さよなら、あの日の夏の想い。

小牧亮介

さよなら、あの日の夏の想い。

「今日、最高気温33度だってー」


「本当……もう暑すぎる……」


 容赦なく照りつける太陽の下、私は友達といつもの帰り道を歩いていた。


 時は昼前。部活の朝練を終えた体は、なかなか言うことを聞いてくれず、足を前に出すだけでも精いっぱい。そこに降り注いでくる日光は、まさに追い討ちと言ったところで、私たちの体力は根こそぎ奪われていった。


「じゃ、私、こっちだから」


「うん。バイバイ」


 友達と別れると、急に気が抜けたのか、大きなため息が出てしまう。


 顔を上げれば、まるで破いたセロハンを散りばめたかのように、葉がさわさわと揺れていた。


 木陰や建物の影を選びながら歩いていく。直射日光を避けられる分マシではあるが、この茹だるような暑さの前では、気休めにしかならなかった。


 汗で張り付くシャツが気持ち悪い。四方八方から聞こえる蝉の声も、嫌になるほどうるさく感じる。


 昔は、どれだけ汗をかこうが気にもならなかった。蝉の声だって、昔は好きだったはずなのに。


 大好きだった夏が、嫌いになりつつあるこの頃。


 家に近づくにつれ、目に映る景色は変わっていく。建物の数は減り、その代わり田んぼが増えていく。アスファルトの道も、踏み鳴らされた地面へと変わっていった。


 そう。私の家は、俗に言う田舎だ。


 顔馴染みの近所のお爺さんお婆さんが、私の顔を見るなり元気そうに挨拶をしてくれる。まるで、暑さをなんとも思っていないような明るい笑顔。これが、田舎特有の活力なのかもしれない。


「ただいまー」


 家に帰り、クーラーの効いた部屋に直行しようとすると、お母さんは何やら急いだ様子で走り寄ってきた。


「おかえり。ねえねえ千夏、明日トシ君帰ってくるって」


「えっ! トシが……⁈」


「そう。もう、何年ぶり? 7年ぶりかしら?」


「う、うん! そう!」


 私には、8個歳の離れた幼馴染がいる。小さい頃、ずっと面倒を見てくれた人で、遊んだ時間は家族よりも長いかもしれない。でも、私が10歳の頃に、彼は東京へと出ていってしまった。それ以来、疎遠になってしまった人だ。


 あれから全く帰ってこなかったトシが帰ってくる……!


 驚きだった。それと同時に嬉しさが押し寄せてきて、頬が緩んでしまう。そんな表情を、お母さんに見られたくない。そう思った私は、自分の部屋へと駆けて行った。


 部屋に入ると、いよいよ我慢できなくなった私は、うふふと気持ちの悪い笑みを漏らし始める。


 静め方が分からなくなった心。それを押さえるように、椅子にドシッと勢いよく座った私は、勉強机に両肘をつき、掌底に顎を乗せる。


 早く明日にならないかな。そんなことを思っても、こういう時に限って時の流れは遅く感じてしまうもので……。


 気を紛らわそうと宿題に手をつけたり、友達のSNS投稿を見ても、それらは全く意味を成さなかった。



 その日の夜は胸がいっぱいで、ご飯もいつもの半分ほどしか食べることができなった。


 寝る時間になっても、まだ興奮は収まらない。私は布団に深く潜り、掛け布団を強く握りしめる。


 トシ、変わってないかな。あれから7年経つんだ。変わってるよね。私も、もう高校生。子供から少し大人になったんだ。


 ※


 次の日の朝。目が覚めた私は、部屋の灯りをつけずに、カーテンを開けた。窓から映る景色は、ほんのりと陽の光を感じる程度で、山も建物もシルエットが薄らと見える程度だ。山の向こうに見える空は、まだ赤紫色をしている。


 早起きしすぎた……。


 それでも、二度寝できるほどの眠気はなく、むしろパッチリと目が覚めてしまった私は、部屋を出て居間を抜ける。そして、お気に入りの場所である縁側に腰を下ろし、朝焼けの風に身をさらしていた。


 トシ……何時ごろに来るのかな……。あっ……髪、切っておけば良かった……。


 それよりもトシ……。なんでこのタイミングで帰ってくるんだろう……。


 トシは、家族との仲が悪かった。トシのお母さんは、トシが小さい頃に亡くなったそうで、お父さんとは、よくケンカをしていたらしい。トシのお父さんは厳しそうというか、怖い感じの人で、あまり良い印象を持っていなかったのを覚えている。


 そんなトシのお父さんも、トシが出て行った2年後に亡くなってしまった。その時も帰ってこなかったトシが、どうして今帰ってくるのか。それが謎だった。



 不思議なもので、あれやこれやと何かをしているうちに、時は11時を超えていた。もうすぐでお昼ご飯。そんなことを考えている時だった。


「千夏! トシ君来たよー」


 遠くから聞こえる、お母さんの大きな声。私は返事もせず、一目散に玄関を目指した。


「久しぶり。大きくなったね」


「トシ……おかえり」


 目の前にいる大人の男性。吊り上がった目に細い眉。髪は、あの頃と違ってパーマがかかっているのか、毛先がくるんと曲がりくねっている。


 私の記憶よりもおじさんになったトシだけど、確かに私の知っているトシだ。顔を合わせてすぐに見せてくれたあの笑顔は、昔と変わらない。そんな気がした。


「トシ、どうして帰ってきたの?」


「ん? あぁ、それはね。俺――」


「トシ君、おじさんの墓参り、行く?」


「え? あぁ……うん。行こうかな」


 私の質問は、お母さんの質問に上書きされてしまった。トシは「また後で話すよ」と言って玄関を出ていく。


 本当にトシだ……。


 高鳴る心臓。あの頃……幼いながらにも感じた感情が、色を取り戻したかのように蘇る。


 決してかっこいいと言えるほどの容姿でもないし、強そうに見える体格でもない。そんなトシだけど、私はどんな人よりもトシに憧れを抱いていた。


 それは、今も変わらないんだ……。


 止まっていた歯車がまた動き出しかのように、喜びが溢れてくる。心がムズムズとする感覚は、くすぐったいような感じだけど、どこか心地の良いものだった。


 お昼ご飯の時間になると、トシは戻ってきた。どうやら、トシもお昼ご飯を一緒に食べることになっているようだ。


 ちゃぶ台の真ん中には、ボウルいっぱいに盛られた冷や麦。


 こうして三人で食卓を囲うのも、随分と久しぶりだ。


「千夏、今17だっけ?」


「うん」


「そっかー。俺も歳を取るわけだ」


「まだ、25じゃん」


「まだって言ってられるのも若いうちだけだ。20超えたら一瞬だぞ」


 トシはそう言って、からかうように笑った。


「そういえばトシ君。いつまでいられるの?」


「明日には帰ります。今日は、報告があって来たので」


「報告?」


 そう聞くと、トシは頷いた。そして、優しく微笑むと背筋を伸ばす。


「俺、結婚するんだ。11月には式も挙げる予定でさ。それを報告しに来た」


「あら! そうなの! おめでとー」


 お母さんは浮きだった様子で、口元に手を当てた。


「え……結婚?」


「そう。職場の人でさ――」


 話が耳に入ってこなかった。頭が、理解するのを拒否している。


 やっと、トシと再会できたのに……。また、あの頃の気持ちを思い出したのに……。


 先ほどまで浮かれていた気持ちは打ち砕かれ、頭の中は真っ白になった。


「千夏?」


「え……? あぁ! うん! おめでとう!」


「ありがとう」


「うん……。あ、ちょっとトイレ行ってくるね」


 この場から抜け出したくなった私は、何とか笑顔を作り居間を出ていく。


 そっか……そうだよね。もう、トシもそういう年齢だもんね……。


 分かっている。私がトシを思い続けていたからといって、トシが同じ気持ちを持ってくれることなんてないって。


 トシが東京に行って、そこでいろいろな経験を積んで、いろんな人に出会う。そんな当たり前を考えずに、私は一人浮かれていたのだ。


 目の奥、鼻の奥から熱いものが込み上げてくる。泣いちゃ駄目。そう言い聞かせても、壊れてしまった感情のリミッターは、言うことを聞いてくれなかった。


 それから、気持ちが収まるまでトイレにこもっていた私は、忍び込むように居間に戻った。


 そこには、トシだけがいた。ちゃぶ台の上には、私の器だけが残っている。


「おかえり。おばさん、出かけるってさ」


「トシ、待ってたの?」


「うん」


 柔らかな声で、トシは頷いた。


 嬉しかった。こんな気持ち、抱いても仕方がない。そんなこと分かっているのに、トシが待っていてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。


「やっぱ、夏は冷や麦だよな」


「うん」


 つい、そっけない返事をしてしまう。トシ、嫌な気分になってないかな。そんな不安と後悔を抱きながら目線をあげると、彼は優しい目で私を見ていた。


「はは。昔さ、千夏、ピンクと緑の麺は全部欲しいって、よく言ってたよな」


「え、そうだっけ?」


「うん。それで、俺が間違えて色付きの麺を取ると、すっげー怒ってさ」


「もう、忘れたよ」


 本当は、覚えている。私がどんな我儘を言おうと、トシは嫌な顔をすることなく、私のお願いを聞いてくれたのだ。


 そんなトシに、お母さんはよく『甘やかすな!』って怒っていたっけ。


 トシに見守られる形で、冷や麦を口に運んでいく。それがなんだか落ち着かず、つい箸を進めるスピードを上げてしまう。


 そして、何とか冷や麦を片付けると、トシは徐に立ち上がった。


「どこ行くの?」


「挨拶回りしに行くよ。みんなにもお世話になってたしさ」


「そっか。私も行っていい?」


「いいけど。退屈しない?」


「しない。どうせ、今日暇だし」


「りょーかい!」


 そう言って、トシは歯を見せて笑った。


 近所の人たちのもとを周ると、みんなお母さん同様、我がことのように喜び、トシを祝福していた。


 その様子を見て私は、何年経ってもここは変わらないんだなと、ぼんやりと思った。


 一通り挨拶を済ませたトシと私は、近くの木陰に腰を下ろし、休憩することに。


「茂さん、まだ現役で驚いたよ。やっぱ、ここの人はみんな元気で良いね」


「うん、そうだね……。ねえ、トシはさ……ここ、好き……?」


「うん、好きだよ」


「じゃあ、どうしてずっと帰ってこなかったの?」


「うん……そうだな……。ごめんな。やっぱり、どうしても親父だけは許せなくてさ。はは……俺もまだガキだよな」


 そう言ってトシは自嘲的に笑った。私は、トシとおじさんのことはよく分からなけど、「そんなことないよ」とトシを庇うことしかできなかった。


「高校は楽しい?」


「うん、楽しい」


「そっか。良かった」


 遠くを見るような目をして、トシはそう言った。その横顔はどこか切なげで、私は返す言葉を失う。


 その質問に、どんな意味が込められているのだろうか。私には知る由もない。


「あ、煙草、吸っても良い?」


「え? あぁ、うん」


 そっか。トシ、煙草吸うんだ。


 少し戸惑いながら了承すると、トシは煙草を一本取り出し、口にくわえた。その手つきは慣れたもので、私は時の移り変わりをぼんやりと感じていた。


 トシはもう、大人になったんだね。


 吐き出された煙が、風に乗り消えていく。


「ここは本当に変わらないね」


「うん。良くも悪くも」


「はは、確かに。でも、なんか安心するよ。自分の住んでいた場所がまだ残っているっていうのはさ」


「そうなんだ。私には分からないや」


「いつかは分かるよ。でもさ、変わってないようで変わってる」


「どゆこと?」


「景色の見え方が変わってしまったというのかな。昔は感じることができたものが、思い出せない感覚というかさ」


 なぜかこの言葉は、とても悲しいものに聞こえた。今のトシは、昔のトシとは全く別なんだなと、漠然と思ってしまったのだ。


「それに、千夏も大きくなったしな!」


 そう言ってトシは、私の頭をわしゃわしゃと撫でる。


「ちょっと! 子供扱いしないでよ」


「はは、俺からすれば、千夏はまだまだ子供だわ」


 頬を膨らませ不満顔を作ると、トシはニシシと歯を見せて笑う。そのあどけない顔を見て、私は7年前のトシを重ねていた。


「もう、カブトムシは捕ってないのか?」


「しないよ」


「でっかいザリガニ、釣ったりしないのか?」


「しないよ」


「そっか! もう、してないか」


「何年前の話だし」


 どれもトシと一緒にした遊びだ。正確には、トシが私の遊びに付き合ってくれた感じだけど。


 トシと過ごした日々。今でも、淡くだけど浮かぶ思い出たち。そのどれもが宝物のように大切で、忘れることができないもの。


「ねえ、トシ」


「ん?」


「明日、何時に帰るの?」


「昼前かな」


「そっか……。ねえ、昔みたいにさ、夜、星見ようよ」


「うん。いいよ」


 昔から変わらないトシの返事。私が何をお願いしても、トシは決して嫌とは言わなかった。


 それに甘えて好き放題やった結果、私はこんな我儘な人になってしまったんだよ?


 ひぐらしの悲しげな声が聞こえてくる。気が付けば、太陽は遠くの山に隠れていて、空は濃い橙色と紺色の雲に覆われていた。


「さて、もう夕ご飯時かな。一旦、帰ろっか」


「うん。ねえ、うちで食べてきなよ」


「え? それ千夏が決める?」


「何がなんでもお母さんに交渉するよ」


 必死になってそう言うと、トシはからかうような笑みを浮かべながら立ち上がる。そして手を差し伸べ、私の手を引いてくれた。


 先を歩くトシの背中は、あの頃よりくたびれているような気がした。それでも、やっぱり私には、その背中は大きく感じて、いつまでもその後ろを歩きたくなるような。それは、今も昔も変わらない。


 家に着くと、既にご飯の用意はできていた。いつもより豪華な夕食。お母さんはお母さんなりに、トシの帰りを喜んでいるんだろうな。


 途中で、仕事から帰ってきたお父さんも交わると、場はまさに宴会といった感じになった。お父さんも相当嬉しいのか、普段なら平日は飲まないのに、トシと一緒にお酒を楽しんでいた。



「おばさんの料理、やっぱ美味しいな」


 夕飯を終え、縁側に並んで座った私とトシは、夜の風で涼んでいた。


「トシ、お酒弱いの?」


「なんで?」


「顔、赤いよ」


「ははは、赤いか。可愛いだろ?」


「可愛くないし。てか、そのノリうざい」


「そうか? いつもと変わんないと思うけど」


「トシの”いつも”なんて知らないよ」


 なんてことのないことを言ったつもりだった。しかし場は静まり、私はふとトシに顔を向ける。その顔は、どこか悲しげで、何かを言いたげだった。


 沈黙が走る。私はトシの目を見つめたまま、言葉をずっと探していた。しかし、いい言葉は出てこず、ふと視線をそらしてしまう。


 すると、トシが立ち上がった。


「さて、酔い覚ましに散歩でもしますか。ほら、行くぞ」


「え? あぁ、うん!」


 トシは縁側に置いてあるサンダルを履くと、そのまま外へ出ていってしまった。私は、急いで玄関に向かい、両親に一言伝えて、トシを追いかける。


 踏み鳴らされた道を、肩を並べて歩いていく。街灯なんてほとんどなく、数メートル先は、まさに闇。そんな道を、あてもなく歩いていく。


「やっぱ、ここの星綺麗だなー」


 顔を上げれば、満天の星空が広がっていた。


「うん。月も綺麗」


「お? 愛の告白か?」


「は、はあ? 何それ?」


 心臓がズキンと高ぶった。トシは何をもって告白と捉えたのだろうか。


「ははは。もうちょい、勉強しとけ」


 そう言ってまた、私の頭を乱暴に撫でるトシ。私は、それを嫌がるように、トシの手を払いのける。本当は、嬉しいのに。


 重なり合う蛙の鳴き声。じゃりじゃりと、小石と砂の混ざった地を踏む音。会話のなくなった私たちの間には、そんな音たちだけが響く。


 本当は、もっといろんなことを話したいのに。でも、このまま、ただゆっくりと流れる時間に身を預け、静かに歩くのも悪くないかなとも思ってしまう。


 もう、あの日々には戻れない。なのに、今だけは戻れているような感覚。ソワソワと騒ぎてる柔らかい心。


 このまま、永遠に夜が続けばいいのに。永遠なんてないと分かっているのに、そう願ってしまうのは、まだ私が子供だからかな。


「トシ……」


 足が止まった。小さな声で名前を呼ぶと、トシは、ゆっくりと足を止め、「ん?」と顔だけをこちらに向ける。


「好き……」


 声が震えた。何を思ったのか、突然出てしまった言葉。恥ずかしくて、怖くて、唇を強く噛んでしまう。


 恐る恐る顔を上げると、トシは小さく微笑んだ。


「ありがとう」


 そう言ってトシは、ぽんぽんと私の頭を軽く叩いた。


 言葉の続きはなかった。それでも、そこに込められたトシの優しさのようなものが嬉しかった。


「奥さん、大事にね」


「言われなくても」


「てか、煙草やめろし」


 感情を心の奥底に閉じ込めるように、私は意地悪くトシをからかう。するとトシは、苦笑いを一つ浮かべた。


「それ、めちゃ言われるわ」


「あはは、やっぱり」


「確かに、やめんとな。さて……! 帰るか!」


「うん……!」


 家に着いた後は、特に何もなかった。トシは居間で寝ることになり、私は自分の部屋に戻って寝る準備をする。


 布団に入り、何も考えずに天井を見つめる。すると、今までの思い出が、走馬灯のように浮かんできた。


『トシー! オオクワガター!』

『千夏、それは、ヒラタクワガタ』


 今でも、違いが分かんないや。


『千夏、寝たの?』

『おばさん、俺が運んでおくよ』


 トシが私を抱きかかえて布団まで運んでくれた時、私、いつも起きてたんだよ。


『あ! 流れ星!』

『お! 急げ! お願いごとだ!』


 トシのお嫁さんになれますように……。


 スライドショーのように、次々と流れる思い出たち。どれも忘れることなんてできない。トシは……覚えてるかな。


 そして最後には、今日のことが頭に浮かんできた。


 言ってしまった。もう、終わってしまった。分かっていた。


 何度も何度も自分にそう言い聞かせても、涙が止まらなかった。



 翌日の朝。外ではお母さんとお父さんが、トシを見送ろうとしていた。


「千夏ー! トシ君行っちゃうよー!」


 行かなきゃ。分かっているのに、体が重い。それに、今の私は、絶対酷い顔をしている。


 けど……行かなきゃ。こんな別れ方は嫌だと、自分に言い聞かせる。ティッシュを一枚取り出し鼻をかむ。すると、不思議と心は引き締まった。


 よし……!


 外に出ると、車に荷物を積み終え、あとは出るだけとなったトシが待ってくれていた。


「トシーっ!」


「おう」


「ありがとね。あと……お幸せに!」


「うん。千夏も」


 なぜだろう……。もう二度と、トシに会えない気がした。根拠はないけど、心がそう教えてくれた気がした。だから、私は最後のお願いを、トシにぶつける。


「トシ……またね」


 そう言って笑顔をつくると、トシは何を言うこともなく、そっと微笑んだ。そして、手を軽く挙げると車に乗り込む。


 響くエンジン音。車はゆっくりと前進していき、少しづつ遠く、小さくなっていく。


 目に見えるものも、見えないものも、全部遠く離れていく。


 私は、その姿を目で追いながら、ただ必死に手を振り続けた。


 まだ、泣いちゃ駄目。なのに、大きく手を振る度、大粒の涙がぼたぼたと落ちていく。


 笑顔で送り出したかったのに。最後の思い出を楽しいものにしたかったのに。そう言い聞かせても、心は言うことを聞いてくれはしなかった。


 やがて車の姿は見えなくなり、私は腕を下ろす。もう、トシはいない。なのに、私はトシの見えない景色を見て、呆然と立ち尽くしていた。


 真っ青な空に浮かぶ、いつもより流れの速い入道雲。あの雲のように、この気持ちもいつか、どこかへいってしまうのだろうか。


 ううん。きっと……いつかは光り輝く思い出の一つになるんだろうな。

 

 それまでは……さよなら、あの日の夏の想い。

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さよなら、あの日の夏の想い。 小牧亮介 @Tamori_ryou

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