名刺に書かれた住所にたどり着く。表札の文字と名刺の苗字を見比べる。どうやら、指定された場所に間違いないようだ。意を決してインターホンのボタンを押す。数秒待つも応答は無かった。
途方に暮れる私。そこでふと、貴方の言葉がよぎった。
『アトリエに来てほしい』
「そうだ、アトリエ……」
そう言いながら数歩下がり、目の前の家の様子を窺う。視界の端に申し訳程度の大きさの看板に目が留まる。
[アトリエ Atonement]
その看板が下がっているのは、車庫に通じる扉だった。私はその扉の前に立ち、ノックをする。私の気持ちとは裏腹に――しかし、予想通りに――中からの応答は無かった。
「失礼します」
そこにいるであろう貴方の顔を思い浮かべながら、ドアノブをひねった。
中は少し暗かった。もともとそこが車庫だったのは間違いないようだ。その一番奥に一脚の革張りのワーキングチェアが向こうを向いていた。そこには人影があった。
「あの……」
思わず声が漏れる。しかし応答はない。少しの苛立ちを覚えつつ、そのワーキングチェアに向かう。
「あの……!」
そう言いながら、ワーキングチェアに座る人間の肩を叩く。少しの苛立ちのせいか、いつもより手に力が加わった。
ドサッ!
そこに座っていた人はバランスを失い、私の目の前に倒れた。それはさっきまで確かに人だった。私が貴方と呼ぶ人、だった。
「えっ……?」
意外にも大きな声は出なかった。そして、嫌に冷静な自分が居た。私は、貴方が向かっていたデスクに目を移す。そこには紙が二枚並んでいた。その一枚目。私のそばに置いてある方に目を落とす。
[君が来てくれて良かった。驚かせてすまない。もし良かったら、僕の最期の絵を見て欲しい。僕の最初で最期の贖罪だよ]
名刺の裏と同じ文字だった。私は続けてその隣、貴方の前に置かれていた紙に目を落とす。そこに描かれていたのは、一人の女性だった。こっちを見て幸せそうにお喋りする、私だった。
その絵の脇に、貴方の文字が遺されていた。
[そんな君がただ愛しかった]
atonement 月ヶ瀬樹 @itsukey_t
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます